ACT 1-5
深層心理。人の心の中の奥深く。それは、人間自身も気付く事の出来ない場所でもある。自分では思っても見なかった事が、自分にとっての快楽であり、憂鬱でもあるのだ。その本人にしてみれば、他人から指摘されようともそのときは一切理解が出来ない。当然だ、それは自分の思考回路では導き出せないものだからである。
そのまま気付かない欲望かもしれない。一生かけてそれに気付かない人間も多いだろうし、恐らく、それが普通だろう。ふとした時に深層心理の中にある「本当の自分」に気付けたのなら―――それはとても幸せな事なのだろう。
灼熱の夜。どうしようもないぐらいの暑さに、一世はため息を吐く。こうなってくると、一刻も早く用事を終わらせて、自分の住むマンションに戻りたいところだ。夜の暑さは、太陽の光が無い分、幾分か控えめではあるが、張り付くような気持ち悪い暑さは夜でも変わらなかった。
時刻は二〇時半。外を出歩く人間は多く、中心都市に出ていた人間たちが電車に乗って帰ってきた頃合。駅前から続く住宅地への道は、スーツ姿の男たちで溢れかえる時間である。その中を逆流し、中心街へと向かっていく一世は、ポケットの中に入っている代物に意識を向ける。
彼のポケットの中には、いま、裏で流通する例の『B.M.』が入っている。それともうひとつ持っているのが、マナ特製『A.B.M.』と云う薬物である。……つまり、『アンチ.B.M.』と、彼女は説明していた。それなら最初からそういえば良いと云うのに、彼女はこういったところに無駄なこだわりを見せる。
―――結論から言うと、今回一世が捕まえた男は、薬物を製造している人間ではあったが、その能力を渡した存在ではなかった。つまり、生粋の魔術師ではないと云う事なのである。このあたりは、マナの予想が当たった結果になる。何者かと契約を交わし、そして魔術師になった。そしてその魔術を悪用―――あくまでマナの表現だが―――していた訳である。
曰く、『B.M.』は人間の脳機能に魔術的『呪い』を施す事によって、人間の欲望をコントロールする代物だと言う。
一世にしてみれば何を言っているのかさっぱりな話だったが、マナが要約した言葉で言うのであれば「暗示」「催眠術」の類である。
魔術師であれば、簡単な暗示、催眠程度なら出来るとの事である。つまり、それを利用して、この薬物は作られた事になる。
この手の代物は、一般で出回っている薬物と一緒である。服用を続ける事で、その自分を解放すると云う「開放感」が快楽になってしまい、抜け出せなくなる。『B.M.』に至ってもそうだが、マナ曰く、この『B.M.』の副作用はまだ優しいものだそうだ。
魔術的要素によって作られた暗示薬であるのなら、時間経過と共にその効力は落ちてくる。当然、魔術師が魔力不足になった際に魔力を補充、魔力を欲するのと一緒で、埋め込まれた暗示魔術は落ちた効力を取り戻すように魔力―――つまり『B.M.』を欲する事になると言う。
その点に関しては、製造していた男も狙っていたところであったと言う。薬物といえども、それは検出される代物ではない。魔術師にしか解らない、観測出来ない魔力と云う不可思議要素によって引き起こされているものなのだから、普通の病院では発見は難しいだろう。
使用していた調合の基の材料も、有名な薬草などが中心だったらしい。そのあたりは一世も解らない世界なので、あまり聞いていなかった。
女性にしか効力が薄いと云う点は、男にしてみれば狙ったものではなく、そちらは体質に左右される故に、今回は男性女性と、性別の方に偏った、と述べていた。男にしてみれば、それは嬉しい誤算だったのだろう。その方が売れる。
この手の薬物は、女より男の方が売れる。当然だ、性欲を持て余すのは男女共通だったとしても、一般的に性欲を暴走させるのは男なのだから。
媚薬。そう言った表現が正しい。そういった気分に催眠させるのだから。
一世にしてみれば、気持ちが解る部分と、馬鹿馬鹿しいと思う部分と、半々である。これでも年頃の男だと云う点を思えば、興味がないと言えば嘘になる。ちょっとした仕草や、ちょっとした言葉を勘違いするし、惹かれる。なお、それはあの弐栄マナには適用されないものではあるが。
得体の知れない存在に対しては心を開かない。一世には彼女はどうしても異性のようには思えなかった。
〝それに、腕の件もあるしな〟
ふと、右腕を押さえながらそう心の中で思い出したかのように呟いた。
首を振って、いまはそれどころではない。それに、考えても仕方の無い事だ。これ以上の模索も、これ以上の考える時間も、無駄だ。
まずは、やるべき事をやらなければならないのである。本来ならもっと早い段階で行くべきだったのだが、男の尋問や、マナの別用件に付き合っていたので結局丸一日掛かってしまった。
連絡は先ほど入れてあるので、向こうも、こちらが向かっているのは解っているはずだ。ポケットの中に入っているそれを再度確認して、一世は目的地に向かう。
場所は中心街……からちょっと先の方にある場所。一世の家からすればそのような表現になる。そこに建っているアパートの三階に、目的の人物はいる。
つまり、今回の依頼主である、一世の後輩である。『B.M.』を過剰投与した事による副作用、つまり魔力欠乏を起こしている状態の彼女を匿っている。
今回の依頼の達成目的としては、ポケットの中に入っている『A.B.M.』を彼女に投与する事で達成出来る。……のだが、一世はもうひとつ『B.M.』をもってこの場所を訪れた。
アパートの階段を登るたびに、乾いた音が響く。ふと、視線をアパートの廊下に向けると、あまり人は住んでいないらしい。ドアノブのところに、カードが掛かっている。
足を止めて、地面の方に目を向けてみる。なにか、ペンキを撒き散らかしたかのような……そして何かを引きずったあとのような……
「……」
一世は何も思わなかった。
おかしいとも、思わなかった。
恐怖も感じなかった。
いつもどおりだ。
そのまま、階段をのぼる。三階にたどり着くと、目的の部屋の前まできた。
おかしなもので、その扉にもペンキが塗られていた。このアパートでは、アパートの壁にペンキを塗るのが流行っているのだろうか? それとも、近所の莫迦の悪戯なのか。一世はそう思いながら、ドアノブに手をかける。
■■■
ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ。
たん、たん、たん。
ぺた、ぺた、ぺた。
俺がその空間を眺めたとき、最初に感じたのは「ペンキにしてはちょい赤すぎる」と言う事だった。
ぺちょ、ぺちょ、ぺちょ。
しゅ、しゅ、しゅ。
ごり、ごり、ごり。
だが、ちょっとだけ、同情した。
こいつは「運が悪かった」んだ。
たまたま、こいつは体質上そういうタイプで、偶然それを手に入れてしまって、好奇心で使ってしまって…………
結果このザマだよ。
「あら、一世先輩。お久しぶりです」
「よぅ、チョコレート後輩」
気さくに、よっ、と手を挙げる。まぁ、ぶっちゃけ、そんな状況ではないんだろうな、多分。
チョコレート後輩こと、俺のもうひとりの後輩である周防セナは、全裸の状態で俺の依頼主の後輩クンの上に跨っていた。
お邪魔したかな? あ、いや、エッチな方な話じゃなくて。
「お前、そいつ……死んでるのか?」
念の為に聞いておく。正直、この惨状を見ればバカでも解る。
死んでるよ。
「えぇ、たぶん」
ぺちぺち、と後輩クンの顔を平手で叩くチョコレート後輩。
「それより……」
次の言葉を言おうとしたところで、先手をとってセナが口を開いた。
「持ってきてくれましたか?」
「ん? あぁ。これか?」
ゆっくりとした動作で、俺はポケットの中に入っている『A.B.M.』を取り出す。
「いえ、違いますよ。もうひとつ……入ってますよね?」
にっこり天使の笑顔。
「俺が依頼を受けたのは、そっちなんだけどな」
そっち、って言うのは、セナの下にいるアイツの事。
よくみると、足元に血でなにか書かれてるな……まぁいいか。
「先輩。先輩が悪いんですよ?」
突如として話題を変える。おい、頭大丈夫か? いや、多分大丈夫じゃないんだろうけどさ。
「私の事を見捨てたから」
「いやいや。悪いけど、アンタは俺の好み……ではあるけど、なぁんかソリが合わなさそうだったから辞めたんだって」
そう、こいつをチョコレート後輩と呼ぶのは、この後輩ちゃんが俺に本命チョコレートを渡してくれたから。
いや、死ぬほど嬉しかったデスよ?
けどほら、世の中には好み以上にちょっとね、体質というか、性質というか、ソリが合わないタイプっているじゃないですか。俺はそっちを優先して、保留っていうか、お断りと云うか、あぁ、思い出した!
『友だちから始めてくれ』
って、事を言った気がする。テンプレだな。
そこから始めれば、もしかすればなんとかなるかもしれないし、な。ほら、見た目は好みだし。
だがどうにも、その回答は彼女にしてみれば気に入らなかったらしい。残念。
おかげで、彼女は後輩クンとお付き合いを始めて、今に至る、と……
「ん? ここまで俺のせいでそうなった理由があったか?」
「……ありますよ。私を捨てて、先輩はいつからか私を避けるようになって……さびしい……さびしい……」
「はいはい。それは申し訳ない。だったら友だちから始めてくれればよかったじゃないか」
「それじゃ足りないんです!」
……だ、そうです。
「先輩。先輩。先輩」
だいぶ、壊れてきたな。
―――『B.M.』。
深層心理の欲望を取り出す。催眠によって、性欲に変換する。結果、媚薬になる。
けど……世の中には体質上、魔術の根本とする魔力と相性が良すぎて、暴走するタチの悪い存在がいる。それは、普段なら遭遇する確率は低いし、魔術師でもない存在が魔術と関わる確率なんてのは低い。
運が悪かったのはそこ。たまたま彼女は『B.M.』を用いた乱交パーティに参加し、たまたま服用してしまった。
んまぁ、最初は大丈夫だったかもな。けど、だんだんと壊れてきて……
後輩クンが助けを求めたのはそんなところか。取り繕って理由をつけたのも、恐らく俺と云う存在がいたからか……? いまとなっては、確認のしようがねぇけどな。
んで。
色々と肥大化しちまったコイツは。
「あのペンキ……全部、血だったのかァ」
「はい。そうですね。やり方は、知っていたので」
もはや黒魔術じゃねぇか。
死屍累々。このアパートに大量の死体があるって事か。んで、血を使った魔方陣で仕上げってか。
けど……ひとつだけ、気になる事がある。答えてくれるかどうかは解んねぇけど、一応、訊いておくか。
「それ……誰に習った?」
セナはちょっと笑って。
「親切なお方に」
きらっ、と光った。
手に握ったナイフ。
ずぶっ、と。
俺の首、大動脈に向かって―――
「あれ?」
―――セナは首をかしげた。かわいい。
「先輩……なんで……」
ん。まぁ、ほら、世の中にはさ。
「死なないんです?」
上には、上がいるって事で。
ごぼ、ごぼ、ごぼ。
俺の右腕が黒く、うごめく。
ナイフを飲み込んで。
そのままセナの体を掴む。
「ひ―――っ」
それは恐怖の叫びなのか。
うん。
多分。
だって、俺には恐怖と云う感情がどうにも理解できないんだ。
黒いソレは彼女のカラダの中にあるそれを根こそぎ喰らい尽くした。