少女の教養
部屋に足を踏み入れる。かつっ、と沓の音がしん、とした部屋に妙に響いた。机をかわし一歩前に出ながら鉤爪を取り外す世仙を、青年は目を離すことなくじっと見ている。
「お前、名前は?」
「げこ仙です」
「楊世仙だったな。本当の名は?」
世仙の時間稼ぎも虚しく、青年は世仙の正体を全て見抜いているようで「ぐぅ」と悔しさに喉を鳴らす。
(楽勝だと思ってたのに……まさかこんな黒幕が出てくるなんて……! 予想外だわ!)
兄の死の真相を確かめるため、後先考えず都に行くことを決意した世仙に、同居人の女、荀郁が悪い目つきをさらに眇め言ってのけたことを思い出す。
「宮中にはね、馬鹿が多いですが、できる人はできるんです。お気をつけなさいよ」
「この前来たような民のことを考えない連中が宮中の人間なんでしょ? そんな常識のない連中なんかに、郁の鬼躾を受けた私が負けるわけないわよ」
「いいえ、躾だけではありません。わたくしはあなたに沢山のことをお教えしました。わたくしがいなくても、鼎柚さえいれば都では何も心配はいらないでしょう」
鼎柚はいえば寂しさを紛らわす愛玩蛙だ。それを何故瓶漬けにされて渡されたかは、世仙には知る由もない。
瓶を両手に持つ、裾や袖の解けた衣をまとう世仙の頭に郁は手を乗せる。長い狐色の髪も、宮中での立場を考えれば邪魔になるだろうが、どうか切らないでいなさい、という。
「あなたは馬鹿な子です。何も考えずに行動する。でも痛い目を見たことは一度もない。それはあなたが賢い子だからです。それを胸に、宮中であの子の無念を調べてきなさい」
教養のある馬鹿。郁は世仙をそう呼んで都へ旅立たせた。
(そう……宮中には馬鹿じゃない奴もいるけど、私は教養ある馬鹿よ……)
ぐっと、拳を握った世仙は俯きがちに、唇を震わせる。
「楊……世蓮」
「袍を脱げ」
「嫌です」
「なら即刻ここで首を刎ねてやろう」
「だいたい、脱いでどうなるんです? 不埒なことでもするんです?」
「お前が女であることを確かめるためのことであったが、気が変わった。首のない女体は裏で高く売れると聞いたことがある。掻っ斬ってやるから首を晒せ」
「あー! 待って! わかりましたからちょっと待って」
自身の体を抱く体勢をとり、世仙は軽い舌打ちをする。思いの外部屋に響き、向かいの
青年が眉を顰める。それと同時に腰に佩いていた刀の柄に手をかけた。
逆手に握られた刀の柄を見た世仙は、青年が腰に佩いている刀が海を渡った国のものであることを知る。
水姫国では戦闘の際に用いる刃物は両刃の剣が主流である。が、海を渡った先にある火妾国では片方だけを鋭く研ぎ澄ませた片刃の剣、通称・刀を主流としている。見目は剣の分厚く強情そうなものとは比にもならず、刃の部分は長いばかりで薄い。にもかかわらずこの刀、水姫国の剣とは比べ物にならないほど斬れ味がよく、大剣を振りかざして立ち向かってきた敵を、剣ごと叩き斬ったという逸話が残っているほどだ。そんな最強無敵ともいえる刀はもちろん火妾国より伝来しているが、そうそう易々と手に入るものではない。作るのに手間がかかるし、何より火妾国の人間が他国に喜んで授けたいものでもないだろう。
ゆえに世仙は、刀を授けられているこの青年を高い地位の人間と踏んだ。偽物刀と言われれば終わりだが、澄ました顔して斬れ味の悪い偽物を持たれていれば、逆に世仙の方が拍子抜けしてしまう。今までの挑発文句は何だったのかと。
さらにこの青年は他の靇禄軍の輩とは明らかに宦官への対応のし方が違う。今まで出会ってきた靇禄軍の輩であれば、宦官である世仙は窓際に手を忍ばせた時点で手首を斬り落とされていただろう。
(つまりはこの人、私の話に多少は耳を傾けてくれるかもしれない……高い身分であればそう簡単に人は殺さないでしょう。ましてや高価な、たぶん功をたてて授かったであろう刀をむやみやたらに血に汚すなんて、軍人としては考えにくい……)
青年から目を離さず、唇だけでぶつぶつ唱える世仙は傍から見れば変な人だ。窓際にいた鼎柚は腹を下につけ目を閉じ眠る体勢に入っている。
(世蓮は賢くて馬鹿な子だけどここ一番の引きは強いと信じて……!)
ぐっと自分の肩を抱く手に力がこもる。深く息を吸い、一世一代とも言うべき賭けに出た。
「確かに、私は女です。宮中の壁を壊してその壁から出てきたボロ布をまとって宦官という役職に身を偽りました」
と、何故かボロ布の辺りで青年は渋い顔をする。まだ本題どころか嘘すら言っていないのにこの表情は解せない。
「でもそれはあなた方靇禄軍の人たちがいけないんです」
「……ほう?」
表情を一掃した青年は、刀の柄に置いてあった手を放す。一先ずは臨時態勢をとってくれたことに、ほう、と息をつく。
「数か月前、都から実家の珪州に、都で軍人として働いていた兄が死んだという知らせをもらいました。死因は不慮の事故としか知らせてもらえず、遺体は軍側が預かるとのことで、私たち家族は兄の供養もできてないんです。その時うちに来た軍人が、靇禄軍でした」
と、宮中に来てわかったことなどを交え伝えると、青年はあからさまに表情を曇らせ一歩引いた。
「荀鵬全か」
「兄を知ってるいんですか?」
思わぬ手がかりを見つけ、表情を晴れ晴れさせて青年に近づこうとした世仙だが、咄嗟に刀の柄に手を置かれ肩を竦める。
「ところでお前、何故兄弟で姓が違う」
「それは……訳ありで……」
「言え」
両手の指を突き合わせながら口ごもる世仙だが、はっきりとした理由は知らない。同居人がそうさせたのだとだけ伝えた。ならいい、と青年も追及はしない。
「荀鵬全の死は、不明瞭な点がかなり多かった。それを見つけるまで、遺族を心配させまいとしたのかもしれない」
「余計心配になって田舎から来ちゃいましたけどね私。そもそも兄って、どこの役職にいたんですか?」
突如書物が乱雑した机まで移動した青年。動かずとも自然と隣に並んだ世仙が言った言葉に、青年は机上から物を探し出すのをやめた。
「宮官軍だ。何故身内が知らない」
「聞いても教えてくれなかったんです、私にだけ。でも何で宮官軍の人が亡くなって、靇禄軍の人が知らせに来るんです?」
「靇禄軍は主に雑用だ。皇帝の守りを任されている宮官軍がわざわざド田舎に行くことはない」
ふーん、と世仙がそっぽを向いている隙に、青年は何か一枚、紙を机上から見つけ出す。険しい表情で睨む紙面を、長身の青年の背に回り覗き込もうとした世仙であったが、あっさりと肩越しに裏拳を食らわされる。鼻骨に直撃したおかげで、一瞬鼻で息をする方法を忘れた。
「ふぉ~~~~~~っ! ってお兄さん!」
「丞猇だ」
「丞猇さん! 丞猇さんは宦官の私に触っても平気なんですか?」
「お前は宦官ではないし、その言い方からすれば何か誤解しているようだが、宦官に触れたところで特に害はない。穢れやら皇族信仰を信じる輩が、何の根拠もなく騒いでいるだけだ」
そのもののいいように、世仙は腕を組み、胸を張って鼻を鳴らした。
「お前、よくもまぁ宦官の姿で靇禄軍寮に侵入しておきながらそんな態度でいれるな」
「だって丞猇さん怖そうじゃないもん! 私殺されることなさそう! ほらね鼎柚、私いい子だから報われるのよ」
くるくる回りながら窓際まで行き、眠りについていた珪州蛙、鼎柚を指で突き起こす。
世仙の賭けは勝った。丞猇の人柄を身なり雰囲気で見抜き正直に暴露した結果、咎めはなかった。
「そうか……それは駄目だな……」
上機嫌で鼎柚を突く世仙に向き直ると、丞猇は突如机に背を預ける。
「お前は宮中に何の手続きもしないで侵入した罪人だ。その罰は首切りとまでは行かずとも、娼婦宿に捨てられる運命であろう」
え! と張った声は窓際、しんと静まった月灯りが照らす庭を反響する。世仙に突かれても寝たふりを決め込んでいた鼎柚も吃驚眼だ。
「ちょ、何言っているんですか急に……私の話聞いてくれてたでしょ? それに丞猇さんだって兄の死には不明瞭なことがあるって。てっきり協力とかしてくれるんじゃ――」
「だからどうした。俺は『不明瞭なことはある』と言っただけでお前の処遇を決めたわけではない」
はう、と丞猇に背を向け視線を逃れる世仙。げーこ、という鼎柚の人を馬鹿にした鳴き声が耳に入った。
「俺も靇禄軍の隊長だ。面子がある。罪人を捨て置くことは俺の名誉に傷がつく。だが、将軍より授かりし火妾国伝来の刀を血に染めることは極力したくない。……というわけだ、楊世仙、いや、楊世蓮。お前に選択肢はない」
今までの澄ました涼しげな表情は、まるで幻か。するりと窓をすり抜けやってきた夜風にさらわれていく。
「宦官間の出来事を、定期的に俺に報告しろ」
皮肉をふんだんに出した微笑を直に受け、世仙はこの人物との出会いが幸福であったのかわからず、口元をひくつかせた。