ACT 1-2
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「―――『B.M.』?」
『そうです』
受話器越しに聴いた言葉を、忘れないようにメモを取る。自慢じゃないが、俺の記憶力のなさは異常。いやマジで。
なんでそんな事を忘れてしまうのか自分でも解らないぐらい、記憶力が乏しい。そう云う病気なんじゃないかと思って、一度診察を受けた事があるぐらいだ。……まぁ、別に問題はなかったワケだが……
そんな事を言いたいんじゃなくて、要は、俺は忘れっぽい。だからこうして重要な事はメモを取って確認をする事にしているワケ。
で、その『B.M.』ってヤツなんだが……いわゆる、新種の麻薬ってヤツだ。
「……合成とかじゃなくて?」
別に詳しいワケじゃないけど、まぁ、年頃だ。そういう危ない話はよく耳にする。
合成って云うのは、所謂薬同士を合成して楽しむヤツ。まぁ、何て言うか、単品だけでは刺激が足りなかったりすると、そっちに走りたくなる。あとは、お金のない人間が、片方ずつ少量買って楽しむとかね。
『違います。本当に〝新種〟らしいです』
なかなか珍しいな。
新種なんてのは中々発見できるものじゃないし……もしかすれば、ちょっとした栽培の違いとかしてんのかもな。医薬品とか、漢方とかを作る過程で見つかったヤツかもしれない。
「一応聴くけど…………オマエ、服用とかしてないよな?」
『まさか! それなら正常になんていられませんよ!』
とは言っても、そう云うグループにいるって事だからなァ。ま、このさいそこはどうでもいいや。あんまり探っても意味ないし。
しかし正常でいられないか……それほどまでの効力をもった興奮剤とか……もはや媚薬だな。
媚薬なんてものは現実には存在していない。そんなの、神さまとか、天国とか、地獄とかと一緒で本当にあるかどうかも解らないもの。十中八九、存在していないものだな、うん。
「媚薬みたいなものなのか?」
まぁ一応、他に出せる言葉もなかったし、口にしてみる。
『そうです、まさにそんなカンジです。最初はそこまで乗り気じゃなかったのに、突然人が変わったかのようになって……』
「催眠薬かよ……」
『本当にそんな風にしか見えないです』
「……本当に興奮剤なのか……?」
到底信じられない話だ。
頭を掻きながら、目の前のメモ帳になぐり書きにされた文面を眺める。
「他に知っている事はあるか? 特に麻薬について。どう云う風に服用するんだ?」
『そうですね……実は、服用事態は女子には解らないようになってるんです』
「こっそり、か」
『はい……』
受話器の向こうで肩を落としている姿が浮かぶような口調で、彼は言った。
『服用するときは、コーヒーとかに混ぜてますね』
「コーヒーか……。なるほどね」
まぁ出されれば飲むよな、喉渇いてなくても、飲み物って出されたら一口ぐらいは口にするわな。
コーヒー以外にも、ジュースや、酒などにも混入させるらしい。まぁ、酒に至っては、これぐらいの未成年の人間は興味を持ち始めるくらいだからな。
で、一口飲めば即効か。
強い薬である事は解ったけど、ますます現実離れした代物だな。そんな薬、本当にあるのか?
「男は飲まないのか? 精力剤とかそう云う効果は?」
『ないですね。男には、ちょっと気持ちよくなるぐらいの、本当の薬らしいですね』
女子が飲むと媚薬で、男が飲むと麻薬、か。
……なんだそれ。ピンポイント過ぎんだろ。寧ろ、本当にそう云う行為の為だけに作られたようなヤツにしか思えない。
「都合が良い薬だな」
『オレもそう思います』
「……ちなみに、オマエこうして普通に電話してるけど、大丈夫なのか?」
それはふとした疑問。
助けを求めるって事は、そこそこヤバイ状況って事であって……
『友人の方は今は落ち着いてます。今は、オレのアパートで休んでます』
「男には効力が薄いって言ってたな。じゃあ、女子か?」
『……はい』
「大体どういう症状なんだ? ヤバイって」
『……いわゆる禁断症状ってヤツです』
「それは病院に連れて行った方が良いんじゃないのか……?」
確かに、警察に捕まるのは怖いだろうけど、正直そうした方が良いだろう。
『解ってるんですけど! 解ってるんです! けど……』
「……なんかあるのか?」
『他の友達も……まだ騙されてるんですよ』
「……」
なるほどな。コイツはなかなか優しいヤツだな。
つまり自分たちはともかく、他の友達も助けて欲しい。そう云う事か、やっと合致した。
その辺も警察に頼んだ方が楽だと思うんだけどな……態々俺の手を煩わせる理由ってあるのか?
『それは……』
言えない、か……
まぁ、正直色々と言いたい事は解る。
友達関係を崩したくないとか、そもそも今の状況には満足してて、麻薬と言うもののせいで壊れているのが嫌だとか。
色々と考えるところはあるさ。正直、警察沙汰にしたくないのも解る。うんうん。
もし、俺が逆の立場なら、警察に捕まるのはまっぴらごめんだ。どんな手段を使ってでも、逃げたいと考える。
理屈は通っている。
良いだろう。そもそも、断る理由も見つからなかったんだ。
■■■
メモ帳を閉じて、あのときの光景を思い出す。一世のよいところは、こうしてメモしたものを見れば思い出すところだ。忘れやすいと言っても、ヒントがあれば記憶には繋がる。忘却ではなく、ただ、引き出しの鍵を失くしてしまうようなものなのだから。
〝って事は一階にあったコーヒーメーカーがそう云う事か〟
薬物はコーヒーに混ぜると彼は言っていた。あのコーヒーに薬物が混ざっているとは思えないが……念の為に回収していこう。
部屋の中をひと通り探し終えたマナが頭を掻きながらこちらに近づいてきた。
「ダーメ。見つからない。こりゃ、首謀者がもってるかもね」
「他の階層も探して見ます?」
一応、このビルも一番下と、この階層だけではないのだ。他にも階層がある。
「そうね。面倒事は早めに終わらせるのが良いし。手分けしてみましょうか?」
「賛成です。鍵が掛かっていた場合……と、云うか十中八九掛かっていると思いますけど……どうします?」
「その辺はお任せよ。この部屋はわたしが開けたけど、別に一世クンが出来ないワケじゃないでしょ?」
にやり、と笑ってマナは一世に向かって手を振ってその場をあとにした。
確かに出来ない訳ではないが、それが面倒だからこそマナに部屋の解錠を頼んだ訳であり……まぁ良い。
右腕を回しながら、調子を確認すると、マナの背中を追いかける。どうせ階段までは一緒なのだ。
「それじゃあ、この階はよろしくね」
「了解っす」
マナはこの下の階を見る。一世は、現在の階層を事細かく見る事になる。
細かく、と言ってもそこまでの大きさではない。ふたつのオフィスがあるぐらいだ。
オフィスと云う事もあり、本来ならセキュリティシステムがついているのであるが、さすがに取り外されていた。四角の跡がそこにはあったが、コード類はまだ残されているらしい。
扉を押したり、引いたりしてみるが、やはり開かない。セキュリティシステムが破壊されていたとしても、そこはしっかりしているらしい。
早速、やらなければならないらしい。気は進まないが、仕方ない。この階層を任されてしまったのだから。
―――意識を右腕に集中する。自分がその右腕だけの存在だと思う。そうすると、自然とその力は発言する。
彼女ほど上手くはない。乾いた音を立てて、鍵が破壊されてしまった。
「あーあ……」
扉ごと破壊する事態にはならなかったが、鍵周辺のノブなどを破壊してしまった。
ぽっかりと、そこだけ最初からなかったかのようになってしまったドアノブの場所から中を眺めると、何もないオフィスがそこには広がっていた。
「失礼しまーす」
誰もいないのにそれだけ言って、中に入る。扉は蹴飛ばすと開いた。
部屋の中は当然の事ながら静かである。椅子ひとつ、テーブルひとつ、ない。
念の為に、なにか隠れていないかどうかだけは確認しておく。無駄だとは思うが、念には念を入れておく。
その辺りの壁をけっ飛ばしながら、部屋をぐるりと一周する。壁は鈍い音しか立てなかった。珍しい、中は空洞ではなくちゃんと中身が詰まっているらしい。このご時世にしては中々金を掛けて作ったようだ。
オフィスは簡素な作りで、何もなければさら地と同じである。何かを隠すような隙間もなかった。
この部屋にはもう用はない。隣の部屋にいくとしよう。
しかし、この扉はどうしたものか。いっその事完全に壊してしまえば良いのでは? と考えたが辞めた。直しようがないので、ばれない事を祈るだけだ―――十中八九、ばれると思うが―――。
廊下に出て真直ぐ歩いて隣の部屋の扉前に立つ。
今度は力加減を考えよう。先ほどは、少し間違えただけだ。
「集中」
一言、呪文のようにそう呟いて目をつぶると、意識を自分の中に向ける。
意識はいつしか、自分の内側ではなく、先ほどと同じように右腕のみに向けられる。肉体などいらない、この右腕だけが全てだと考える。難しい事ではないが、簡単な事でもない。
自分のものではない右腕だと認識している一世にとって、自分の内側のある一部分だけを認識するのはとても難しいものであった。
しかし、マナと出会ってからと云うものの、その手のスピリチュアルな事には慣れつつあった。指導によって、こうして意識すれば集中できるようになった。……まだムラはあるが。
今度は間違えなかった。
乾いた音が響いて、目を開けると、そこには先ほどと変わらない扉の姿。
変わったのは、ノブを回すと簡単に部屋へと通じる扉が開いた事。
心の中で「やった!」と叫ぶ。上手くいった。
「失礼しまーす」
お決まりのようにそう呟いて、一世は部屋の中に入った。
変わらず、まっさらで何もない部屋のように見える。
しかし、先ほどの部屋と決定的に違うのは、部屋の真中に小さなテーブルと、椅子が存在している事だろう。ここは、何らかの目的で使われている部屋らしい。
待合室は一階にあった。ひとつだけとは限らないが、結構な広さを持っていたのだから、態々もうひとつ設ける必要はないだろう。
部屋の中央までゆっくりと歩いて、椅子を引っ張って腰を掛ける。良い座り心地である。テーブルも丁度目の前に来て、テーブルで物書きをするのには丁度良い高さだと個人的には思った。
椅子に腰を掛けたまま、上半身を下にやってテーブルの下やら、辺りを見渡して見るものの、特別変わったところはない。
単なる別の待合室か、休憩室なのだろう。
それだけ決め付けると椅子から腰をあげて、部屋をあとにする。扉はしっかりと閉めて、鍵は……壊してしまったのでそのままだ。
他の階層はどうなっているのだろうか。マナはこの下の階層を探しているだろうが、恐らく、収穫はないだろうと思っていた。
〝俺がなかったからな……〟
それは早計だと考えるのだが、普通に考えて、そんな大そうなものを現場に放置しているとは考えづらい。
が、今回の薬がもし栽培する草のようなものならば、住宅地で栽培するのもまたリスクが伴う。
部屋を出て、動くはずのないエレベーターのボタンを何回か押して無駄な事をすると、階段の扉を開き、下の階層へと降りていく。
昼間だと云うのに暗いのは、単純に外からの光を入れる窓がないからだ。足元に注意しながら、ゆっくりと、下の方へと降りていく。
やっとのことで大きな踊り場に出て、壁を伝って、扉を見つけるとそれを開けた。
うっ……、と思わず目を細めてしまった。階段は暗かったが、オフィスの方は明るかったからである。
待っていたかのように、そこで壁に背中を預けるマナがいた。
「その様子だと、何もなかったみたいだね」
マナの言葉には素直に頷いた。なにも見つけられなかったのは癪だが、事実だ。ここで嘘を吐いても何の得にもならない。
「大体、薬をこんな現場で栽培なんて普通考えたらあり得ないと思うんですけどねェ」
「あら、提案したのはキミよ?」
「いやまぁそうですけど……」
冷静に考えると、こんなところにあると考えるのがおかしいのである。
「ちなみにこの階層、テーブルとか、椅子とか置いてありましたか?」
「いえ? なーにも。綺麗なものよ」
「……ふぅん……あ、いや、こっちの階には椅子とテーブルが置いてあったんで」
「……どう云う事?」
「待合室に使っていたのか、それとも他の目的かどうかは解らないですけど、椅子とテーブルが、部屋の中央に置かれていましたね」
いつにもなく、真剣に顎をさすりながらマナは考え事をする。
「それが一番怪しいような気がするけど」
「けど、なんにもなかったですよ。本当に、何かを隠せるような場所もなかったですし、テーブルと椅子が置いてあるだけの部屋でした」
「それが臭うのよ。なにもない部屋になにかを置くって事は、結局なにか用途があるからでしょ?」
「……だから単なる待合室じゃないんですか? まぁ、一階にもありましたけど、臨時とか、なんか不手際があったときの為とか……想像はできる」
それでも、マナは納得がいっていない様子である。面倒臭がりである彼女でも、仕事をサボりがちな彼女でも、こうなると珍しく仕事に対して頑固になる。―――羨ましいように見えるが、正直、真剣になる仕事など殆どない。極めつけはすべてを自分に任せると云う傍若無人ぶりを発揮する。
珍しく彼女がやる気なのだ、ここは面倒だが、妥協しても良い事はなにひとつない。ここは一世が折れる事にする。
「じゃあ行ってみますか。俺が見えなくても、もしかたらマナさんには見えるかもしれませんしね」
多少莫迦にしたような口調でそう言うと、マナも「よかろう」などとわざとらしく言って上へと向かう階段に足を掛けた。
……また、この部屋に戻ってきた。
階段を登って、珍しく自分の能力のコントロールに成功した扉を蹴飛ばして中に入ると、再び机と椅子のある場所へと歩を進めた。
やはり、これ以外はなにもない。部屋を隅々まで探しても、あるのは埃と汚れぐらいだろう。なにかに使っている部屋だとしても、そこまで気は廻っていないと見える。まだ、一階の待合室の方が綺麗だったと、改めて思う。
「臭うわね」
「はぁ?」
周辺の臭いを嗅ぐが別段妙な臭いはしない。ビル独特の臭いはするものの、悪臭ではない。
「そう云う意味で言ったんじゃないわよ」
「はぁ……」
つまり……彼女はこの部屋が怪しいと言っている訳だ。そんな事は解っているが、あえてそう言った。
しかし、見たままであればこの部屋は普段待合室かなにかにしか使われているようにしか見えない。椅子とテーブルだけで、周りの床は埃だらけで、部屋掃除をしているとは思えない。なにか重要な事をする場所なら、人の動きが多いのだから埃が舞い、一部は埃が薄い場所があるはずだ。
今、自分たちが入ってきて入口から椅子の辺りの埃が薄くなっている。他の場所が溜まりに溜まっているだけに、まるで雪の上を歩いたかのようにはっきりと足痕があった。
「他に足痕がある場所は……あぁ、その辺のヤツは全部俺のですよ」
先ほど物色したときについたものだろう。
が、マナは違う、と述べた。
「別に足痕を付ける必要性はないよ。多分、必要なのは入り方なんだろうな。
向こう側の部屋に行こうか」
「へ?」
向こう側の部屋、とは……
鍵を開けるのに失敗した、机も椅子もないあの部屋だろうか?
「でもあっちの方がもっと怪しくないですよ。だって本当に何もないんですから」
言葉に耳すら貸さず、彼女は部屋を出ると、隣の部屋に入って行った。一瞬、扉の鍵が丸ごと抉りとられているものを見て、少し苦笑したが、誰がやったのか解ってそのまま何も言わずに入って行った。
一世もそれに続いた。当然のように、先ほど変わらずそこには何もない部屋が広がっている。
「本当になにかあるんですか?」
普通の人間が見た限りでは、何もない。疑うのは当然だ。
そんな半信半疑な一世を横目に、マナは腕を組みながら部屋を見渡す。
「言っただろう? ……要は、入り方だって」
「俺にも解るように説明して欲しいんですけど……。入り方、って言われても、俺には入口と出口の扉をくぐるぐらいしか、思い付きませんよ」
「それが―――通常の人間なら、な」
では、普通ではない人間はその限りではないのだろうか。
そうだ、思いだした。
この人は普通じゃなかったな。
つまり、そう云う人間にしか見えないなにかがあるのだろう。
壁を物色するマナと、それを後ろから眺める一世。彼から見れば、マナはまるで物珍しい骨董品を鑑定する人間のように見える。
〝鑑定団みたいだな……〟
土曜か、金曜の夜にやっているテレビ番組の事を思いだして、一世は苦笑した。
長い事そうやって壁を調べたあと、ふむ、と言いながら彼女は頷いて、手のひらを壁に差し出した。
「―――命ずる。我が身、我が理、我が魂に刻まれし盟約の名において、この場に存在しうるあらゆるソレを解放せよ。
魔を滑る王たる女が告げる。
―――開けよ。開けよ。開けよ。開けよ。
繰り返す言葉の意味と、概念を重ねて、ここに契約を」
長たらしい台詞。まるでテレビ番組、小説などの物語の台詞だ。そこにある意味こそひとつずつは通じているように、意味があるように思えるが然程意味はないと彼女は前に説明してくれた。
あくまで必要なのはこの世にアクセスする為の力と言語。それが人間の言葉に翻訳すれば意味不明になるのは仕方のない事。つまる話、英語を日本語に翻訳して、その日本語を英語に再翻訳すると全く意味が違っていたときのようなものだ。
彼女は普通ではない。
長たらしい台詞は、ふざけて言っている訳ではなく、本気で言っている。彼女には、そんな傍から見ればふざけているような事を本気で行えるような人間なのである。
手を下げて、彼女は無言で部屋を出て行った。壁にはなにか変化があるようには思えないが……
壁を物色していると、「おい」と、廊下の方から声を掛けられた。
壁を眺める作業を辞めて、すぐにでもマナの方へと向かい、先ほどまでいた部屋の前に立っている彼女を見つけて小走りで向かう。
すると、違和感を覚えた。
先ほどと同じ部屋のはずなのだが……違う。そう本能的に、思ってしまう。
普通じゃない人間には解らない、そう、一世もまた普通ではない人間だ。
右腕が痛む。それが、この部屋が普通ではない事を証明する。拒絶反応ではなく、これは警告だ。自分の身に迫っている危機を、こうして痛みで知らせようとしているのだ。
……悲しいかな、一世には、それを危機と認識する術はなかった。