小説 蛙
蛙
「蛙がいない」
ふと俺は呟いた。そう、それだけ。ただ蛙がいないだけなのだ。
俺はこの春、東京のある大学に入学した。偏差値のそこそこの私立大学である。俺は特に熱心に勉強に取り組まなかったから、ここにしか来られなかったのだ。いや、受験なんてどうでもよかった。ちょうどよさそうだったから入ったのだった。実家は地方だからアパートを借りて一人暮らしをしているわけだが、東京にあまり季節は感じられない。もちろん温度の変化はある。だがそれが季節だと言うのなら、どうでもいい。東京にも木は生えてる。公園もあって木が生えてる。
ああ、俺の生活圏内だから他はどうだか知らないことをここで断っておく。
まあ、そんな風に木は生えてる。車道の隣に生えている。まるで歯のように生えてる。そしてただ生えてる。公園には木が集まってる。それが何かを成すわけではなく、ただ集まって生えている。土もただ露出している。
それで俺は宵になった窓の外を眺めて、蛙がいないと呟いただけなのだ。九月過ぎには、故郷では蛙が鳴いていただろう。やかましいほどに夏が残した暑いの夜中。蛙が鳴きやまない夜。ベランダに出ると手すりがほのかに露を含んでいるのだ。
俺は夏、実家に帰らなかった。特に実家でしたいこともなかったし、それにこっちは自由だし、友人もいたし、そして俺は何かをして過ごして。
ああ、蛙がいないのか。
じゃあ「探しにでも行くか」
俺はふらふらと出かけた。
近所になにかあるだろうと、てんで考えずにほっつき歩く。だが特になにもねえなあと思う。俺は駅までも道のりしか知らない。だいたい友人とどっかで待ち合わせで出かけるからだ。あとはコンビニとビデオショップ、ファミレス、その他少数もろもろ。駅もアパートから近いから俺はアパート周辺には疎いのだろう。
だらだらと、あっちのほうが郊外かなと歩いて行く。蛙が妙な力でゆっくりと俺を引っ張って行く。郊外がどっちか知らないが、駅から遠くに行けばあるだろう。郊外なら蛙の一匹くらいいるだろう。
ああ、歩くのがとろい、だるい。自転車が欲しい。だからと言って大学の駅まで行くのはありえない。蛙を探しに電車でってなんだよ。まあ今手ぶらだし、やんねえってか、やらねえけどな。ああ、蛙探しってのもないか。じゃあ、俺何やってんだろうね。ああ、蛙、蛙。
あー……蛙、蛙ってなんだよ。蛙がどうしたっての。あー蛙。いい加減でてこいや。
家を出て十五分くらい歩いただろうか。いい加減にしたくなってきた。自分が蛙を探しているのが本当に鬱陶しくなってきたのだ。最初から気だるく、少しずつ鬱陶しさは募ってきていたが、なぜか蛙が俺の頭を蹴るのである。ぴょんぴょこと跳ねまわるのだ。だが、俺もそれに逆らえるほどに鬱憤が溜まってきた。そしてその蛙と冴えない苛立ちが拮抗して、俺はやっと立ち止った。
立ち止って、うぐと呻きたくなるぎこちなさを俺は感じた。少し前で自販機が夜闇にショーを見せるように白い光を放っていた。夏が過ぎても、そこには羽虫が大量にたかっていた。その中に一匹羽虫より一段大きな生物がいる。
俺は近寄って行って、じっと見つめてみた。
それは違わず、蛙であった。黄緑の肌をした、瞳の丸い、ちっさなアマガエルであった。
少しの間、羽虫を鬱陶しく思いながら観察していたが、東京の蛙はただのカエルとしているだけだった。