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序章

 芝の踏む音が軽快に響く。

 書簡を胸いっぱいに抱えて駆ける少年は、時折文書などを落としながらも、面倒がるそぶりも見せず、それどころか何が可笑しいのか楽しそうに文書を拾って、また走り出す。

 雲一つない空に現れた陽に照らされる髪は狐の毛並のような、淡い茶色をしており、かなり量があるのか、束ねきれず頭部を覆う布に収まりきらなかった髪は、風に羽衣のように揺らされている。

 樹木が立ち並ぶ芝の道を満面の笑顔で駆ける少年。ふふ、と含み笑いを漏らした途端、まとっていた袍子の裾を踏んづけ、書簡、文書、筆や硯などを目と鼻の先より遠くに飛ばし、豪快に転ぶ。

 それでも少年は大声で笑っていた。

「おい、坊主。大丈夫か」

 聞こえてきた大きな笑い声に、庭の剪定をしていた白髪の男が、樹木の影から顔を覗かせる。はじめは何事か、と心配げに覗いていた男だったが、うつ伏せに転んだまま大笑いしている袍子姿の小柄な少年を見て、一瞬にして表情を曇らせた。

「宦官か……」

 男は軽く舌を打つと、樹木の影に隠れて、木の枝を小さな剣で切り落としていく。

「ふふふー、大丈夫です―……って、誰もいない」

 派手に打った鼻を撫でながら、かけられた声の方を見た少年だが、そこには樹木に隠れた男の姿は見受けられない。

「……気のせいかな? まっ、いいや」

 よいしょ、と声を出しながら立ち上がった少年は、腰の帯を一度締め直し、遠くまで飛んだ書簡などを拾い集めると、また軽やかな足取りで駆けはじめた。

 少年の足音が遠のくのを確認すると、男は姿を現し、少年の駆けた方を睨む。

「……何で宦官が、あんな楽しそうにできるんだ?」


 石壁でできた部屋の窓際に、一人の青年が立っている。

 書物が乱雑した事務用の机には目もくれず、その机の前では、何やら報告をしに来た少年が、苦そうな顔で机上の具合を睨む。

 二人とも似た黒い戦袍をまとっている。袖や袂、背広部分に至るまで金糸で刺繍されているのは、何匹ものけたたましい龍の姿だ。龍の視線の先こそ窺えないが、おそらくは何か獲物を睨んでいる。金糸一本でその迫力を表現できるとは、職人技の極みである。

「机が少々荒れてますね。ここだけ嵐でも来ましたか」

 少年が机上を睨んだまま、目元を痙攣させながら述べる。だがその皮肉は弱弱しく、どことなくびくびくしている素振りがうかがえるのは、窓から外の景色を眺める青年が自分よりも年上で、位にも差があると認識しているからだろう。

 なら何も言わなければよいことなのだろうが、ちょっとしたことでも述べておかないと、この寡黙な青年と同じ空気を共有するのは精神的に持たない、ということを少年はほんの数か月の側近生活で身につけた。

「……小言でも言わないと、俺と空気は共有できないか」

 ぐぅっ、と少年が息を詰まらせたと同時に青年が荒れた机を前に席に着く。

「で、何だ」

「……宮中に不法侵入者がいるかもしれないという報告が、二軍部隊からありました」

「かもしれない?」

「宮中を囲む塀の一部が破壊されているそうです」

「うちの塀はすべて石製だ。老朽だろう。上に嘆願書を出して早急に修理の手配をしろ」

「いえ、それが……石塀ではなく、土塀の方だと……」

 やや目線を青年から逸らして述べた少年は唇を噛んだ。今まで上司に怯んでいたとは思えないほど表情を屈辱的に歪ませた少年を見て、青年は乱雑した書物の上に肘を置き頬杖をする。

「……宦官塀か」

「あんな所に近づくなんて、宦官くらいですよ。今すぐ宮物破損で犯人を見つけて司法部隊に突き出しましょう」

「失礼します」

 声を荒げ今すぐにでも部屋を飛び出していきそうな少年の熱を冷ますように部屋に入ってきたのは一人の兵だった。一礼し、扉付近に立つ。

「宦官塀破損に際して、目撃者が居りました」

「おそらくそいつが犯人だ。自分が壊したにも関わらず他人に罪を擦り付けようとしているに違いありません。その目撃者である宦官を処罰しましょう」

「黙れ(ゆう)。目撃者が宦官と決まってないだろうが」

 少年に一喝入れると、青年は目だけで兵に次を促す。

「目撃者は城下で宦官塀付近に住む住人です」

「そんな所に住んでる人がいるんですか。気味悪い」

 眉根を歪ませ心底汚れたものでも見据える目で言い放った少年を青年が睨んで黙らせる。睨まれた少年は肩を竦ませ一歩身を退いた。

「住人は昨晩、鈍器で何かを殴るような音が屋外から聞こえてきたらしく、気になり外に出たところ、宦官塀を子供位の大きさはある木材で殴る、髪の長い女を目撃したそうです」

 ひい、と少年が声を上げる。青年は普段と変わらぬ口調で先を促した。

「……場所が場所なだけに、住人も飛んで逃げたようで、そこから先は見ていないとのことですが」

 以上です、と言って兵が部屋を出ていくと、少年は顔を真っ青にして机上を叩く。

「隊長! これはもしや宦官を身内に持っていた女が死んで現れたんですよ! 絶対あの塀の中に家族か恋人が埋まってるんで探しに来たんですよ! 今すぐ上に嘆願書を書きましょう! 宦官塀を取り壊せって!」

「落ち着け。宦官塀に宦官が埋まっているのは迷信だ。……だが、その迷信を城下の人間殆どが信じ切っている。城下の盗人が、いくら警備が薄いからと言って近づくような場所ではない」

 指を顎に乗せ、思案顔で述べていた青年は突然少年を振り仰ぐ。

「宮中に何者かが侵入したのは明確だ。直ちに宮中の軍と連携し探し出せ。犯人は女だ」

「それだけでは情報が薄いです」

 少年の的確な問いに、青年は大きく息を吐き、椅子の背もたれに豪快に凭れた。

「宦官のことを何も知らない、田舎女だ」


 宦官とは。

 宮中で働く、去勢した男の通称である。去勢することにより、宮中で男女間の不義が行えないことで優秀な官吏とし、昔より宮中で行われる政の中枢を担った。

 だがそれは十六年前までの話であった。


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