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婚約に関するあれやこれやは、役所で手続きをすればすぐにすむ。皇立学校には貴族籍や婚約に関する書類を受け付けてくれる、役所の出張所があった。
なので、ログスはルアスをひっぱって、そこへ向かった。バイルとケイブは露払いだ。ふたりの前を歩き、ろくでもないことを喚いている。「ほら、道をあけろ」
「ログス卿がルアス嬢に求婚したんだ。次の犠牲者はログス卿だ」
ルアスはふたりを不思議そうに見ていたが、事務室へ近付くと、もっと不思議そうにログスを見た。「あの……」
「なんでしょう、ルアス嬢」
「ログス卿には、婚約者がいらっしゃるのでは?」
ログスは寸の間、言葉に詰まった。それから声を絞り出す。「ああ、それについては、その……少々、ああ、哀しい行き違いがありましてね。彼女の家族から、婚約はなかったことにしてほしいと連絡があったばかりなんですよ」
「まあ」
ルアスはぱかっと口を開き、驚いたふうだったが、それ以上はなにも云わなかった。ログスは彼女の気遣いに、心の底から感謝し、彼女の通り名に関する妄言を喚き続けているバイルを殴りたくなった。
彼女は婚約破棄された男がどれだけみじめなものか、理解してくれている。
〈手紙〉で報された自分と違い、公衆の面前で婚約を破棄された彼女のほうがよほどみじめな思いをしているだろうと、ログスは考え直した。それで、喚いているバイルの後頭部を軽く殴ってやった。と、ルアス嬢がかすかに咎めるような目を向けてくる。
「なにをなさるのですか……」
「申し訳ない。この男はろくでもないことを喚く癖がありましてね。バイル、しばらく黙れ」
「無理だね」
バイルは舌を出し、けけっと笑った。「ログス、お前こそ口を噤んだほうがいい。僕にもケイブにも婚約者はないんだ。ルアス嬢に選んでもらうことだってできるんだぞ。僕もケイブも次期公爵、口を慎み給え次期伯爵」
脅しに対しては屈するしかなく、ログスは黙った。
ログスは〈手紙〉で、邦の家族へ、ルアス・トーン嬢との婚約を報せた。〈手紙〉の便利さには毎度、舌を巻く。これがあるから、遠く離れたところとすぐに連絡をとることができ、皇国の隅々にまで王家の意思がすぐに届くのだ。そうして、〈手紙〉で婚約破棄を突きつけられるというみじめな出来事も発生する。
反対意見はないようだった。管財人も承知したという。ログスの味方に、ルアスに文句をつける人間は居ない。
というよりも、この情況ではほかにどうしようもないだろう。八方手は尽くした。その結果が、「毒殺令嬢」だ。
その「毒殺令嬢」殿は、事務室でログスがすすめた椅子に座るや、完全に停止してしまった。よくできた人形のように、動かず、ぼんやりと宙を見ている。瞬きをしなかったら、呼吸の度にかすかに体が動かなかったら、人形だと云われても信じる。
リビン卿の非道な仕打ちが彼女を動揺させているのだ。なんとむごいことをするのだろう。
ログスはしらずしらず、顔をしかめていた。もしかしたら、自分に与えられた試練は、主の配剤だったのではなかろうか。ろくでもない男に手ひどいやりかたで婚約を破棄され、傷付いた女性を、ログスに救わせようと考えておいでだったのかもしれない。
それならば、みじめな思いをした甲斐があったというものだ。
彼女の家族の連絡先は、事務室の人間が知っていたので、ログスはそこへ宛てて〈手紙〉を書いた。
ルアスと婚約したいこと、すぐにでも結婚したいこと、リビン卿は不誠実にも別の令嬢と宜しくやっていて、公衆の面前でルアスとの婚約を破棄した上、彼女が自分の愛人に毒を持ったと騒ぎ立てているろくでもない野郎であること――など、多少リビン卿のことを悪く書いたかもしれないが、おそろしいことにおおむね事実である。あそこまで愚かな人間が居るだろうか。
数ヶ月前、卒業の宴で殿下が婚約を破棄したという椿事があったが、あれは婚約者の交換という神聖な儀式でもあったのだ。それなのに、殿下の言動を笠に着て、滑稽にもまねごとをしている人間が、多すぎる。
事務室の人間にあとを頼むと、ログスはルアスの様子を、少し離れたところからうかがった。
化粧が濃い、というよりも、白粉が濃いのは気になるが、すんなりした体つきも、しっとりとした低めの声も、なによりあの素晴らしい髪も、なにも文句のつけようがない。リビン卿が今すぐ目の治療をしたほうがいい状態にあるのは間違いない。僕なら殺される可能性があっても、クラン嬢よりもルアス嬢のほうを選ぶ。何故なら、彼女が可愛らしいからだ。
クラン嬢はたしかに美人だが、ログスはそれよりもルアス嬢にひかれていた。不思議なことに、婚約に関して云えば、ずっと結婚すると思っていたかつての婚約者よりも、ルアス嬢のほうが嬉しい。
姉を毒殺したと噂の令嬢のほうが。