からくる4
毎回というわけではないが、清高が銀家を訪れる時、咲良はよく泥まみれになっていた。れいとの攻防もそうだが、仕事帰りだったり、訓練中だったりと、とりあえず一介の兵士のような生活を送っていた。それでも彼女は文句を言わない。自分の責務を全うする。よくよくサボる兄とは違い、芯が通っていて心が強い。そんな彼女のことを、徐々に好きになっていった。自分より若いのに、こんなに心身共に強くて魅力的な女性にあったのは初めてだった。
自分と会話してくれるのは左近に促された時だったり、さっきのようなハプニングが起きたりした時くらいだったが、それでも嬉しかった。彼女自身も清高という人間を嫌っているわけではなかったので、友人として左近と会話している時には、たまにぎこちない笑顔を見せてくれた。その笑顔が嬉しかった。その笑顔は、心に何かあたたかいものを生み出した。
「…廊下でニヤニヤするのはどうかと思うぞ清高…」
「ニヤッ…!?ニヤニヤなんかしてませんよ…!」
「鏡見ろ鏡」
そう言って10歳くらいの少年が清高に白い手鏡を差し出す。受け取って確認すると、なるほど、確かに口角が上がっていた。だがニヤニヤというよりこれは微笑みと言って欲しかった。さっきまでの咲良とれいの攻防を眺めていて、その情景を思い出し、好きな人を思い出しての微笑だったというのに。清高は少し赤くなって書斎のドアを開けた。
「どうせ又咲良とかいう娘の事を考えていたのだろう」
少年は呆れたように書斎の長椅子に身を投げ出した。長椅子に面して置かれた長テーブルには書類が散乱している。書斎の床も書類だらけだ。
「…いつの間にこんなに散らかってましたっけ…」
気にもせず部屋に入っていった少年と違い、自身の部屋の見た事のない荒れっぷりに清高は困惑して硬直していた。
「ん?あぁ、さっき犬が居たから一緒に遊んでな!」
「…お願いですから室内で、というか書斎で動物を放さないでください…」
大事な書類が沢山あるというのに。清高はため息をつきながら、とりあえず散らばった書類の山を一か所にまとめようと試みる。ふと手に取った書類には足跡がついていた。泥足のまま侵入させたのか。更に深くため息を吐きつつ、どんな書類だと焦って中身を確認して、清高はピタリと動きを止めた。
「…ん?どうした清高」
少年が問いかける。だが清高は難しい顔をしたまま動かない。
「清高?」
「少し、いえ、だいぶまずいかも知れません…」
清高から、普段は聞こえないような、ギリッと歯ぎしりする音が聞こえた。願わくはこの書類が間違いであればいい。だがその書類には正式な印が押されていた。
「明朝、いの一番に銀家を訪れます。中国船に、何か紛れてきました」
**
朝早くからの来客に、咲良は驚いた。それは何もその客が普段着姿の清高だったからだけではない、彼が10歳位の少年を連れていたからだ。しかもその少年は真っ白なチャイナ服を身にまとっていて、その短髪も真っ白だったのだ。髪は染めているとしよう、チャイナ服も趣味かもしれない。しかしそれを差し置いても、朝から2人仲良く訪れてくるとは、もしかしてこの少年は清高の子供かと咲良は疑った。しかし2人の年齢的にギリギリな気がする。いや、清高が頑張れば…などとグルグルと考え始めた咲良は、その少年と清高の関係を把握しようと少年をジッと見つめる。
「…清高、視線が痛い…」
玄関先で無言のまま自分を見つめてくる少女に脅えたのか、少年はススッと清高の影に隠れた。清高が咲良の視線に気づき、「あぁ」、と少年を紹介する。
「咲良さん、こちら僕の甥っ子の李片です。しばらく預かっているんですが、朝からお手伝いさんに預けてくることも出来なくて。騒がせたりはしませんので、一緒にお邪魔しても宜しいでしょうか」
「李片と申します。お邪魔してもよろしいだろうか」
「え?え、ええ…」
咲良はハッと我に返り返事をする。甥っ子だったのか。名前からしても、半分大陸の血が流れているのだろう。何だ、一瞬で全ての疑問が解決したではないか。自分から挨拶することも忘れていた咲良は少し恥ずかしくなってほほを染め、申し訳なさそうに返事をする。
「マジマジと見つめて申し訳ございません。勿論歓迎致します。私は銀家当主銀左近の妹、咲良と申します。どうぞよろしくお願いします」
咲良は最小限の情報を相手に伝えて挨拶する。李片は少年らしくにこっと笑う。可愛らしい少年だ。
「お急ぎの用でしたね、こんなところで引き止めて申し訳ございません。誰か、清高さんと李片さんをご案内して」
咲良が廊下の奥に声をかけると、薄桃色の着物を着た女性が現れた。さすがの咲良も李片の前で絡繰部隊を出すのはまずいと思ったのだろう。
「ありがとうございます咲良さん。…ところで、用件は聞かないんですか?」
「昨日の今日で朝からいらっしゃるということは、お急ぎの御用なのでしょう?私が私情でお引止めするのは憚られます。それに今日は珍しくご友人としてのご来訪のようですし、どうぞゆっくりなさっていって下さい」
咲良はにこっと笑ってその場を辞した。代わりに側で控えていた女性が清高と李片に歩み寄る。だが清高はすぐに動こうとしない。不審に思った少年が清高をみあげる。そして清高の顔を確認し、とても残念なものを見るような顔をした。
「…清高、急ぎではなかったのか」
「!」
李片の呼びかけに清高は我に返る。
「笑顔に見惚れていました、と顔に書いていたぞ…。お前、事態を把握しているのか…」
李片は袖を口元に持っていき、隠すように「はぁ」とため息を吐いて見せる。清高は慌てて「わ、わかってますよ!」と少年に言い訳する。咲良が自分に向ける純粋な笑顔は久しぶりだったのだ、少し位感動しても良いじゃないか。
「その愛しい娘の笑顔、奪わないように慎重に左近に進言するのだな」
呆れた少年が低く言い放った尤もな忠告に、清高は眉間に皺を寄せスッと姿勢をただし、神妙な面持ちのまま、案内の女性の後をついて行ったのだった。