声のない男と、うるさい妖精
市場というのは、音でできている。
客を呼ぶ売り子の声。値切りの応酬。銅貨が皿を鳴らす音。それらすべてが小さな魔法の火種になるから、活気のある市場ほど飯が美味く焼け、果物が瑞々しく保たれる。
この世界では、音こそが力だった。
だから――声のない男は、市場でいちばん場違いな存在だった。
「……なんだいあんた。欲しいものがあるなら言っておくれよ」
干し肉屋の女将が、眉をひそめてカウンター越しの青年を見た。
青年は答えない。代わりに、首から下げた小さな石板をすっと差し出した。白墨の綺麗な字で『干し肉を三本ください』と書いてある。丁寧に『お願いします』まで添えてある。
女将の眉間の皺が、警戒の色に変わった。
「……喋れないのかい」
青年はこくりと頷く。旅装に古びた神官服を重ねた、線の細い、やたら姿勢のいい男だった。腰には奇妙な楽器――弦が一本も張られていないリュートがぶら下がっている。
「悪いけど、うちは声のない客には売れないね。響素のない人間は呪われてるって言うだろ。あんたに触った肉なんか、音が死んじまう」
青年は怒らなかった。ただ少し困ったように眉を下げて、石板を胸元に戻そうとした。慣れた仕草だった。たぶん、百回はやってきた仕草だった。
――その時である。
「はあああああ!?」
青年のフードから、なにかが勢いよく飛び出した。
手のひらサイズの女の子だった。淡く光る羽根。ふわふわの銀髪。人形みたいに整った顔を、思いっきり怒りに染めている。
「今なんつった、そこの干し肉! 呪われてる? 誰が? このセロが? あんたねえ、こいつは元・聖歌神殿の神官なの! あんたの店の肉、全部まとめて祝福できるくらいの男なの! わかる!?」
「よ、妖精……!?」
「そーよ妖精よ! 文句ある!? だいたいねえ、声が出ないだけで客を追い返すその根性が呪われてんのよ! 響素がどうとか言う前に接客の音高を調律しなさいよ、ドから!」
妖精はぴしぴしと女将の鼻先を指差してまくし立てる。市場の人だかりが遠巻きにざわつき始めた。妖精は珍しい。妖精に説教される干し肉屋はもっと珍しい。
青年――セロは、慌てて両手で妖精を包み込むように捕まえた。
「むぐっ。ちょ、離しなさいよセロ! あたしはまだ言い足りな……むぐぐ」
セロは女将に向かって深々と頭を下げると、暴れる妖精を抱えたまま、そそくさと店を離れた。
「……もー! なんで謝るのよ!」
人気のない路地まで来たところで、妖精はセロの手から抜け出し、目の前でぶんぶん羽根を鳴らした。妖精の羽音は、怒ると鈴を乱暴に振ったような音になる。
「あんたはいっつもそう! 言われっぱなし! ヘコヘコ頭下げて! ちょっとは悔しくないわけ!?」
セロは苦笑して、石板に白墨を走らせた。
『でも、フィーネが全部言ってくれるから』
「〜〜〜っ、そ、そういうこと言うんじゃないの!」
妖精――フィーネはかあっと赤くなって、セロの額をぺしっと叩いた。妖精の掌なので、まったく痛くない。
「べ、別にあんたのために怒ったんじゃないから。あたしはただ、あの店の態度が音楽的に許せなかっただけ。不協和音だったの、接客が。それだけ」
『うん』
「うんじゃない。……はあ。ほら、干し肉は買えなかったから、今日も堅パンよ。文句言わないでよね」
文句を言う声を、セロは持っていない。
それでもセロが小さく肩を揺らして笑ったのが分かったのか、フィーネはぷいっとそっぽを向いて、それからちゃっかり彼の肩の上に座った。指定席だった。
――声を失った元神官と、口の悪い妖精。
二人はもう半年、こうして旅を続けている。
探しているのは、世界に散らばった七つの〈神の旋律〉。すべて集めれば、どんな契約も結び直せるという、始まりの歌の欠片。
フィーネを、元の姿に戻すために。
彼女が妖精になったのは、セロのせいだった。少なくとも、セロはそう思っている。だからこの旅は、彼にとって贖罪だった。
――そのはずだったのだけれど。
「ね、セロ。次の街ではちゃんと宿に泊まるわよ。あんた昨日も野宿で変な体勢で寝てたでしょ。神官のくせに寝相が破戒的なのよ」
肩の上の妖精は、今日も賑やかである。贖罪の旅は、思っていたよりずっとうるさい。
……と。
セロの足が、ふと止まった。
「? どしたの」
セロは自分の耳に指を当て、それから路地の先を指差した。フィーネもつられて耳を澄ませ――羽根の音を止めた。
「…………静か、すぎる」
路地の先。市場の喧騒が、そこだけ切り取られたように途切れていた。
音のない世界を、セロはよく知っている。彼自身がそうだから。だが、これは違う。彼の静寂は「声が出ない」だけのもの。世界の音は、ちゃんと聴こえている。
この静けさは――音のほうが、消えている。
路地の奥で、小さな女の子が立ち尽くしていた。手に持った玩具の鈴を、必死に振っている。
鈴は、鳴らなかった。
振っても、振っても、音が生まれる端から、なにかに吸い込まれるように消えていく。
「……ッ、セロ、あれ」
フィーネの声が硬くなる。女の子の足元。石畳の影が、ぬらりと盛り上がっていた。影には目も口もない。ただ、耳の形をした器官だけが、びっしりと並んでいる。
「〈音喰らい〉の眷属……! なんでこんな街中に!」
セロはもう走り出していた。
懐から取り出したのは、鈍い金色の古代の音叉。自分の声を持たない彼の、唯一の「声」。
「ちょっ、待ちなさいよバカ! あんた響素ないの忘れてんの!? 普通の奏法が効かない相手にどうやって――」
言いかけて、フィーネは気づいた。
セロが走りながら、市場の方角へ音叉を掲げたことに。
喧騒。売り子の声。銅貨の音。笑い声。値切り。足音。市場を満たすありったけの生活の音が、音叉の二叉の間で細く震え始める。
――借音。
自分の音を持たない男が編み出した、世界から音を借りる、彼だけの奏法。
「……ほんっと、あんたは」
フィーネは舌打ちして、それから不敵に笑った。羽根が鈴の音を高く鳴らす。
「あたしが補助するから、一発で決めなさいよね! 外したら晩ごはん抜きだから!」
声のない神官の、うるさい旅の一日は、今日もこうして騒がしい。
(第2話へ続く)




