第一話 王太子とハーフエルフの少女1
サバトリム帝国によるコルスタイン王国への侵攻よりおよそ二年前、アリオンが十五歳で成人した時に彼は正式に王太子に任命された。他に兄弟姉妹はいなかったので、他国で聞くような王位継承権争いなどとは無縁だった。
任命式典から一週間ほどが経過し、周囲も落ち着きを取り戻した頃にアリオンは獰猛な肉食獣の棲むゴルムスタグ草原に狩りに出ることになった。この草原には王国内の各領地への街道がある。
街道は北はコルムット王国との国境の街カニムへと続き、南西にはサバトリム帝国との国境を守護するセイドリヒ辺境伯が治める城塞都市ノールに通じている。かつてのコルスタイン王家の父祖が何故この危険な草原に街道を整備したかは謎だったが、迂回すると各地への旅程が大幅に延びることになるというのが有力な説だった。
そして街道の安全を維持するために、獣の討伐は必要不可欠な王国の仕事となったのである。
「殿下、本日は絶好の狩り日和でございますぞ!」
アリオンを中心に全部で十騎の騎馬集団の先頭を行く兵士が、その大きな体躯に見合う大声で叫んだ。短いがボサボサの茶髪に口ひげを蓄え、無造作に長い眉の下に一分の隙もない黒一色の瞳。彼がアリオンを護る騎士団の団長であった。
アリオンは青を基調としたゆったりとした神官服のような衣装に、やはり鮮やかな青のマントをまとっている。
マントに裏打ちされているのは黒い布で剣や槍、矢を通さない細く弾力性を持った繊維だった。当然、その下の神官服の随所にも繊維は織り込まれている。なお繊維は強靱さとは裏腹に大変軽かった。
対して護衛の騎士たちはヘルムこそ着けていなかったが、かつては銀色に輝いていたであろう鈍色の甲冑を身にまとっている。無数のキズがついていたりところどころへこんでいたりしている甲冑は、彼らが歴戦の強者であることを雄弁に物語っていた。
「ライオスよ、私は狩りを好まない」
先頭を行く団長ライオスに向かって、アリオンは気のないことを言う。
「殿下が殺生を嫌うのは存じております。ですが街道の安全を保つために必要なことなのです」
「それはそうかも知れぬが、ならば普通に軍で討伐隊を編成して当たらせればよかろう」
「そう仰らずに励んで下さい。草原にはヌシと呼ばれる狡猾で獰猛な竜種が潜んでいると言われており、我が国では竜の眼を射ることが出来るのは殿下だけなのです。そのウデを鈍らせないためにもこの狩りは必要なのですよ」
「ゴルムスタグ草原では竜種は未確認だと聞いているが?」
「います、絶対に!」
「分かった分かった。その代わり仕留めた獲物はいつも通り民に施せよ」
ライオスは騎士団長としては異例の若さの二十八歳である。それでも主であるアリオンより一回りも年上だ。その年上の臣下に向かってアリオンはぞんざいに言い放った。
無敵のように思える竜だが実は弱点があった。目と口の中である。
全身を堅い鱗に覆われた竜ではあるが、口の中は他の生物と同じく柔らかい。開いた口に向けて上向きに剣を刺せば、そのまま剣先は脳に届く。あわせて竜の瞳は薄い皮膜に覆われているだけで矢が通るのだ。つまりやや下から目を射れば矢じりは同様に竜の脳を貫くというわけである。
さしもの竜も脳をやられれば即死しかない。ただし当然のことながら生きた竜の口に剣を突き立てられるほどの技を持つ剣士などいないだろう。また瞼を閉じられれば瞳に矢は届かない。
さらに当然のことながら竜の敏捷性は人間のそれをはるかに凌ぐ。竜が自分に向かって口を開けたと覚った者は、剣を刺すより先に上半身を食いちぎられているだろう。
また竜は至近距離から発射された矢でさえいとも容易くた避ける。加えてたとえ命中したとしても彼らの鱗を貫くことは出来ない。口を閉じられ眼を射線から外されたり瞼を閉じられてしまえば、人が竜を倒すことなど不可能であった。
だがアリオンは、その難事を弓矢を使って成し遂げる。しかも射程に入った竜は百発百中で脳を射抜かれるのだ。それは過去に行われた竜討伐における結果だった。
アリオンの放った矢は、まるで生き物のように変幻自在な軌道を描き竜の眼に襲いかかる。これがライオスの言う、アリオンが竜を矢で射殺せる大陸でも二人といない弓の使い手であるとの所以だった。
「私の弓は鍛錬でどうこうなるものではないのだが……」
アリオンはこれまでも週に一回、騎士団とともに狩りに来ていた。彼の弓の技術は他人には真似することの出来ない異能だったのである。
アリオンを中心とした騎士団の一行は、やがて果てしなく広がるゴルムスタグ草原に出た。草原と言っても芝生のような背の低い草原ではなく、騎士団の中でも特に上背のあるライオスでさえ頭まで隠れてしまうほどの草木が乱立する地帯である。
そこには逃げるだけの小動物や人の糧にもなる草食獣もいるが、人を獲物として狩る肉食獣もいる。アリオンと騎士団は狩りとは言え戦闘にも耐える装束で身を固めていた。しかし獣の爪が牙が露出した首や顔にかかれば無事ではすまない。だからここから先は命のやり取りだ。狩りとは自らも狩られる覚悟で臨まなければならない死闘なのである。
一行は馬から降りて各々に狩りの準備を始めた。騎士たちは剣と盾を構え、アリオンは箙(矢を入れる筒)を肩にかけ弓をつかむ。
「殿下、いつも通り気配を感じたら合図をお願いいたします」
三日月のような陣形を作り弧の中にアリオンを入れて進む。そのまま草原に入れば背後が無防備になるが、半径百メートル以内に入った獲物はどんなに気配を殺しても彼が察知するので問題はない。これは異能でも何でもなく、熟練した弓使いなら誰でも持つ能力であった。
一行が獲物を探してしばらく進んだ時、アリオンは背後に獰猛な肉食獣の気配を感じた。獣はどうやら人間との死闘より無抵抗に近い彼らの馬に目をつけたようだ。馬の近くには自分たちの食料もあるため、完全とは言えないまでも認識阻害の結界で護られている。これまでの狩りではそちらを先に狙われたことはなかった。
とは言え草原の獣は基本的に知恵が回るし記憶力もいい。人間を獲物として襲ったが返り討ちに遭ったなどという経験があれば、彼らは不用意に襲ってこなくなる。その分襲撃は周到で厄介だ。
その肉食獣はアリオンたちを見て考えていた。
『人間が身に着けている鈍色の鎧、あれは噛みついても引っ掻いても破れない。青いマントは一見簡単に引き裂けそうだが、実はあのような軽装に見える人間が一番警戒すべき相手だ。だから繋がれて自由に逃げられない馬を獲物として選ぶ。
愚かな人間は仲間がやられれば必死になって我を討とうとし、たとえすでに仲間が死んでいても死体を持ち帰ってしまう。しかし彼らの足となる馬は殺してしまえばその場に放置して去って行くのだ。
つまり馬を殺して身を隠せば返り討ちにあうこともなく、彼らが去ったあとにゆっくりと食せばいい』
この草原で何度も人間に出くわし、狩りのやり方を見てきた肉食獣はそんな知恵さえ持っていた。
アリオンは箙に刺した数本の矢羽をなでた。その微かな音に一行の歩みがピタリと止まる。次に彼は矢羽を三回指で弾いた。一回が前方、二回が右、三回が後方、四回が左という合図である。
次の瞬間、弧の先端にいた団長のライオスだけを残し、左右に割れた陣形がアリオンの後方に円を描くように再形成される。三日月の陣はあっという間に逆向きになった。
「どの辺りですか?」
アリオンが体ごと振り返って反対側を向いた時、音もなくその後ろにライオスが立っていた。
「馬を狙っているようだ。知恵が回るな」
肉食獣は馬を挟んでアリオンたちと馬の距離の半分ほどのところまで迫っている。気配は分かっても、相手の姿が見えなければ矢を当てることは難しい。
「一頭二頭は諦めなければならないかも知れない。置いてきた食料だけなら見過ごしてやるのだが」
騎士たちが進んだ後は背の高い草も倒れるので、多少邪魔にはなるが馬たちの姿を視認出来る。肉食獣が馬を襲うためには街道に出て来なければならない。出てくれば矢を射てヤツを仕留められる。それでも馬の被害は免れないだろう。
ところがそこで突然アリオンが息を呑んだ。ライオスがその異変に気づく。
「殿下、どうされました?」
「だめだ! 出るな!」
馬の方に向かってアリオンは大きな声を出した。しかしこの距離では馬は少し耳を動かしたが、馬の近くに潜んでいる何者かには届かない。
彼は箙から矢を抜き、弦に番えて力いっぱい引く。直後に起こった馬の向こう側の草むらが一直線になぎ倒されていく様は、さながらサメが背びれを水面に見せながら進んでいるような光景だった。
異変に気づいた馬が嘶く。その時、すぐ近くに肉食獣が迫っていることになどまったく気づいた様子もなく、小さな人影がひょっこりと現れた。獣が狙いをつけた一頭の馬のわずか一メートルほど後方である。獣からすれば標的の真横に位置する。
出てきた人影は背中に落ちたフードの上に、ピンクブロンドの長い髪をなびかせた少女だった。馬の嘶きに少女は一瞬ビクッとしたが、すぐに辺りをキョロキョロし始める。そしてそばに置いてあった食料の入った籠を見つけると、それに手をかけて持ち去ろうとした。刹那、草むらが割れて巨大な獣が現れる。
大人の男性三人分ほどの体高があり、尻尾まで合わせると十メートルはあろうかという巨体。中ほどから出ている太い二本の後ろ脚と鋭い四本のかぎ爪が付いた、後ろ脚と比べれば細く短い前脚。全身の半分は鱗で覆われており、肉食獣というよりはむしろ恐竜のようだった。
瞳孔はヘビのように縦に長く、大きく割れた口は人の頭など丸ごと噛み砕いてしまうだろう。草むらの割れる音に気づいて振り返り、視界に入った恐竜に少女は蒼白となって後退る。
恐竜は地が震えるような咆哮を上げ傍らで硬直している少女をギロリと睨んだ。しかし恐竜はまず目の前の馬の首に鋭いかぎ爪を突き刺して仕留めた。
恐竜にとっては予定通りの行動である。しかし本来ならそのままもう一頭仕留めて草むらに逃げ込むつもりだったが、いきなり現れた人間に再び目を向けた。
恐竜は思った。
『ひ弱そうな人間だ。これならくわえて逃げても、鎧を着た人間たちに追いつかれることはないだろう。そしてこの小さき者は頭からひと噛みすれば絶命する。逃げる途中で暴れられて手こずることもないはずだ。
何となく普通の人間とは少し違う匂いもするが姿形は変わらないし、どう見ても武器も持たない脆弱なこの者にやられることもない』
恐竜はゆっくりと少女の方に体を向けた。そのかぎ爪からは仕留めたばかりの馬の血が滴り落ちている。巨大な恐竜に目を向けられて少女はへなへなとその場にへたり込み、蒼白な顔には絶望の色が浮かんでいた。
そんな彼女を嘲笑うかのように恐竜は頭をややかがめ少女に狙いをつける。どんなに弱く矮小に見える獲物でも、ゴルムスタグ草原においてはわずかな油断が命取りになるのだ。周囲に注意を巡らせ脅威がないと判断してから間もなく、少女に飛びかかろうと恐竜は後ろ足に力をこめるのだった。