誕生日
第一話 誕生日
「大きくなったら、お父さんみたいになるんだ」
息子は無邪気にそう言った。この子にとって家族が世界の全てなのだろう。
私たちスライムは、あらゆる敵から逃げ回ることでしか命を繋げない。魔物であれ人間であれ、スライムは足元の石ころと変わらない。それが私たちだ。
今日は息子の誕生日だ。数日前に妻と見つけた人間の死体を、川の水に晒して柔らかくしておいた。飢えて死んだのか、病で倒れたのか、他の何かに殺されたのか——理由はわからない。ただ、手つかずの人間の死体など私も初めて見た。
もちろん私たちに人間を倒す力などない。拾っただけだ。
それでも、今年は息子に惨めな思いをさせずに済む。苔と草しか用意できないかもしれないと覚悟していた分、妻の機嫌もいつになく良かった。
家族というもの、誕生日というものは、私たち夫婦にとって憧れそのものだった。私も妻も『湧いた』存在だ。気がつけばそこにいた。だから家族を知らない。誕生日も知らない。あるとすれば湧いた日だ。だからこそ、子供という存在が、その子が生まれた日という記念が、私たちには何より特別だった。
息子はまだ外の世界を知らない。私たちが怯えながら餌を探し、隠れて生きていると想像すらしていない。私が持ち帰ったこの人間も、頼もしい父が倒してきたのだと信じているに違いない。
残酷な現実を知るのはもう少し先でいい。今はただ、のびのびと育ってくれればそれでいい。
御馳走に飛びつく息子の体が小刻みに弾む。ぷるぷると全身を震わせるのは、嬉しい時にだけ見せる癖だった。抑えきれない喜びが体の内側から溢れ出しているかのようだった。
「ほらほら、そんなに急いで食べなくても逃げないんだから、ゆっくり召し上がれ」
妻がそう声をかけた。普段なら「早く食べろ」「周りに注意しろ」とうるさい妻が、今日ばかりは小言を言わない。スライムとしては正しい教育だとわかってはいる。
しかし私はもう少しだけ、息子に穏やかな時間を与えてやりたかった。妻にはいつも「甘い」「将来困るのは子供」と叱られるのだが、こればかりは譲れなかった。
「お父さんは食べないの?」
息子が消化を止め、体の弾みもぴたりと止めて、心配そうにこちらを見つめた。
普段、肉など滅多に手に入らない。たまに見つけても僅かな肉片、息子に食べさせればそれで終わりだった。いつの間にか、自分は食べずに息子を眺める癖がついていた。
「ああ、そうだな。お父さんも食べようかな」
今日は違う。丸々一体分だ。いつ以来だろう、肉を口にするのは。息子が生まれてからは一度もなかった。
親子三匹で食事を始めると、息子がまた体を弾ませた。ぷるぷると——幸せな時にだけ見せるあの仕草だ。
不意に、息子が御馳走から離れて私に向かって飛びかかってきた。
「えいっ!」
体当たり。子供の体当たりなど、父にはどうということはない。ぷにっ、と微かに弾かれただけだった。
「おうおう、なかなか強いな」
「えへへ。もっと大きくなったらもっと強くなるよ。お父さんよりも!」
息子がまた体をぷるぷると揺らした。
「お父さんよりもか。それは頼もしいな」
「うん! お父さんみたいに強くなって、お母さんのことも守ってあげるんだ」
私は何も言えなかった。不思議と涙が出そうになった。
お前に守られなくてもよい。ただ、のびのびと大きく育ってくれればそれでよいのだ。
「美味しいわね」
妻が息子にそう言った時だった。
——パァン
甲高い破裂音が辺りに響いた。
木の棒を持った人間が、目の前に立っていた。
久しぶりの御馳走に心を奪われ、接近に気がつけなかった。いや、問題はそこではない——。
「ああ、坊や! なんということなの!」
妻が激しく動転していた。私もどうしていいのかわからなかった。さきほどの音は、人間がひと振りした杖で息子が爆ぜた音だった。
人間は息子の亡骸に何度も棒を振り、ふざけるようにその残滓を左右へ散らした。
「止めてください! 止めてください」
妻が人間の足元に縋りついた。
「逃げるんだ! 人間に私たちの言葉は通じない!」
「これ以上、息子に酷いことをしないでください! せめて静かに眠らせてあげてください」
私の叫びは妻に届いていないようだった。彼女はただ、棒を振り続ける人間に懇願し続けた。
——パァン
新たに数人の人間が姿を現した。そのうちの一人が妻を踏みつけた音だ。
男は近くの石に靴の裏を擦りつけた。汚物を拭い落とすように。別の男は、ズボンの裾に飛んだ妻の一部をひらひらと払った。泥でも落とすように。
彼らにとって私たちは石以下の汚物なのだ。
茫然としている間に、人間たちの視線が私に移った。一人が無造作に近づいてくる。
逃げろ。体がそう叫んでいた。スライムにできることはそれだけだ。しかし私の体は動かなかった。
「私たちが何をしたっていうんですか! なんでこんな目に遭わなくっちゃいけないんですか! ただ息子の誕生日を祝いたかった! それがそんなに悪いことだったのですか⁉」
通じないとわかっていた。それでも叫ばずにはいられなかった。
人間が杖を振り下ろした。非常にゆっくりと感じられたが、私は少しも動けなかった。
——パァン
第二話 魔王
私は存在した時から魔王であった。
最初に理解したのは、自分が魔王であること。次に理解したのは、ここが玉座の間であり、私がその玉座の主であること。そして最後に理解したのは——傅く魔族たちが私を「魔王様」と呼んでいるということ。
同時に、魔王としての本能が目を覚ました。適度に人間を苦しめ、勇者に倒されるのを待て——と。
最初の命令は単純だった。
「人間の集落を襲撃する」
仲間たちも「適度」な襲撃を喜んだ。
私自身も出向いた。小さな町だった。
人間どもは逃げ惑い、仲間たちは歓喜の雄叫びを上げる。
荒らすのは仲間に任せ、私は一休みすることにした。
入った建物には様々な依頼書が壁に貼られていた。
「薬草の収集」銅貨3枚、「商隊の護衛」銅貨15枚、「迷い犬の捜索」銅貨5枚。
様々な依頼を眺めていると一枚の紙が目についた。
「スライム討伐」銅貨一枚。
——パァン
弾ける音と自身が砕ける衝撃が思い出された。
その理由はわからなかった。
理不尽さ、無力さ、喪失感……。
そして気を失った。
気がついた時、町は滅んでいた。
一人残らず死んでいた。建物は全て焼き落ちていた。
そこに残ったのは怯えと困惑の感情に支配された魔族の表情だけだった。
翌日、私は後悔の念と共にその場所に再び向かった。
しかし、そこには町があった。
女性達は井戸端会議に花を咲かせ、冒険者は手柄話を肴に酒を呷る。
私は困惑した。その困惑する魔王に人々は騒いだ。
母親らしき女は怯え、子供を家に入れる。
私は全てを思い出した。そして偽りの日常に二度目の終止符を打った。
しかし、再び町は生まれた。
次は王都を攻めた。城門を破り、兵士を薙ぎ払い、王の首を刎ねた。誰一人として残さなかった。彼らは終わりかの様に騒いで散った。
しかし、翌日の城には傷一つなく、門番は談笑し、新たな王は渋面を作り大臣の話を聞く。
私たちに意味はなかった。
魔王を倒す存在『勇者』の噂を聞き先に殺した。勇者に選ばれたと喜ぶ少年を母親の目前で、母親諸共。
しかし、王の前では熟練の老兵が勇者として傅いていた。
殺せば湧く。滅ぼせば復活する。人も魔物も変わらない。
意味はあるのか? いや、なくてもやる。意味が出るまでやる。意味が出るようにやる。
虐殺と試行錯誤を繰り返していると一人の部下が来た。
「魔王様、……いつまで続けられるのでしょうか?」
彼は疲れていた。彼らは殺戮を欲していない。命令に逆らえないだけだ。
「いつまでも……だ」
「あまりにも不毛でございます。配下の者たちも限界に達しつつあります」
不毛なのは私が一番よく知っていた。だからといって、人間を許すことはできなかった。
「……限界など認めん」
「これで……考え直してください」
彼は短刀を取り出すと自らの喉を刺して果てた。
それでも明日には代わりの配下が湧く。
そんな不毛な日々を繰り返した。
その日々の中で、殺すから湧くのだ——と、気がついた。ならば殺さなければいい。
試しに幹部の一人を牢に押し入れた。
彼の代わりは現れなかった。
試しに王女を攫った。すると王宮は「勇者様に助けてもらわなくては」と騒ぐだけで、新たな王女は湧かなかった。
もし勇者を生け捕りにできれば、新たな勇者の出現を阻める。勇者さえ封じれば、なにも気にする必要はなくなる。あとはゆっくりと復讐手段を探ればいい。
しかし、その勇者がなかなか見つからなかった。
「今度の勇者は戦闘をほとんどしないようで、発見に手間取っておりまして……情報が入り次第確認するのですが……」
「すでに遥か彼方へ旅立った後だったと?」
「はい。最近では人里にすら近づかぬようでして……」
これほど見つけにくい勇者はかつていなかった。
私はこれまで何人もの勇者を積極的に屠った。
心の声は城に留まれと言う。しかし私は城から離れた。復讐をより強く欲するからだ。唯一の障害と成り得る勇者を排除するために。
その勇者は皆、恐怖に竦むか怒りに身を任せ滅んでいった。
「わかった。ところで街の破壊はどうなっている?」
「え? ええ。ご指示通りに。田畑には塩も撒いておきましたが……」
「そうか。『適度』に……な」
殺しても湧くなら、殺さずに苦しめればいい。完全に滅ぼせば湧き直す。時として別の場所に出現もする。だが、破壊なら、特に目立たぬ破壊、軽微な破壊だと集落が残り続ける。
ある日、その成果を見に出かけた。
荒れた畑の傍に一つの家があった。窓から中を覗くと、男が座り込んでいた。足元に鍋が置かれていた。傍らには空の揺り籠があった。鍋の中身を見た時、私は全てを理解した。
その感情は勝利の快感のはずだった。
しかし胸の中に湧き上がったのは、覚えのある感情だった。
これはきっと怒りだ。
親ならば——私にはその機会すら——と。
第三話 勇者
私は変わらぬ日々に半ば諦めていた。
「魔王様! 勇者です! 勇者が現れました!」
息を切らして一匹の魔物が走り込んできた。
「おお! ついに見つけたか! どこだ?」
「既に魔王城に侵入しております!」
見れば魔物は手に剣を握り、臨戦態勢だった。私の魔王城に勇者が侵入したのは初めてのことだった。
「なるほど、城のどこにおる」
「目の前だよ」
駆け寄っていた魔物の姿が、人間の少年のそれに変わっていた。変化の魔法だと理解した時には、勇者は一足飛びで目の前に立ち、袈裟懸けに剣を振り下ろしていた。
完全な不意打ちだった。これで私が絶命するとは思えなかったが、無視できない手傷は免れない一撃だった。
しかし刃は届かなかった。勇者が自ら剣を止めていた。
「今すぐに虐殺と社会の破壊を止めるんだ」
「交渉のつもりか? そんなものは対等な関係でないと成り立たんぞ」
「対等以上のつもりだ」
勇者は平然と続けた。
「お前も魔王なら本能的にわかっているんだろう? 魔王は勇者に倒される存在なんだと」
「たしかに本能はそう訴えている。魔王は勇者に倒される定めかもしれん」
私はこの少年に事実を突きつけてやることにした。勇者は魔王より強いと信じる子供が、どんな顔をするのか見たかった。
「しかし……だ。いずれ倒されるにしても、全ての勇者が魔王を倒せるわけではない。魔王の元にすらたどり着けずに死ぬ勇者が大半なのだよ。現に余も——」
「多くの勇者たちを自ら出向いてその手にかけてきたと言うんだろう?」
遮られた。
「だけど僕は自らの力でここに来た。そしてあなたに剣を突きつけている」
そう言って微笑んだ。
認識を改めるべきだった。これまで対峙した勇者は、一人の例外もなく恐怖か敵愾心に支配されていた。怖れて逃亡を図るか、怒りに任せて無謀に挑むか——そのいずれかだった。
この人間には、そのどちらもなかった。恐怖も、敵愾心もなく、勇気だけを携えて私に挑んでいた。間違いなく、私が屠ってきた勇者たちとは別の存在だった。
もし私が倒されることがあるとすれば、この人間以外にはあり得ない。そう確信させる瞳だった。だからこそ、この勇者は生け捕るには危険すぎる。何としても倒し、捕らえるのは次の勇者にすべきだ。
「魔王様!」
ほどなく部下たちが続々と集まってきた。多くの人間を経験値に変えてきた猛者たちだ。
しかし、この勇者を相手にするには力不足だろう。魔王の私が危機感を覚えるほどの相手なのだ。実力はおそらく僅差。だからこそ、この援軍が決定的な差になる。
「くくく、お前は勝機を失ったようだな」
あの奇襲の一撃を止めさえしなければ立場は逆だっただろう。勇者であることに胡坐をかき、決定的機会を自ら手放したのだ。
「戦いはまだ始まってすらいないよ」
勇者はやせ我慢とは思えない笑みを浮かべていた。
「戦う前に確認したい」
笑みが消えた。真っ直ぐに私を見据える。
「僕らが無理に戦う必要はないんだ」
「いまさら命乞いか?」
「そう捉えてくれて構わない。僕は死にたくない。誰だって死にたくない。それを口にすることが見苦しいだなんて思ってはいない」
命乞いとは思えぬ堂々とした声だった。
「それは魔族だろうと人間だろうと変わらない。人々を殺すことや苦しめることを止めてくれれば、僕があなたに立ち向かう理由、僕らが争う理由はなくなる」
「無意味だと?」
「ああ。いくら殺しても意味はない。罪のない人たちを苦しめてもなにも変わらない。あなたはそれをわかっているはずだ」
罪のない人間などいるものか。この年端のいかない少年は、その短い人生で、しかも勇者という恵まれた立場から、人間の何を見てきたつもりなのか。
「お前になにがわかる!」
「僕にはわかる!」
人間が私の家族に何をしたか知っているのか。あれこそが人間の本性だ。力を取り戻せば、彼らは一切の躊躇なく私たちを踏み潰しにくる。
勇者はさらに続けた。
「僕はあなたも助けたいんだ!」
恐怖でも敵愾心でもない。勇気だと思っていた瞳の奥にあったのは——同情とも、憐れみともつかない感情だった。
「おぬしらは手を出すな!」
自分でも驚くほど強い声が出た。集まってきた部下たちを制した。
この人間を自分の手で打ち倒し、屈服させなければならない。そう思わせるものが二つあった。一つは魔王の本能。もう一つは——前世の記憶だ。
目の前の人間を自ら滅ぼさなければ、一生後悔し続ける。あの記憶がそう告げていた。
「交渉は決裂のようだね」
勇者は残念そうに呟いた。
あの時間はどれほど続いたのだろうか?
剣を横に払えば縦に受けられ、剣を振り下ろせば横に受けられる。それはまるで踊りであり、じゃれ合いだった。
一合交わすごとに切り結ぶ音以上の何かが心から湧き出る。もし私に、私たちに子供の頃があったなら、夕暮れに母親が迎えにくるまでこうして遊び続けたのだろう。
戦いの最中、奇妙なことに気がついた。
この勇者は——笑っている。
あぁ、勇者よ。お前もか。
嬉しく楽しいのだろう。
これが魔王と勇者なのか?
宿命と存在意義を果たす快感なのか?
歯を食いしばり、苦しそうに息を切らしながら、それでも笑っていた。抑えきれない喜びが体の内側から溢れ出しているかのように。
そして、斬撃の合間に勇者の体が微かに弾むのだ。攻撃の拍子に、防御の切り返しに、まるで戦い自体を楽しむように全身がリズムを刻んでいた。
おそらく私も笑っていた。やはり我らは同じ。彼が勇者なら私は魔王。
あぁ、この気持ちを魔王だからと与えられた気持ちにしたくない。勇者よ、お前もそうだろう? 攻撃を交わす度に分かり合えた気がした。
よくぞきた。
よくぞ強くなった。
人の子よ。
一対一で挑んだのは正解だった。この気持ちは誰にも譲りたくない。今この剣に屈したとしても悔いはない。むしろそれを望んでさえいた。やはり私は魔王だった。抗い難き本能に流された。この瞬間は復讐などは忘れていた。この時間が一秒でも永く続くことを願った。
時間を忘れる戦いの中で、私はそれが続くと信じ、勇者も使命さえ忘れたはずだ。
しかし、終わりは訪れた。何度目かわからない鍔迫り合いから勇者が奇策を打ってきたのだ。
「えい!」
勇者の体当たりだった。人間なら吹き飛んだであろう。並みの魔族でも怯みはしたはずだ。
しかし、人の体当たりなど、私にはどうということはない。
反撃は反射的なものだった。
剣が手を離れ、石畳を甲高い音を立てて転がった。勇者が膝から崩れ落ちる。
それを最後に玉座の間に沈黙が降りた。
剣と剣が打ち合わされる音はもうない。魔法の爆ぜる音もない。崩れた城壁の隙間から朝焼けの光が斜めに差し込み、細かな埃がゆっくりと舞っていた。永遠とも思われた時間は、あまりにも短く、呆気なく、唐突に終わった。
胸の奥に、名前のつけようがない感情が押し寄せた。歓喜でもない。悲しみでもない。もっと大きくて、もっと古いものだった。
この勇者は常に逃げて隠れていた。私たちの追跡を逃れるため、ただの臆病だと思っていた。しかし、彼は断じて違う。まともに戦いを重ねながらここまで辿り着いていたなら、私はひとたまりもなかっただろう。
人間への恨みはまだある。しかし、この勇者にはそれ以上の感情を抱いていた。もはや勝ち負けの問題ではなくなっていた。倒れているのが私でないことが残念でさえあった。
何かを伝えたかった。短い時間に、できるだけ単純な言葉で。しかし何を言えばいいのかがわからなかった。「見事だった」では足りない。「強かった」でも足りない。この胸を満たしているものを表す言葉が見つからなかった。
言葉を探す私の耳に、微かな声が届いた。
勇者の唇が、かすかに動いていた。もう声を出す力も残っていないのだろう。それでも何かを伝えようとしていた。
「……お父さん……」
それだけだった。
——ぷるぷる。
勇者の体が微かに震えていた。命の火が消える間際の痙攣だったのかもしれない。しかし私にはそうは見えなかった。
やがてその震えは静かに止まった。
私は長い間、動くことができなかった。
朝の光が勇者の顔を照らしていた。傷だらけの顔だった。
声が聞こえた気がする。遠い昔に聞いた、もう二度と聞けないはずの声が。
——大きくなったら、お父さんみたいになるんだ。
——お父さんよりも強くなるよ。
——お母さんのことも守ってあげるんだ。
私は『勇者』を葬った。名前も知らぬ勇者を。真の勇気ある者を。
彼が何者だったのか、今となっては知る術はない。前世の記憶を持っていたのかどうかも。
ただ、勇者にも家族がいたはずだ。
いや、思えば——スライムにも運べたあの人間の死体も……。
もう沢山だ。
私は逃げることにした。
未明に玉座を後にし、外から城を見上げた。離れてみれば、あの運命を縛る座は路傍の石と変わらなかった。
妻よ、息子よ。会わないことを願っている。
息子よ。私は強くない。私は逃げることしかできない。いや、逃げるべきだった。
私は許されない。
ただ、逃げるだけだ。




