静かな強さ~いじめられた私に、父が授けた「三つの生存戦略」~
第一章 崩壊
五月の陽射しが教室の窓から差し込んでいた。中間テストの最終日、数学のテスト中のことだった。私、柚葉は、連立方程式の応用問題と格闘していた。解き方は分かっている。でも、どこかで計算ミスをしているのか、答えが合わない。焦りが胸に広がる。時計を見る。残り十分。深呼吸をして、もう一度最初から計算し直そうとした瞬間、手が滑って鉛筆が床に落ちた。
カランッ!
鉛筆が床に当たり、静まり返った教室に予想以上に大きな音が響いた。私は床に落ちた鉛筆を拾い上げた。その瞬間、隣の席の麻衣が、その音に反応して私の方を見た。それから慌てたように自分の答案用紙に視線を戻した。そして、急いで消しゴムを取り出し、何かを消し始めた。その動作は明らかに焦っていて、不自然なほど慌ただしかった。
ちょうどその時、教室を巡回していた田中先生が、私たちの列の近くを通りかかった。先生の視線が、麻衣の様子を捉えた。麻衣は先生の気配に気づいたのか、動きが一瞬止まった。そして、恐る恐る顔を上げた。先生と目が合ったようだ。麻衣の顔が、みるみる赤くなっていくのが横にいても雰囲気でわかった。まるで何か後ろめたいことがあるかのような、そんな様子だった。
「おい桐谷・・・今、何をしていた?」
教室中の空気が凍りついた。答案を書く音が止まり、全員が息を潜めた。私は恐る恐る顔を上げた。田中先生は麻衣の机の横に立ち、じっと彼女の手元を見つめていた。麻衣は震えていた。顔が真っ赤になっている。彼女は必死に説明しようとしたが、田中先生の表情は険しいままだった。
「何もしていません、ただ、間違いに気づいて急いでやり直そうと・・・それだけです」
周囲の生徒たちが、好奇の目で麻衣を見ていた。私は胸が痛んだ。私が鉛筆を落とさなければ、彼女が振り向くこともなく、先生に疑われることもなかったはずだ。
結局、カンニングとは認定されなかった。でも、教室には重苦しい空気が残った。テスト終了のチャイムが鳴り、教室がざわめき始めた。私は急いで答案を提出した。麻衣は机に突っ伏していた。彼女の親友である芽依と、リナが心配そうに声をかけている。
「大丈夫? 麻衣」
「最悪・・・あんな目立ち方するなんて・・・」
肩が小刻みに震えている。芽依が声をかけても、顔を上げない。震える肩は、何かを訴えているように見えた。
私は席で荷物をまとめながら、どうしようかと迷った。謝った方がいいだろうか。でも、私が何か悪いことをしたのではない。鉛筆を落としただけだ。それでも、心のどこかに引っかかるものがあった。結局、何も言えないまま、下校時刻を迎えた。教室を出ようとすると、麻衣のグループが窓際に集まって何かを話し込んでいるのが見えた。芽依とリナ、それに男子の何人か。時々、こちらを見ているような気がした。幼馴染の美咲が隣に来た。
「柚葉、帰ろ」
「うん」
いつものように、二人で並んで校門を出た。美咲は明るい性格で、小学校からずっと一緒だった。彼女がいるから、中学校生活も楽しかった。
「今日のテスト、どうだった?」
「まあまあかな。数学、最後の問題難しかった」
「だよねぇ、私、全然分かんなかった」
美咲が笑いながら言う。私も笑って応えた。何気ない日常、いつもの風景、それがいつまでも続くものと思っていた。でもそれは嵐の前の静けさだった。
翌朝、異変に気づいた。
「おはよう、美咲」
いつものように声をかけた。でも、美咲は一瞬だけ私を見て、すぐに目を逸らした。
「あ・・・おはよう」
声が小さい。そして、なぜか私から離れて、別の友達のところへ行ってしまった。変だな、と思いながら自分の席に着いた。周囲の空気が、いつもと違う。クラスメイトたちが、私を見ると視線を外す。まるで私が透明人間になったかのように。一時間目の国語の授業。グループディスカッションの時間になった。
「じゃあ、四人一組になって」
先生の指示で、教室がざわざわと動き始めた。私は近くにいた咲良とリョウに声をかけようとした。
「一緒に・・・」
でも、二人は私を見ないまま、別の人たちのところへ行ってしまった。気づくと、教室中がグループを作り終えていて、私だけが一人で残されていた。
「愛川さんは・・・どうしましょうか」
先生が困ったように言った。結局、人数が少ないグループに無理やり入れられた。でも、そのグループの三人は、私が話しかけても最小限の事務的な返事しかしなかった。
昼休み。美咲は別の友達と一緒に弁当を食べていた。私の席には誰も来なかった。一人で弁当を広げていると、後ろの席から声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? 昨日の麻衣のこと」
「聞いた聞いた、カンニング疑われたんだよね」
「それって、愛川さんのせいらしいよ」
心臓が跳ね上がった。聞こえないふりをしながら、耳を澄ます。
「え、どういうこと?」
「愛川さんが、わざと鉛筆落として、麻衣を振り向かせたんだって」
「は? なんで?」
「麻衣ってさぁっ人気あるじゃん、だから妬んでたんじゃない?」
「うわあ、怖い・・・」
「でしょ? 愛川さんって、普段おとなしいけど、実は計算高いタイプなのかも」
「マジで引くわ。そういう人って、一番たち悪いよね」
箸を持つ手が震えた。違う。そんなつもりじゃ・・・。ただ鉛筆を落としてしまい拾っただけなのに・・・。弁当を食べる気力が失せた。何も喉を通らない。
放課後。掃除当番だった私は、いつものように教室の掃除をしようとした。でも、同じ掃除当番の人たちは、私と目を合わせないまま、勝手に役割分担を決めて動き始めた。
「あの、私は・・・」
「別に、いいよ。適当にやっといて」
冷たい声でそう言われ、それ以上何も言えなくなった。一人で黙々と窓を拭いていると、廊下を通りかかった麻衣のグループが、わざとらしく大きな声で話していた。
「信じらんないよね。人を陥れるなんて、サイテー」
「ほんと。そういう人って、友達いなくなるよ」
私は窓を拭く手を止めた。涙がこみ上げてきた。でも、ここで泣いたら負けだ。そう思って、必死にこらえた。
その日の夜、部屋で一人、制服を着替えながら、今日一日のことを思い返していた。何が起きたのか。なぜ、こんなことになったのか。答えは分かっていた。麻衣が、自分が疑われたのを私のせいだと思っている。そして、その話がクラス中に広まった。麻衣は歌も踊りも上手で、面白くて人気がある。誰もが彼女の味方をする。一方、私は目立たない、地味な存在。友達も美咲くらいしかいなかった。そして、その美咲さえも、今日は私から離れていった。携帯電話を見る。美咲からのメッセージはない。いつもなら、毎日何通もやり取りしているのに。試しに、メッセージを送ってみた。
「今日、どうしたの? 何か変だったけど」
既読はすぐについた。でも、返信は来なかった。十分待った。二十分待った。一時間経っても、返事はなかった。ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。でも・・・これは、まだほんの始まりに過ぎなかった。
第二章 孤立
一週間が経った。状況は一向に改善しなかった。それどころかますます悪化していった。朝、教室に入ると、会話がぴたりと止まる。昼休み、トイレに行くと、個室から出た瞬間、手を洗いながら楽しそうにおしゃべりしていた女子たちが逃げるように出ていく。授業中、私が発言すると誰も反応しない。まるで私の声が聞こえていないかのように・・・。美咲も私を避けるようになった。廊下ですれ違っても、目を合わせてくれない。話しかけても、「ごめん、急いでるから・・・」と言って立ち去る。
ある日の放課後、勇気を出して美咲を呼び止めた。
「美咲、ちょっと話がしたいんだけど」
美咲は困ったような顔をした。周りにクラスメイトがいる。みんな、こちらを見ている。
「柚葉・・・今は、ちょっと・・・」
「お願い。五分だけでいいから」
美咲は躊躇っていたが、仕方なくという様子で、人気のない階段の踊り場まで来てくれた。
「何?」
声が冷たい。幼馴染の、いつも優しかった美咲とは別人のようだった。
「最近、私のこと避けてるよね。何か私、悪いことした?」
美咲は床を見つめたまま、小さな声で言った。
「柚葉は、自分では何も悪くないと思ってるんだ」
「え?」
「麻衣のこと。あれ、柚葉のせいだって、みんな言ってるよ」
「でも、私は何も・・・」
「分かってる。分かってるけど・・・」
美咲は苦しそうに顔を歪めた。
「私だって、柚葉の味方でいたいよ。でも、無理なの。麻衣のグループって、クラスで一番影響力あるじゃん。あの人たちに逆らったら、次は私がターゲットになる。そんなの、怖いよ」
胸に杭を打ち込まれたような衝撃だった。
「美咲・・・」
「ごめん。ごめんね、柚葉」
美咲は涙を浮かべながら、走って行ってしまった。私は踊り場に一人残された。膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。親友に見捨てられた。
六月になった。梅雨の季節。雨が続く日々の中、私の孤立はさらに深まっていった。靴箱を開けると、靴にガムがついていた。机の中に「消えろ」と書かれたメモが入っていた。体育の授業で、ボールをパスしても、誰も取ってくれない。わざと床に落とす。家庭科の調理実習。四人一組のはずが、私だけ余って、先生と一緒に調理することになった。
「愛川さん、グループに入れないの?」
先生の優しい声が、逆に胸に刺さった。
「大丈夫です」
そう答えるのが精一杯だった。
ある日、図書室で本を読んでいると、麻衣とそのグループの数人が入ってきた。私の存在に気づくと、麻衣は仲間に何かを囁いた。みんなで笑っている。私は本を閉じて、図書室を出た。背中に視線を感じた。笑い声が追いかけてくる。廊下を歩きながら思った。もう、限界かもしれない。学校を休もうか。転校しようか。でも、それは「逃げ」だ。何も解決しない。じゃあどうすればいいのか、分からなかった。不安だけが渦巻いていた。
夏休みが近づいたある日の夜。私は居間で、ぼんやりとテレビを見ていた。内容は頭に入ってこない。ただ、画面を眺めているだけ。父が仕事から帰ってきた。
「ただいま」
「・・・おかえり・・・なさい・・・」
父は私の様子を見て、何かを察したようだった。
「柚葉、最近、元気がないな」
「・・・そんなことないけど・・・」
「嘘つけ」父は私の隣に座った。
「学校で、何があったんだ?」
私は黙っていた。言いたくなかった。心配かけたくなかった。でも、父は待っていた。何も言わず、ただ隣に座って、私が話すのを待っていた。その優しさに、堰が切れた。全部話した。麻衣のこと、クラス中から無視されていること、美咲に見捨てられたこと、毎日が辛いこと、学校に行きたくないこと・・・。話しながら涙が止まらなかった。
父は黙って聞いていた。途中で口を挟むこともなく、最後まで聞いてくれた。
「それで、柚葉はどうしたいんだ?」
「仕返ししたい」我ながら驚くほど、はっきりと答えていた。「麻衣を、同じ目に遭わせたい。アイツのせいで、私の学校生活がめちゃくちゃになった。許せない・・・」
父は深く息を吐いた。
「柚葉、落ち着いて聞きなさい」父の声は、いつもの穏やかなトーンだった。
「お前が今、報復をしたらどうなると思う?」
「麻衣が困って、私がすっきりする」
「本当にそうか?それだけか?」父は私の目をまっすぐ見た。
「報復すれば、お前も『同じ穴のむじな』になる。たとえ桐谷さんが先にお前に不当な扱いをしたのだとしても、報復すれば、周りは『やっぱりアイツは・・・』とあらためて思うだろう。自分たちの振る舞いを心の中で正当化する。『アイツは嫌な奴なんだから・・・』そうなったら、お前がいくら反論しても誰も耳を貸さない。お前はホンモノの『嫌な奴』になってしまう。たとえどんな経緯があろうともだ」
「でも・・・」
「理不尽と思うかも知れない。でも後のことを冷静に想像してごらん。どんどん立場は悪くなるばかりだぞ」
私は唇を噛んだ。納得できない。でも、父の言葉にはうなずけるものがあった。
「じゃあ、どうすればいいの? このまま耐えるだけ? 何もしないで、ただ我慢するだけ?」
父は少し考えてから、指を三本立てた。
「これからはなす三つのことを守れ」
「三つのこと?」
「良く聞いていろ。一つ、報復はしない」
父は人差し指を立てた。
「どんなに腹が立っても、やり返すな。悪口を言い返すな。人を陥れようとするな。報復した瞬間、お前も『加害者』になる。そうなったら、お前が損をするだけだ」
「二つ、徹底した誠意」
中指を加えた。
「もし誰か困っている人がいたら、たとえ敵であっても、惜しみなく手を差し伸べろ。目一杯誠意を持って力を貸せ。自分に出来ることをしろ。それは相手のためだけじゃない。お前自身のためでもある」
「三つ、沈黙の維持」
薬指まで立てた。
「反論しても、理解されない。言い訳しても、信じてもらえない。ならば、事実だけを積み上げろ。お前の行動が、いずれお前を証明する。言葉ではなく、態度で示すんだ」
私は首を横に振った。
「そんなの無理だよ、麻衣は何の罰も受けないことになるじゃん、不公平だよ」
「公平じゃないことが、人生には山ほどある。でもな、柚葉、報復してなんになる?お前が気持ちよくなったりするのか?報復した相手はもちろん、誰のためにもならない。そうではなく、相手に誠意をもった態度を持ち続けることだ。相手がどう振る舞おうと、お前はキチンと誠実に対応する。それによって相手に『自分は恥ずかしい』と思わせるんだ、それができたらお前の勝ちだ」
私は泣きながら聞いていた。
「できるかな・・・そんなこと・・・」
「できる」父は断言した。
その夜、私は一睡もできなかった。父の言葉が頭の中で何度も繰り返された。
・報復の禁止
・徹底した誠意
・沈黙の維持
本当に、これで「負けない」ことができるのだろうか。でも、他に方法が思いつかなかった。窓の外を見ると、夜明けが近づいていた。今日も学校に行かなければならない。父の言葉を「鎧」として、もう一度立ち向かおう。そう決意した。
第三章 沈黙の鎧
夏休みが明けた。中学二年生の二学期が始まった。始業式の日、教室に入った瞬間、空気が凍りついた。でも、私は動じなかった。淡々と自分の席に着き、荷物を置いた。周囲がざわついているのが分かったが、気にしなかった。父の言葉が、私を守っていた。
ホームルームが始まった。担任の田中先生が、二学期の予定を説明している。私は真剣にメモを取った。
「文化祭の準備も本格的に始まります。実行委員を決めますので、立候補したい人は・・・」
麻衣が手を挙げた。他に数人が手を挙げ、委員が決まった。私は立候補しなかった。目立たない方がいい。余計な摩擦を避ける。
昼休み。
一人で弁当を食べていると、麻衣のグループが近くの席で固まっていた。
「ねえ、聞いた? 駅前に新しいカフェができたんだって」
「マジ、今度行こうよ」
「いいねぇ、麻衣も一緒に行く?」
「うん、行く行く」
楽しそうな会話が聞こえてくる。美咲もそのグループの中にいた。笑顔で話している。胸が痛んだ。でも、表情には出さなかった。淡々と弁当を食べ続けた。味はしなかった。でも、食べることは生きること。機械的に箸を動かした。
「ねえ、柚葉」
突然、声をかけられた。顔を上げると、図書委員の香里が立っていた。彼女はクラスでは目立たない存在で、麻衣のグループとも距離を置いている。
「図書委員の仕事、手伝ってくれないかなぁ? 今月、本の整理があって、人手が足りなくて・・・」
「いいよ」
私は即答した。これも、父の教えの一つ。誠意を持って、求められた役割を果たす。
「ありがとう!じゃあ、放課後に図書室で」
香里は嬉しそうに去っていった。小さなことだったが頼み事をされたことが嬉しかった。その様子を、麻衣のグループが見ていた。何かをヒソヒソと話している。でも、気にしなかった。
放課後、図書室へ行った。香里と一緒に、黙々と本を整理した。会話は最小限。でも、嫌な雰囲気ではなかった。
「柚葉って几帳面だね、助かるわ」
「ううん」
「また次も手伝ってくれる?」
「もちろんいいよ」
それだけの会話。でも、心が少し軽くなった。人から頼られることがこんなに嬉しいことだったなんて初めて知った。
一週間が過ぎた。嫌がらせは続いていた。机の中にゴミが入れられていた。でも、黙って捨てた。体育の着替えの時、私の体操着が隠された。でも、慌てたり騒いだりせず予備を借りて対応した。
「愛川さん、体操着はどうしたの?」
「忘れました」
嘘をついた。でも、それが正解だった。告げ口をすれば、「チクった」と言われ、さらに状況が悪化する。授業中、グループワークになると、いつも私は余った。でも、ごく普通にふるまい、一人で課題に取り組んだ。その方が、かえって集中できた。
掃除当番。私が担当する場所を、誰も手伝わない。でも、それなら自分で完璧にやればいい。教室の隅々まで、丁寧に掃除した。
「愛川さん、すごく綺麗にしてくれてるね」
田中先生が声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
「いつも真面目にやってくれて助かるよ」
先生は私の状況を知っているのだろうか。もしかしたら、気づいているのかもしれない。でも、先生も何もできない。中学生の人間関係は複雑で、大人が介入すればかえって悪化することもある。それでも、先生の言葉は嬉しかった。
十月に入った。文化祭の準備が本格化してきた。私たちのクラスは「モザイクアート」を展示することになり、実行委員の一人として麻衣が活動していた。それぞれのパーツをどれだけ作ればいいのか、自分が描いた設計図に従って計画を立てていた。クラス全員が何らかの役割を担っていたが、私には「予備要員」という、実質的に何もしない役割が割り当てられた。でもそれでよかった。目立たず、摩擦を避ける。放課後、教室では麻衣のグループが中心になって、モザイクアートのパーツを作っていた。
「このパーツ、色が違うんじゃない?」
「あれ? 本当だ。作り直しだね」
「麻衣、設計図見せて」
麻衣が得意そうに、自分が描いた設計図を広げている。私は教室の隅で、一人で本を読んでいた。誰も私を必要としていない。邪魔にならないように、静かにしていた。
「ねえ、見て。アイツ、また一人で本読んでる」
「いつもそうだよね、嫌な感じ」
「ホント何考えてるか分かんなくて、怖い、あぁ嫌だ嫌だ」
聞こえよがしの声。でも、反応しなかった。本のページをめくる。内容は頭に入ってこない。でも、読んでいるふりをする。それが私の「鎧」だった。
その日の夜、父に声をかけられた。
「柚葉、学校はどうだ?」
「変わらないよ。でも、大丈夫」
「そうか」
父は私の頭を撫でた。
「頑張ってるな」
「まだ何も変わってないけど・・・」
「お前は、自分自身を守っている。よく頑張っているよ」
父の言葉に涙が出そうになった。でもこらえた。もう少し、頑張ろう。
第四章 転機
十月の終わり、文化祭の前々日のことだった。放課後、教室は文化祭準備の活気に包まれていた。モザイクアートのパーツは順調に増えていき、完成形が見えてきていた。麻衣は実行委員の一人として、クラスメイトたちと一緒に作業をしていた。
「文化祭まであと二日、今日中に全部のパーツを完成させよう、みんな、頑張ろう!」
「おうっ」
クラス中が一体感に包まれている。私はいつものように、教室の隅で一人、自習をしていた。誰も私を必要としていない。その時だった。
「え・・・ちょっと待って」実行委員長の志保の声が、急に焦ったトーンになった。
「パーツの数、全然足りなくない?ちょっとこれ見て・・・・」
教室がざわついた。
「えっ何よ、どうなっているの?」
「どういうこと?」
「なんでなんで」
「もう一度見てよこれ」
芽依が設計図を覗き込む。志保は青ざめた顔で、作り終えたパーツの山を数え直していた。
「計算ミスがあったんじゃない?・・・ほら、必要数の三分の二しかない・・・」
「えー嘘でしょ!」
「なんで?」
「文化祭、あさってだよ!?」
「どうすんの、これから」
クラス中がパニックになった。私は自習の手を止めて、その様子を静かに見ていた。
「誰が管理してたの、これ、ちゃんと計算したんじゃなかった?」
「麻衣が担当だったよね?」リナが声を荒げた。
麻衣は青ざめた顔をして今にも倒れそうだった。
「・・・私、確認したはずなのに・・・ごめん・・・」
震えながら声を絞り出した麻衣の目には涙が浮かんでいる。しかし周りは容赦しなかった。
「私たち、こんなに頑張ってきたのに!」
「どうすんのよ、これ!」
「謝って済む問題じゃないでしょ!」
クラスメイトたちの声が次第に尖ってくる。いつもは麻衣を慕っていた人たちまでもが、手のひらを返したように次々と冷たい言葉を投げかけた。
「もういいっ・・知らない・・・」麻衣は泣きながら、荷物を掴んで教室を飛び出していった。
教室に残されたクラスメイトたちは、呆然としていた。
「どうする? この状況」
「今から作り直すの?無理でしょ」
「もう、文化祭諦めようよ」
「最悪・・・」
ため息が聞こえ、諦めムードが広がっていく。次々とみんな帰り支度を始めた。私は席に座ったまま、考えていた。父の言葉が頭に浮かんだ。
「もし誰か困っている人がいたら、たとえ敵であっても、惜しみなく手を差し伸べろ。目一杯誠意を持って力を貸せ。自分に出来ることをしろ。それは相手のためだけじゃない。お前自身のためでもある」
これは、そういう場面なのだろうか。麻衣は私の「敵」だった。私をクラス中から引き離した張本人だ。この半年近く、私はどれだけ苦しめられたことか。
彼女が困っているのを見て、内心「これは天罰だ」とも思えた。でも、同時に別の考えも頭に浮かんだ。これは麻衣個人の問題ではない、クラス全体の問題だ。このまま文化祭が失敗すれば、クラス全員が後悔する。一緒に頑張ってきたみんなの努力が無駄になる。そして何より・・・私自身の品格の問題だ。麻衣が責められて困ればそれでいいのか?ここで何もせず帰れば、それは「楽」だ。誰も私を責めない。でも、それで自分自身を誇れるだろうか。父が言っていた。「誠意とは、相手のためではなく、自分自身の尊厳を守るものだ」
私は席を立った。教室にはまだ十人ほどが残っていたが、みんな諦めた顔で片付けをしている。私は材料置き場へ向かった。色紙の束と、ハサミと、カッターを手に取った。自分の机に戻り、設計図のコピーを見た。必要なパーツの形と色が記載されている。黙って、作り始めた。一つ目のパーツを切り出す。正確に、丁寧に、それでいて速く。二つ目。三つ目・・・。手を動かし続けた。
「・・・ちょっと、何してるの?」
誰かが声をかけた。田村くんだった。私はただ、黙々とパーツを作り続けた。数分経っても田村くんはまだそこにいて私の作業を見ていた。
「・・・すげえ、速いな」
私の手元には、すでに三十個のパーツが積み上がっていた。さらに数分後。
「私も、やるわ」
志保が材料を持ってきて、隣に座った。そして黙って、パーツ作りを始めた。
「俺もやるっ」田村くんも加わった。
一人、また一人と、教室に残っていたクラスメイトたちが加わった。誰も何も言わなかった。ただ、黙々とパーツを作った。教室には沈黙があった。でも、それは冷たい沈黙ではなく、集中の静寂だった。色紙を切るハサミの音。カッターの音。それだけが響いていた。私は没頭していた。余計なことは考えない。ただ、目の前のパーツを、一つ一つ、正確に作る。
これは麻衣のためではない。クラスのためだけでもない。私自身のため、自分の品格を守るため、父の教えを実践する・・・。時間の感覚が消えた。気づくと、教室の窓の外は暗くなっていた。
「やったぁ・・・これで足りる・・・」志保が、完成したパーツの山を見て呟いた。
不足していた分が、全て揃っていた。みんな、無言で顔を見合わせた。疲れていたが、達成感があった。一緒に作業したクラスメイトには連帯感が生まれていた。
「愛川」田村くんが言った。「お前、すごいな」
私は首を横に振った。
「ううん、私だけじゃない。みんなが手伝ってくれたから」
「でも、最初に動いたのはお前だ」田村くんの顔は真剣だった。「俺、お前のこと誤解してた、ごめん」
私は何も答えなかった。ただ、小さくうなずいた。
その時、教室のドアが開いた。麻衣が立っていた。赤く腫れた目。乱れた髪。彼女は教室の光景を見て、呆然としていた。完成したパーツの山。そして、中心にいる私。麻衣と目が合った。彼女の表情には、驚き、困惑、そして・・・何か、複雑なものがあった。私は立ち上がり、荷物をまとめ始めた。もう用は済んだ。
麻衣は何も言わなかった。彼女のプライドが許さなかったのだろうか?自分の失敗をよりによって私がカバーした。そして、・・・それにより自分の立場がいっそう悪くなった。そのことに憤っているのだろうか?「余計なことをしてくれたわねぇ?」そう思っているのかも知れない。
本当は自分がミスをしたからではなく、そこから逃げ出したことで立場が悪くなったことは麻衣にだってわかっているはずだ。でもそれを認める勇気をまだ持てないのかも知れない。あるいは、私が自分のことを嫌悪していると思っていて、私に何も言えないのだろうか?一つだけわかったことがある。彼女は、私が思っていたほど強くない。むしろ、とても脆い。彼女の内心ははっきりとはわからなかった。でもここで傷を負っている彼女を更に追い詰めるようなことをしてはいけない、絶対に。それだけははっきりしていた。
「大丈夫、準備間に合いそうよ」淡々とそれだけ言って、私は教室を出た。
麻衣は黙ったまま、私の背中を見つめていた。廊下を歩きながら、不思議な感覚があった。すっきりしたわけではない。麻衣を許したわけでもない。でも、何かが変わった気がした。私自身の中で、何かが・・・。
家に帰ると、父が夕食の準備をしていた。
「おかえり、遅かったな」
「うん、文化祭の準備、ちょっとしたことがあって・・・」
今日あったことを話した。麻衣のミス。クラスの混乱。そして、私が動いたこと。父は黙って聞いていた。
「それで、どうだった?」
「分かんない。でも・・・」私は言葉を探した。「悪い気分じゃなかった」
父は笑った。
「そうか。よくやったな、柚葉」
「でも、何も変わらないかもしれない」
「いや、それでもいい」父は私の頭を撫でた。「お前は自分自身を守った。それだけで十分だ」
その夜、久しぶりにぐっすり眠れた。
第五章 雪解け
文化祭当日。私たちのクラスのモザイクアートは、体育館の壁一面に展示された。青い空と、緑の大地と、色とりどりの花々。一つ一つのパーツが集まって、大きな作品を作り出していた。来場者たちが足を止めて、感嘆の声を上げている。
「すごい! これ、全部手作り?」
「細かい作業だね」
「綺麗・・・」
クラスメイトたちは誇らしげに説明していた。私は展示の端で、来場者の案内をしていた。目立たない役割。でも、それでよかった。
「柚葉」
振り向くと、志保が立っていた。
「すごい評判だね、私たちのクラス」
「そうね」
「これ、柚葉のおかげだよ」
私は首を横に振った。
「みんなで作ったものよ」
志保は笑った。
「あなたって謙虚ねぇ。でも、私はわかってる。あのとき最初に動いたのは柚葉だって。あなたが諦めなかったから出来たのよね」彼女は去っていった。
文化祭が終わった翌週の月曜日。朝のホームルーム前のことだった。教室に入ると、いつもとは違う雰囲気があった。クラスの最上位カーストの千尋が声をかけてきた。美人で運動神経抜群、生徒会副会長も務めている彼女。いじめには加担していなかったが、これまで私を助けることもなかった。
「文化祭の時の話、聞いたよ」千尋はまっすぐ私を見た。「あんた、すごいね」
クラス中の視線が集まった。千尋が、あの千尋が、私を褒めている。
「そんなことないよ、わたしはただ・・・」
「いや、すごいよ。私には真似できないわ」
千尋は少し考えてから照れたように言った。
「あのさ、頼みがあるんだけど・・・生徒会で、文化祭の報告書作らなきゃいけなくて。私って文章書くの、苦手なんだよね。手伝ってくれないかなぁ? あんた、国語の成績いいしさぁ」
「もちろん、いいよ、私で良かったら・・・」
「マジ? 助かるわぁ。じゃっ放課後、生徒会室で」千尋は嬉しそうに去っていった。
それから、空気が変わった。千尋が私と普通に話すようになると、他のクラスメイトも少しずつ距離を縮めてきた。係の仕事で話しかけられるようになり、グループワークでも自然に組めるようになった。
一方で、麻衣はあれ以来孤立したままだった。文化祭での失態。そして、何よりもみんなが困っている時に逃げ出したこと。クラスメイトたちは、それを忘れていなかった。ある日の放課後、掃除の時間だった。麻衣が、息を切らし赤い顔で教室に駆け込んできた。
「先生、すみません。今日、家の用事で早く帰らなきゃいけなくて・・・掃除当番、代わってもらえる人いませんか?」
教室には私を含めて数人が残っていた。でも、誰も手を挙げなかった。麻衣は困った顔で周囲を見回した。私は少し迷ったが、口を開いた。
「私が代わります」
麻衣は驚いて私を見た。
「え・・・いいの?」
「うん、今日はちょうど時間が空いているし・・・」
麻衣は複雑な表情をした。感謝と、申し訳なさと、そして何か別の感情が混じっていたかのような・・・。
「・・・ありがとう」小さな声で言って、彼女は急いで教室を出ていった。
麻衣は震えているように見えた。
第六章 冬の訪れ
秋が過ぎ、十二月になり、二学期の修了式の日を向えた。式が終わり、荷物をまとめていると、誰かが私の机の前に立った。顔を上げると、そこには美咲がいた。長い間まともに会話していなかった幼馴染。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「・・・あのさ、柚葉・・・ごめん・・・私、ずっと謝りたくて・・・」
私は黙って美咲を見た。彼女は続けた。
「私、怖かったの。麻衣に逆らったら、次は自分が標的になるって思って・・・。だから、柚葉を見捨てた、最低だよね。柚葉、ずっと一人で耐えてたのに・・・」
うつむきながら発した美咲の声は震えていた。私は少し考えてから、口を開いた。
「一緒に帰ろう」
「え・・・?」美咲は顔を上げ、目を見開いた。
「一緒に帰ろうよ」私は繰り返した。ごく普通に。
それは「許してあげる」でも「これで貸しを作った」でもなかった。大切な友達と元の鞘に収まった、それだけだった。私たちは一周回って元に戻ってきたのだ。苦難を乗り越えた今の私にとって、過去のわだかまりに囚われる必要はなかった。美咲も弱かった、麻衣も間違っていた、でも、私も完璧ではなかった。ただ、父の教えという「地図」を持っていただけだった。
「行こうかっ」美咲は涙を拭って、笑顔を見せた。
美咲と廊下を歩いていると、背後に視線を感じた。振り向くと、麻衣が立っていた。少し離れたところから、こちらを見ている。目が合った。麻衣は一瞬躊躇してから、小さく手を振ったように見えた。ハッキリとはわからない。でも以前のような尖った表情ではなかった。私も、小さく微笑みを返した。
二人で靴箱に向かう廊下を歩きながら、私は窓の外を見た。気がつくと雪がちらつき始めていた。もうすぐクリスマス、そして新しい年だ。
「ねえ、柚葉」
「なに?」
「柚葉、変わったね。強くなった」
私は少し考えた。強くなった? そうかもしれない。でも、正確には違う。
「強くなったんじゃないよ。ただ、損をしない生き方を覚えただけ」
美咲は不思議そうな顔をした。私は小さく笑った。父の教えを実践し続けた結果、私は「鎧」を脱ぎ捨てることができた。もう感情を押し殺す必要はない。誰に対しても、堂々と優しくなれる。それが本当の強さだと、今なら分かる。
報復はしなかった。誰も傷つけなかった。ただ、自分自身を損なわない生き方を選んだだけだった。校門を出て、二人で並んで歩く。
「来年も、いい年になるといいね」私が言った。
美咲もうなずいた。そう、「来年も」だ。私はもう、大丈夫だ。父の教えてくれた「処世術」は、ただのテクニックではなく、生き方そのものだった。理不尽な世界の中で、自分の尊厳を守り抜く方法。誰も傷つけず、自分も損なわない道。
相手を打ち負かすのではなく、自分自身を失わないこと。私は静かに、しかし確かに、そのことを学んだ。家に着くと、父が玄関で出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま!」
父は私の顔を見て、何かを察したようだった。
「なんだかいい顔してるな」
「そう?」
「ああ、以前とは全然違う」
着替えを済ませ、お茶を二人分煎れた。
「あのね、実は今日、美咲と仲直りしたの。一緒に帰ってきたんだよ」
「そうか」父は嬉しそうに笑った。「それはよかったな」
「うん」
私はお茶を飲みながら、五月からのことを振り返った。地獄のような日々だった。でも、同時に、自分が成長した日々でもあった。
「お父さん」
「ん?」
「いいことを教えてくれて、ありがとう」
父は少し照れくさそうに頭を掻いた。「何を言ってるんだ。父さんは何もしてない、頑張ったのはお前だよ」
「お父さんの言葉がなければ、私はもっと悪い道を選んでた」
父は少し真顔になった。
「柚葉、ありがとう」
「えっ何で?」
「もし、柚葉の状況が変わらなかったら、父さんはきっと悔やんだろう。柚葉が『できるかな』と言ったとき、父さんは『できる』と断言した。そうしなきゃならなかった。内心は半信半疑だったさ。でも柚葉は頑張った、そしてやり遂げた。父さんも救われたよ」
その言葉に、涙が出そうになった。でも、泣かなかった。ただ、笑顔で応えた。夜、自分の部屋で日記を書いた。この一年の出来事を、丁寧に記録した。忘れたくなかった。辛かった記憶も含めて、全て私の財産だから。
最後のページに、こう書いた。
「本当の強さって、誰かに勝つことじゃない。あきらめずに正しいことをしていれば、いつかきっと風向きは変わる」
日記を閉じて、窓の外を見た。雪はやみ、夜空に満月が輝いていた。明日から冬休み。そして、年が明けたら新学期が始まる。もう、怖いものは何もなかった。
エピローグ 春の手紙(三ヶ月後)
年が明けて三月、年度末の修了式の日、靴箱に手紙が入っていた。封筒には差出人の名前はない。人気のない階段の踊り場で開封した。桐谷麻衣からだった。便箋には丁寧な字で、びっしりと書かれていた。
『愛川柚葉さんへ
この手紙を書くのに、三ヶ月かかりました。何度も書いては破り、書いては破りを繰り返しました。今でも、送っていいのかわかりません。でも、送らなければ、私はずっと逃げているままだと思いました。
あの時は、本当にごめんなさい。カンニング疑惑は、私のミスでした。テスト中に横を向いた私が悪かった。なのに、私はそれをあなたのせいにしました。
怖かったんです、疑われることが。みんなに悪く思われることが。だから、誰かのせいにしたかった。最低ですよね。クラスのみんなが私の味方をしてくれて、最初は安心しました。でも、心の奥で何かが引っかかっているのを感じていました。
文化祭の準備で失敗した時、私はパニックになって逃げ出しました。私の弱さから・・・。教室に戻った時、あなたが作ってくれたパーツの山を見て、私は崩れました。クラスメイトへの申し訳なさ、自分への嫌悪感とあなたへの敗北感・・・。でもあなたは、私を責めなかった。報復もしなかった。「大丈夫、準備間に合いそうよ」と、ただそれだけ。
その時、私は理解しました。本当に強い人は、やり返さない人なんだと。私は打ちのめされました。あなたは、私よりずっと強かった。人間として、ずっと上だった。それが悔しくて、認めたくなくて・・・、でも、心のどこかで尊敬していました。
私はあなたの背中を見ていました。黙々と自分の道を歩くあなた。誰に媚びるでもなく、誰を攻撃するでもなく・・・。私も、そうなりたいと思うようになりました。
まだ、なれていません。まだ、弱いです。すぐに不安になるし、人の目を気にします。でも、少しずつ、変わろうとしています。許してほしいとは言いません。許してもらえるとも思っていません。ただ、あなたに伝えたかった。あなたから、学びました。あなたのおかげで、私は少しだけ成長できました。
本当にありがとう。そして、本当にごめんなさい。 桐谷麻衣』
手紙を読み終えて、私はしばらくその場に座っていた。麻衣は、変わろうとしている。まだ途中だけれど、確かに前に進んでいる。手紙を畳んで、制服のポケットにしまった。私はもう麻衣を恨んではいない。麻衣は自分の弱さと戦っている。私も、かつて孤独と戦った。戦いの形は違うけれど、私たちは同じように、何かと向き合っている。
修了式が終わり、教室を出たところで麻衣に会った。彼女は少し緊張した面持ちで、でも目は真っ直ぐこちらを見ていた。もしかしたら私に会うためにわざとタイミングを合わせたのかも知れない。そして小さな声で呟いた。
「読んだ?」
「うん、読んだよ、ありがとう」私は応えた。
あの手紙を書いたことも、それを置いたことも、そして私に声をかけたことも・・・、麻衣にしてみれば相当勇気のいることだったに違いない。そんな麻衣に敬意のようなものを感じた。別れ際、私も勇気を奮い起こして言った。
「三年生でも同じクラスになれたら良いね」
「もちろんよ」麻衣も笑って返した。
——完——




