消失の共犯者 1
作 桑本春(真田宗治)
あの人は、何処に消えてしまったのだろう。
虚な瞳で、少女は繰り返し考える。その肩に、音もなく紅葉が降る。
朝霧が満たす林道は、悲しい程に静かだった。大谷竹美は一人、遊歩道を行く。
紅に、黄色、霧の白。
足元には銀杏や紅葉が敷き詰められ、紅蓮の絨毯が広がっている。冷たい風が頬に触れ、柔らかな体躯から若干の体温を奪い去る。それなのに、竹美の胸には季節が織りなす色彩の美も、早朝の寒ささえも届いていなかった。
ふう、と息を吐き出して、竹美は顔を上げる。
辿り着いたのは、湖だった。
湖は朝霧の中、幻想的に、ただ清らかに水を湛えている。その静謐な眺めすらも、竹美の沈んだ心を晴らすには至らない。
湖を見渡して、竹美は胸中に思う。
ここで、あの人はいなくなった。この世界で誰よりも大切だった人。あれからもう、二年にもなる……。
竹美は乾いた眼差しで、過去に思いを巡らせる。
二年前、この湖で何が起こったのか? それは竹美にさえ、今でも解らない。解るのは、この世界には人の理解を超える現象が起こる。という事だ。
例えば、一人の人間が目の前で煙のように消失してしまったこと。その時、まるで竜のような、とてつもなく大きな影を見たこと──。
それだけだった。
★ ★ ★
出会いは、一三歳の時だった。
竹美は親の仕事の都合で、西日本のとある地方都市へと引っ越しをした。内気な竹美は新しい学校やクラスメイトに馴染めず、孤独な毎日を送っていた。
そんな生活でも、竹美には一つだけ楽しみがあった。
絵画である。
竹美は幼いころから母に教わって、絵を学んでいた。最初は訳も分からず続けていたが、竹美には才能があった。様々な風景や人物の模写を繰り返す内に次第に実力を発揮して、遂には、県のコンクールで金賞を貰った。すると竹美は益々、絵にのめり込んでいった。
ある休日、竹美は街の繁華街へと画材を買いに出かけた。店の名前は「椿画材店」である。
行きつけの椿画材店は、竹美のお気に入りの場所の一つだった。素敵な絵が展示されているからだ。イルカの絵に海辺の絵、花や田舎の風景──。人物画は一枚しかなかったが、竹美はその人物画が特にお気に入りだった。
小さめの、たった一枚の人物画。そこに描かれているのは、雪女のように白い髪をした、色白の和装の女性だった。年齢は一七、八歳ぐらい。絵には現実離れした透明な美があり、同時に、モデルの女性への、切ないまでの愛情が滲み出してるようだった。描いたのは恐らく、壮年の店主だと思われた。実際に質問して確かめたわけではないが、竹美には、そう直感されたのだ。
竹美はその日も真っ先に、店の奥の人物画を見に行った。
すると、そこに彼はいた。
竹美と同じ年ぐらいの少年が、ぼんやりと絵を見上げていたのである。その頬には殴られたような痕があり、肘や拳も、擦りむいて薄く血が滲んでいる。喧嘩でもして来たのだろうか?
ふと、少年が、竹美の視線に気が付いた。
竹美は慌てて目を逸らす。だが、一瞬見た少年の目は柔らかく、優しかった。
「ねえ」
少年が問いかける。
竹美は少年に目を向けたが、目が合うと胸がドキリと高鳴って、再び目を背けてしまった。
「ねえ。君はこの絵を見に来たの? これがどういう物か、知ってる?」
再び、少年が問う。
そこでやっと、竹美は気が付いた。
よく見ると、何処かで見覚えのある顔だったのだ。確か、同じ学校の、隣のクラスの生徒だ。運動が出来る生徒で、空手か何かの大会で優勝して全校集会で表彰されていた事がある。名は、確か……。
「あ。僕は真田幸人。君は、確か隣のクラスの……」
少年も気が付いて、再び言葉を投げる。
「あ、わ、私は、大谷竹美」
「ああ、思い出した。大谷さんだ。確か、絵が得意な子だね」
「え、あ、うん」
言い合って、竹美は少年と肩を並べる。見上げる視線の先には、白い女性の絵画がある。
「真田君も、絵が好きなの?」
「ううん。そういう訳じゃないんだけど。ちょっと色々あってこの店に逃げ込んだら、なんか気になって。まるで、ずっと前から、生まれる前から知っていたような……そんな感じ」
真田幸人は真顔で言う。竹美は、幸人の横顔に見とれていた。
幸人は疑いようもなく美少年だった。さらりとした髪は耳が隠れるぐらい伸び、そこから覗く眼は二重瞼。瞳は大きくてほんのり光を湛え、肌はそこらの女子生徒よりもすべすべで色白。空手をやっているとは思えない程、繊細で、優し気な顔つき。体つきも華奢だ。
「あ、ごめん。急にこんな話をして。僕、ヤバい奴だよね」
幸人はふいに我に返り、頬を赤らめる。
「ううん。そういうの私にも解る。私も、おんなじだから。この絵の人、何処かで会った事があるような、そんな気がしてたの」
そう言って、竹美は幸人の顔を見つめる。自然と、笑顔が零れた。
その時だ。
カラン、と、ドアベルが鳴り、ガラの悪い高校生が四人、入店してきた。すると幸人は慌てて、画材の影に身を潜めた。
「くそ。あいつ、二回も殴りやがって。絶対ぶっ殺す」
金髪の、高校生のリーダーと思しき不良が呟く。それを揶揄うように、連れの不良が笑い声を上げる。四人は、店内を見渡しながら、店の奥へと歩き出す。多分、幸人を捜しているのだろう。
竹美は怖くなったが、スカートを広げて、幸人が見つからないように影を作ってやった。
「ねえ。あなた、一体何をやったの?」
竹美は、小声で幸人に問いかける。
「あいつらカツアゲしてたんだ。女の子を殴ってた。髪が長くて三つ編みで眼鏡の。確か、大谷さんのクラスの子だよ」
幸人も小声で返す。
そこまで聞いて、竹美は大体の事情を察した。確かに、竹美のクラスにはそれと思しき生徒がいる。竹美と同じ美術部に所属して、比較的友好的な関係の生徒だ。
恐らく、真田幸人は、不良達がカツアゲと称して女の子を殴る様子が許せず、喧嘩を吹っかけたのだ。だが、相手は高校生で、しかも四人組だ。流石の幸人も勝てなくて、結局は逃げ出した。幸人の怪我の具合から察するに、暫く殴り合うような状況だったのだろうから……カツアゲされていた女の子は、無事、逃がしたのだろう。
「わ。こっちに来た」
幸人が焦って言う。
そこで、竹美は一計を案じる。
竹美は商品を抱え、ふらふらと不良達へと近づく。そして目前でよろめいて、不良のリーダーにぶつかった。
バラりと、画材が床にぶちまけられる。
「あ、きゃ。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!」
竹美は演じながら、床に散らばった商品を拾い集める。竹美が注意を引いている隙に、幸人はそそくさと位置を変え、安全そうな物陰へと避難する。
ささやかな騒ぎに、客と店主の視線が集まる。不良達は視線を感じ、振り上げた拳を静かに下ろす。
「ちっ。気を付けろよな」
金髪のリーダーは言い、竹美を無視して店の奥へと進んで行った。
そうして、竹美が安心しかけた時だった。
レジを叩いていた店主が、客の注文に応えてレジ奥へと引っ込んでいった。途端に、不良共の口角が上がる。
「なあ。あれって高そうじゃね?」
不良の一人が、店の奥の絵画を指差す。
「そうだな。売ったらまあまあ高いだろうな」
金髪も意図を察し、仲間に目配せをする。すると不良達は肖像画に手を伸ばし、壁から取り外してしまった。
まさか、盗むつもりなのか?
竹美は憤りを感じたが、怖くて声を上げる事が出来なかった。それを尻目に、不良達は肖像画に上着を被せて隠し、店の外へと向かう。
そして竹美とすれ違いざま、不良の一人が携帯端末を竹美に向け、カメラのシャッターを切った。
「お前の顔、撮ったから。何か喋ったら、解ってるよな?」
言い残し、不良達は店を出た。
取り残された竹美の肩が、震えていた。
「……どうして泣いてるんだ?」
幸人が物陰から現れて、問いかける。
「……悔しくて。あんなに素敵な絵なのに。きっと大切な物なのに。私、怖くて何も出来なかった。私は臆病者だ」
益々涙を零す頬に、指先が伸びる。
「あの絵、そんなに好きなの? だったら取り返してやろうよ」
幸人はそっと、竹美の涙を拭う。
「でも、私……」
「大丈夫。喧嘩する訳じゃない。ちょっと盗み返してやるだけさ」
「で、でも盗むなんて。私、悪い事した事がなくて」
「何事にも初めてはあるよ」
言われて、竹美は顔を上げる。
「上手く出来るかな。私、犯罪者になっちゃうのかな」
呟いた竹美の頭に、ポンと手が触れ、撫でる。
「じゃあ、僕と共犯だね」
そう言って、幸人は微笑した。