少女と宦官
珪州の実家に都から訃報を知らせに来たのは、黒地に金糸で龍が刺繍された戦袍をまとう、数人の男たちだった。
宵も更け、少女が寝台に忍び込もうとしていた矢先のことである。朽ちた木製の扉を乱暴に叩く音を聞き、同居人の女はあからさまに顔をゆがめて扉を開け、例の男たちを迎え入れたのだ。
『荀鵬全が、宮中内にて不慮の事故で殉死したことを伝えに参りました。遺体はこちらで回収し、墓場も宮中内に造らせております』
それでは、と、男たちはそれだけ言い、女が口を開く前に扉を閉めて去って行った。
来客に際し、卓に茶を並べていた少女は酷い耳障りな音をたてて閉まった扉を凝視し、ピクリとも動かない女のもとに駆け寄る。
『あの子……殺されたんだわ』
女は突如、唇を震わせた。次いで溢れだした涙を、少女は黙って見ることしかできない。
『泣き虫の、彪に殺されたのよ……!』
わー、と泣き声を上げながらその場にしゃがみ込む女の肩を支える少女は、この女よりも“泣かなければいけない”立場であった。だが、泣くに泣けず、ただ女の背に手を回し、宥めることに専念する。
荀鵬全は――少女の兄は何故死に、この女は何故“殉死”と聞いて“殺された”と言っているのか。
それらの理由を知るまで、少女は泣けないような気がした。
掛け声をかけながら駆ける少年の目に開けた中庭が入ってくる。そこにはすでに自分と同じような服装の老若の男たちが整列させられていた。
「あー! 待って! 私もです私も!」
抱えているものを落とさないよう、器用に片手で抱え直しながら手を振る。声に気づいて振り向いたのは、少年と同じ袍子をまとう男たちではなく、黒い戦袍をまとう一人の男だった。
反射的に、少年は足を止めてしまう。急に止まり、抱えていた書物は慣性によりすべて芝生の上に放り出される。
「早くしろ宦官」
黒い戦袍を着た男は古傷だらけの顔を少年に向ける。苛立ちを張り付けた顔を見て、少年は慌てて書物を拾った。
(黒地に、金の龍……)
遅れてすみません、と口だけで答えながら、少年は厳つい男の衣服を盗み見ながら指示された場所まで駆ける。整列した位置で、丁度金糸の龍と目が合い、つい睨み返す。
「……おい、お前。名前は?」
何やら表のような紙を見ていた男の顔に目線を移し、背筋を伸ばすと少年は高らかにはきはき名を述べる。
「楊世仙と言います!」
「そんな新人宦官はいない」
(まずい……)
笑顔で固まった少年、世仙は自分の頬を流れる汗に気づきながら無視した。
「そんなはずありません! 私この役職に就くためだけに田舎から出てきてわざわざ手続きして難しい試験を乗り越えたのに、あれは意味がなかったっていうんですか? 酷い! 都ってそんな酷い所だったんですか! 田舎者の純粋に宮中で働きたい気持ちを弄ぶなんて……!」
感情的に叫び、手の甲で涙を拭くふりをしながら頬の汗を拭く。その光景を、隣や後方から、同じ袍子を着る男たちが不愉快そうに眺めているのを、世仙は気づいていない。
黒い戦袍の男は胡散臭げに小柄な世仙を見下ろす。しばらく世仙の束ねた髪が適当に詰め込まれた宦官帽を凝視していたが、不意に世仙の抱える筆と硯を取り上げ、表に世仙の名前を記入した。
「まぁ、宦官が増えたところで誰も損はしねぇしな。……人数確認は以上だ。次に身体検査、と言いたいところだが。俺は極力、宦官なんて言う汚れたもんに触れたくないんでな。解散だ」
硯と筆を投げつけるように世仙に返し、手をはたくと表を小脇に抱え男は皮肉気に笑い、忌々しそうに睨んでくる宦官を見回した。
「では諸君。短い宦官生活を満喫したまえ」
戦袍の男が踵を返し、その場を離れると同時に、整列していた男たちが各々足を進めて中庭を離れていく。
ぽつん、と一人残った世仙は、周りに誰もいないことを確認すると、にやりと顔の反面を吊り上げた。
(なーんだ、簡単じゃないの。郁にだいぶ脅されたけど、たいしたことないわね)
世仙は先ほど投げ返された筆を持ち、白紙の紙を一枚取り出した。
(私の役職は、宦官っと……忘れそうだから書いておこう)
お世辞にも丁寧とは言えない、軸の定まらない字が書かれた紙を二回畳み、胸元に忍ばせる。
それからまた周りを見て、大半の宦官が歩みを進める方へと駆け出した。
新人宦官招集の様子を、二階の自室から窓も開けずに眺めていた青年は深いため息をつく。
「黒だな」
「隊長の腹がですか?」
事務用の机を整理していた少年が、唇を尖らせながら言う。机上の整理を任されたのが不本意らしく、不満たらたらであったが、青年がゆっくり無表情を少年に向けると、すみません、と表情を引き締めいそいそと机を片付け始めた。
「身体検査は必ずしろとあれだけ言っていたのにな」
小声で呟いた声に少年は気づかない。また外に目線を向けた青年は、宦官寮の方へと駆けていく一人の少年の背を見送った。
その後ろ姿が、どことなく懐かしく思い、青年は昔に思いを馳せるよう、目を閉じた。
寮に着いた世仙は、入り口付近でただ立ち尽くした。石造りの屋内を覗き込み、その老朽具合に思わず既視感を覚える。
(実家の家畜小屋みたい……)
ここ、水姫国で最も田舎といわれる州、珪州で育ちである世仙にとって、宦官寮の天井端に巣をなす蜘蛛の存在にさえ親近感を抱く。寮内を行きかう宦官が、たとえ粘着質な巣にかかり悶える蛾の存在を恐ろしげに、痛ましげに見て見ぬふりをしていたとしても、水姫国の都、流禅に身一つで珪州から出てきた世仙にとっては、巣にかかった獲物を察し、目にもとまらぬ速さで白糸の上を駆ける蜘蛛の姿は何とも心和む光景だ。
「あー、ブンブン元気かな~」
「……君、ちょっと変わってる子だね」
家畜小屋に住み着いていた、人の顔みたく大きかった蜘蛛を思い浮かべていたところで声をかけられ、慌てて思考をやめる。
声を振り向けば、白い袍子服に同色の帽をかぶった青年が、呆れ顔で世仙を見下ろしていた。
「あれを見てにやけるなんてね。年寄ならともかく若い人には珍しいね」
あれとは言うまでもなく蜘蛛の巣のこと。実家の顔面蜘蛛に思いを耽らせていたせいで気づかなかったが、巣に絡まっていた蛾は、すでに繭と化していた。
「ちょっと実家を思い出していたんです」
「もうちょっと綺麗なもので思い出してほしいものだよ、故郷って」
頬を引き攣らせながらため息をついた青年だったが、さほど冷然な目線は向けてはこず、それどころか温和な、万人を受け入れるような優しい目で世仙を見ていた。
「はじめまして、楊世仙。僕は夏口祝。今日から君の世話を任された先輩みたいなものだよ。直前入隊だって聞いてるけど」
青年、祝は柔和な笑顔を深め、世仙に手を差し出す。その手を嬉しさのあまり、勢いよく取ろうとして動きを止める。祝の差し出した右手が小刻みに震えていたからだ。ちらっと盗み見た表情からは温和な笑顔しか見受けられず。震えの原因は判らない。衝動を抑え、ゆっくりと手を取り、軽く握り返す程度に抑える。
一通り挨拶を済ますと、祝は部屋まで案内してくれた。石造の平長屋には光を取り入れるための天窓はあるが、窓という窓は見当たらない。暗く寒々とした廊を、沓の底を鳴らしながら歩いていく。
祝と同室らしい世仙の部屋は、寮内で一番陽当たりがよく、神経質で潔白を愛する宦官にとっては最も好まれる部屋であったらしいが、ここ数年は人気がないのだという。
「陽の当たる部屋はいくつかあるけど、おそらく使われているのはここくらいだよ」
「何でです?」
「……一番靇禄軍の寮に近い位置なんだ」
案内された部屋の中は確かに陽当たりはよいものの、こじんまりと狭く、二人部屋の印象を与えない。大きな窓の向こうは四阿のようになっており、庭への出入りが可能だった。部屋の中央には卓が一つあり、部屋の両端には寝台がある。
卓の上に書物などを置いた世仙は、錆びついた窓の鍵を開け外に出た。高欄に手をかけ見回す。真正面には丁度、皇帝がおわす御殿の側面が目に入った。黒石でも使用しているのか、建物の表面は黒く、所々彩色に金が使われており、黒で威厳を放ちながらも金で豪奢さを物語っていた。
「大きな御殿ですね。さすが皇帝様が暮らしてるだけあるって感じです」
「御殿じゃないよ。あれが靇禄軍の寮」
「え、あれ軍人さんの住んでるところなんですか?」
思わず目をこすり、もう一度正面の御殿を凝視している世仙の隣に並んだ祝が、左側を指さす。すると正面と同じ造りの建物がすぐ傍にあった。目の前に見える例の御殿の最端部だろう。窓の数を見る限り、三階建ての造りだ。
「靇禄軍寮は中庭よりずっと向こうからあるんだよ。ここまで」
今しがた、中庭から宦官寮まで走ってきた距離を思い出す。木々しかない、何の変わり映えのしない景色だったせいもあるが、かなりの距離を走った気がする。その長さ以上に、この黒い建物は大きいというのか。
「………私の実家、何個分だろう」
「世仙、やめよう。虚しいだけだから」
遠い目で靇禄軍寮を見上げる世仙の背を祝は優しく撫でる。そのまま何かを警戒するように忙しく部屋に入れようとした矢先。
「おい、そこの宦官共」
意識を遠くにやっていた世仙を引き戻すようなどす利いた声が響き、目線だけをそちらに向ける。同時に眉を顰めた。
(黒い戦袍に金の龍……)
二人組の男たちが世仙たちのいる四阿に近づいてくる。芝生を踏みしめる音が近づくにつれ、世仙の意識が昂ってくる。
「噂をすれば靇禄軍だ。世仙、部屋に入ろう」
「あれが靇禄軍なんですか」
小声で言った祝に対し、若干大きめの声で聞き返した世仙に、祝は蒼白とした面を向ける。当然、靇禄軍の男たちも世仙の物言いを聞き零さなかった。
「おい餓鬼。何だその物言いは。立場を弁えろ」
「はいはーい。どうもすいませんでしたー」
こら、と祝が世仙の飄々とした物言いを抑えるために口を塞ぎにかかったが、時すでに遅し。男たちの目の色が変わった。
「この、くそ餓鬼っ!」
四阿まで来た一人の男が世仙の胸ぐらを掴み上げると、難なく高欄を越え引き下ろす。
「っと」
簡単に胸ぐらを掴まれ持ち上げられた世仙は驚く様子もなく、静かに男を見下ろす。
「お前、見ない顔だな。新人か? なら一回痛い目でも見せとかないとな」
「はーい新人ですー。何にも知らない幼気な新人さんを苛めるなんて、お兄さんたち一体何者なんですー?」
世仙を持ち上げていた男の額に青筋が浮かぶ。息を詰まらせて場を見守っていた祝は両手で顔を覆った。
「くっそ餓鬼が……!」
「おい待て!」
男が拳を振りかぶった瞬間、傍らで突っ立っていた男が行動を遮る。何だよ、と不愉快気に振り返った男に目もくれず、遮った男はしゃがみ込むと足元に落ちていた瓶を拾い上げた。
「お前、これって珪州蛙の瓶漬けじゃ……」
瓶の中身をまじまじ見る二人の男。世仙のことなど忘れ、胸ぐらを掴んでいた手は既に瓶を取り上げていた。
珪州蛙の瓶漬けとは、肺の病に必ず効くと言われている良薬だ。珪州にしか存在しない、黄色に枯れ草色の斑点を持つ蛙を生きて酒に一月ほど漬けておく調薬で、都では手に入らない貴重な薬だった。
「ちょっと。それ私の何ですけど」
そんな薬が何故こんなところに、と唖然としていた二人の軍人は、声を荒げ二人の間に割って入ってきた宦官を見下ろす。ぷくっ、と頬を膨らませ両人を交互に見て珪州蛙の入った瓶を取り返そうとした世仙だが、容易く瓶の持った手をかわされ、どさくさ紛れに頭部を殴られる。
「いって!」
「おっと。俺らに無礼働いてただで済むと思ったか餓鬼。撲殺で片付けてやろうと思ってたのを一発で済ましてやったんだ。これは貰っていくぞ」
瓶を戦袍の懐にしまうと、男たちは踵を返し寮に帰って行く。
「~~~~っ! 一発っつっても地面が割れそうな破壊力だよ~~~~っ!」
「世仙!」
殴られた頭を抱える世仙の襟首を掴み、祝はいそいそ部屋に入り鍵を閉めた。
「祝さん! 何なんですかあの靇禄軍っていうのは! 新人集会の時にも思ったんですが態度悪すぎません?」
「……君、今生きてるのが奇跡だよ」
与えられた寝台に腰掛け、窓際に立つ祝の背中を見上げる。肩で息する祝の手が硝子に触れていることにより、部屋にはかたかたと音が響いた。
その冷静さの欠かれた状況を把握し、世仙は口を一の字に噤む。
「靇禄軍は宦官にとって、最も嫌悪すべき天敵なんだよ」
靇禄軍寮の廊を小走りに走るのは二人の男。片方の男の手には帰ると赤い液の入った瓶がある。先ほど小生意気な餓鬼宦官から取り上げた薬だ。
「兄貴、これでおふくろの……」
瓶を持たない男が笑みを堪えながら、声をかける。それに頷き返す男の表情も、笑みを耐えていたのだが、突如聞こえた前方からの足音に気を締める。
二人の前方に立つのはまだ年若い青年。黒い髪に一重の切り目がはえ、二人は咄嗟に身構えてしまう。青年の背後には背の低い少年が控えている。
「丞猇隊長……」
男は持っていた瓶を背後に隠す。それを見逃すはずもなく、青年は手を差し出す。
「出せ」
「何のことでしょうか」
「さっきお前らが宦官から奪った物だ」
兄貴、と青年を睨んでいた男をもう一人が観念しろと声をかける。それでも渋る男に対し青年は息をついた。
「肺病に効くのは溶液だけだ。溶質の蛙だけ寄こせ」
その言葉に二人の男もだが、背後に控えていた少年も「えぇ?」と声を上げる。
「蛙なんてどうするんですか?」
「黙れ熊」
瓶の蓋を開け蛙を取り出すと青年の掌に乗せる。
「おふくろに持って行きたいなら今日中にしろ。明日からは侵入者への対策で忙しくなる」
青年の言葉に男二人は息を詰まらせる。ありがとうございます、というと二人で廊を駆けていく。
「隊長、蛙なんて本当に何に使うんですか? しかもコイツ死んでるんでしょ?」
少年は青年の掌で仰向けになる、息一つしてない蛙を間近で見、奇妙な色にウゲ~、と身を退き顔を顰める。
「……熊、お前今日はもう俺の部屋に来なくていい」
青年はそれだけ言うと、蛙を掌に乗せたまま自室に引き返して行った。
ずっと窓の外を見てたと思えば急に外に行くと言い出し、部下の持つ蛙が欲しいと言って貰えば貰ったで部屋に引き返していくという謎の上司の行動に、少年は首を捻る。
「蛙……部屋に来なくていい……夕暮れ……」
一人廊に残された少年は天窓から入る陽の光がやや橙を帯び始めていることに気づく。
「……まさか! 隊長にそんな趣味が……!」
今晩、上司の部屋で行われるかもしれない残酷な光景を思い浮かべると、少年は吐き気を抑えられず口を押えるのだった。