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あれは夢だったのだろうか。
ログスは授業終わりに、窓の外を見て考えていた。昨夜、ルアス嬢と、親しく話した、あれは夢だったのではないだろうか。ルアス嬢はにこにこと、姉は自分の所為で死んだと云った。だからしあわせにならないと。主に顔向けできないとまで云っていた。
だが……今朝になって、ログスの前にあらわれたのは、あの茫洋とした令嬢だった。幽霊のように頼りなく、枇杷の若木のように上品でしなやかな、無害な令嬢がそこには居たのだ。
寮のすぐ外で待ちかまえていたログスは出鼻をくじかれた。彼女に話をくわしく訊くつもりだったのに。彼女の姉の、死の原因について。
結局ログスは、一緒に参りましょうと腕をさしだし、ぼんやりしたルアスをつれ授業棟へ行っただけだ。彼女はなんの色気もない家政学科に在籍していた。よき妻よき母になる娘を製造する為の学科である。
なんだか釈然としない気分で、ログスは前庭のベンチに腰掛けている。傍には厄介なバイルとケイブが居た。にやにやして、ノートを投げあって遊んでいる。
「ログス、結婚するのだろう」
「立ち会うぞ」
「ああ……」
ありがたい話だ。レント家もル家も、歴史の深い公爵家である。どうして自分のような不品行な人間と、こんなふうに気易く付き合いしているのだろうと、たまに考える。答えはもう出ていた。こいつらも不品行なのだ。
バイルがノートをお手玉した。
「それよりも、やっぱり僕がルアス嬢に求婚しようか」
「バイル、卑怯だぞ」ケイブがわざとらしく地団駄を踏む。「僕だって彼女のような、泉の貴婦人みたいな女性と結婚したい」
泉の貴婦人のよう、というのは、皆が考えることらしい。実際、彼女は貴婦人のようだ。頼りなく、人間らしくない。なにか別の生きものに見える。おとぎ話に出てくる泉の貴婦人は、彼女にぴったりだ。
ログスは鼻に皺を寄せた。「彼女は僕の婚約者だ」
「しっている」
「しかし、昨日まではリビン卿の婚約者だった」
「リビン卿がばかな真似をするまでは」
「ルアス嬢は、リビン卿の鼻を明かしたいだけで、お前との婚約を受け容れたのかもしれない」
「僕からなにも奪おうとするな」
かなり強い調子に、ケイブもバイルも動きを停めた。決まり悪そうに目を合わせ、ケイブが云う。
「ああ……すまない、ログス」
「冗談だよ。お前と彼女の邪魔はしない」
「絶対に」
「誓ってもいい」
ログスは息を整えた。胸の内側で、心臓がどんどんと高くうっている。婚約に横槍をいれられるのは、もう二度と、ごめんだ。
「ログス卿……?」
はっと振り返ると、ルアス嬢がふわふわと歩いてくるところだった。
昨夜も思ったが、彼女は動きがぎこちない。体が妙に傾いていて、まっすぐ歩けないらしい。ゆるやかに蛇行している。
ログスは立ち上がって、彼女に駈け寄り、腕をとった。昨日もこのようにして、彼女を支えたのだ。
ルアス嬢はかすかに微笑んだ。「ありがとうございます」
「いえ」
今日も、彼女の白粉は濃い。昨夜も白粉をはたいていたようだった。なにか、あるのだろうか? 素顔を見られたくない理由が。
バイルとケイブが、ログスの鞄を持った。ルアス嬢がそれで、ふたりに気付いたらしい。ぎこちなくお辞儀する。ふたりは仰々しいお辞儀を返した。
「さて」
バイルがにんまりする。「邪魔がはいらぬうちに、君達さっさと結婚したらどうだ?」
バイルのすすめに従うのが賢明だろう。
婚約は事務室でなんとかなるが、結婚はきちんとした聖廟へ行って、僧の立ち会いのもと誓う必要がある。
立会人に関しては、家柄が申し分ないバイルとケイブが居るし、飛び込みで結婚の儀式を執り行ってくれる聖廟は幾らもある。結婚で外出するのならすぐにゆるしは得られるし、門限を多少破っても叱責されない。
それになにより、ログスの立場が安定する。
だから、ルアスに結婚を提案すべきなのだろうが、ログスはためらった。彼女は僕の思惑をなにも知らない。単に、すぐに結婚できる相手を求めていて、彼女があの情況では断らないだろうと、そういう汚い思惑があって求婚したのだと、知らないのだ。
それが大変に不誠実なことのように思われて、ログスは肩をすくめた。「そんなに急ぐ話でもないだろう」
バイルもケイブも顔をしかめた。なにか云いたそうなので、その前にログスは云う。
「ルアス嬢に、きちんとしたドレスを用意してからだ。結婚は生涯に一度のこと、野暮ったい制服で執り行う訳にいかない」
その言葉に、バイルもケイブも納得したようだ。ふたりとも、可愛い妹が数人居るので、女性が結婚の儀式にどれだけ力をいれたがるかは、身をもって知っている。
ログスはルアス嬢を見た。
「今日はどこか、楽しいところへ参りましょう」
ルアス嬢はなにも興味がわかないようで、不思議そうに小首を傾げただけだった。
邪魔っ気なバイルとケイブがくっついてきたが、ルアス嬢はおおむね楽しんだようだった。
構内の、遊歩道だ。彼女はやはり、蛇行気味に歩き、ログスはそれをひっぱる。バイルとケイブはろくでもない妄言を吐いている。数度、ルアス嬢を口説こうとしたので、ログスはどちらにも一発お見舞いしてやった。
遊歩道の途中には広場があって、そこのベンチに腰掛け、ログスはふたりから鞄をとりもどし、詩の教本をとりだした。詩の朗読をしたのだ。
ログス、バイル、ケイブと、教本は渡っていき、詩が読み上げられた。ルアス嬢は当然、はずかしがって詩を読もうとしなかったが、ログスの声を素敵だと云ってくれたので、ログスは大いに満足した。
バイル、ケイブと別れ、寮へ向かう。ふたりは蛇を捕って、女生徒をおどかそうと思っているそうだ。あのふたりは十六にもなって、なにをばかなことをしているのだろう。
しかし、ルアス嬢の意見は違った。
「おふたりとも、楽しいかたですね」
「そうですか?」
「ええ」
「僕よりも?」
ログスは自分がすねたような云いかたをしたのに、自分でどっきりした。
ルアス嬢はそれに気付かないのか、くすっと笑う。
「ログスさまは、楽しいとは、違います」
「……では、なんだろうか」
「安心できます」
思いも寄らない言葉に、ログスはしばらく息を停めた。彼女は、断れないような情況で求婚した自分を、安心できる人間だと思っている。
ログスは打ちのめされて、そのあと黙っていた。自分がいかに卑劣な人間か、彼女に説明したい気持ちにかられたが、どうしてもできなかった。彼女を手放そうとするには大変な気力を必要としたからだ。ログスは無意識の警告を無視して、彼女に深入りしていた。