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ルアス嬢は茫洋とした表情でログスを見、ほんの少しだけ顔をしかめた。
まわりを環状にかためている生徒達が、声を低めた。背の高いバイルとケイブが、ぴょこぴょこと背伸びしているのが、ログスの視野にはいる。
ログスは軽くお辞儀する。ルアスはそれに返礼するのが義務と感じたのか、ログスよりも丁寧なお辞儀をした。
ログスはにこにこして、ルアスの隣に立ち、彼女に腕をさしだした。「さあ、行こうか」
「は……?」
「おや、忘れたのかい? 一緒に図書室へ行く約束だっただろう。それとも、僕がしつこいから、お情けで承諾してくれただけで、リビン卿に義理立てするつもりだったのかな」
ルアスは、なにを云っているのかわからない、という顔だ。当然である。ログスとルアスは、これまでに話したことはない。
ログスは貴族の長子で、位を継ぐ義務がある。そういった長子達は、長子達だけがうけないといけない授業があり、それに忙殺される。
勿論、第二子以降の子ども達と顔を合わせる授業もあるのだが、ルアスと顔を合わせたことはない。「毒殺令嬢」の通り名を聴いたことがあったので、どんなに悪そうな美人だろうと思っていたのだが、実際見てみると普通よりももっと弱々しそうでおとなしい令嬢だったので、がっかりした覚えがある。
それにしたって、ルアスに気付かれない距離から眺めただけだ。ルアスはログスを知らないだろう。もしくは、女生徒に噂される軽佻浮薄な不良伯爵令息として、見下しているかもしれない。ルアス嬢は、どうにも、堅苦しい貴族女性のようだから。
ログスは腕を動かした。ルアスを促しているつもりだ。軽く流し目をくれる。
「それにしても、ひどい仕打ちではないかな? 僕の気持ちをもてあそぶなんて」
「ログス・トーカー。なにを云ってる?」
愚鈍なリビン卿があほ面をさらしていた。ログスはこみあげる笑いをこらえきれず、つい笑い声をたててしまった。
「なにを笑って……」
「いや、いや。リビン卿、君にはもう関係ない話なのではないか。君はついさっき、ルアス嬢と婚約を破棄した。違ったか?」
リビン卿は口を閉じないが、さりとて声を発する訳でもなかった。反論はできない。彼はつい数分前、ルアス嬢に干渉する権利を自ら手放したのだから。
ログスは、ああ、と云って、手を叩いた。生徒達が、今度は完全に、口を噤む。
ログスは、自分よりも頭ひとつ半ほど背の低いルアスへ、そっと顔を近寄せた。
「もってまわったことをする必要はもうなくなったらしい。ルアス・トーン嬢、突然の話で申し訳ないんだが、僕と婚約してくれないだろうか?」
蜂の巣をつついたような騒ぎになった。女生徒のなかには、その場に失神した者もある。
リビン卿が顔をまっかにした。「ログス卿! なにを……!」
「君は黙り給え」ログスはリビン卿に指を突きつけた。「ついさっき、君は彼女を要らないとほうりだしたんだぞ。自分から彼女を捨てたんだ。君が彼女の身の振りかたに口をはさむ権利はない」
リビン卿は口をぱくぱくさせ、クラン嬢は気分が悪くなったのか、口許を覆って今にも倒れそうだ。ログスを、けがらわしいものでも見るような目で見ている。今まで女性にそういった顔をされたことがない訳ではないが、ログスはクラン嬢を不快にできて、何故だか少々気分がよかった。
ルアス嬢は、というと、ログスを見て、不可解そうに眉を寄せていた。
ログスはとびきりの笑顔で、彼女のくしゃくしゃの髪を耳へかける。なんと手触りのいい髪だろう。絹のように滑らかで、磨かれた銅と、様々なはちみつをまぜた色だ。かすかに甘い香りもする。
ルアスの髪の手触りにうっとりしていたログスは、ルアス嬢の表情をよく見ようとして、おやっと思った。地味で目立たない、おとなしいルアス嬢は、思いのほか化粧が濃い。白粉をたっぷり塗り込んでいるようだった。甘い香りは、これだろうか。
しかし、濡れてきらきらした、糖蜜のような瞳は、ほんものだろう。濃いまつげに縁取られ、戸惑ったふうに瞬いている。
「僕はトーカー家の跡取りだ。君は、トーン家の次女だったね?」
「……はあ」
「僕らの婚姻は、お互いの家にとってもよいことだと思う」
「まったくそのとおりだ!」
いつの間にやら、バイルが人垣からとびだしてきてた。ルアスが不審そうにそれを見る。ログスは姿勢を正した。
「バイル……」
「ルアス嬢、リビン卿にはもういい相手が居るのだし、君にはまったく気の毒な話だけれど、ログス程度で手を打つのはどうだろうか? 欠点ばかりの男だが、女性に対しては誠実だ」
男子生徒達がくすくす笑う。女生徒達は、眉をひそめ、バイルを睨む者がほとんどだ。
ルアス嬢は、バイルを見、ログスを見、何故かリビン卿を見た。リビン卿はのけぞるようにして、一歩下がる。ルアス嬢に見られただけでもなにか害があると考えているのかもしれない。
ログスはルアス嬢の手を掴み、彼女の気をひいた。「ルアス嬢、僕では不満かな?」
「は? ああ……いえ……」
「では、婚約いたしましょう」
丁寧にお辞儀をして、ログスは彼女の腕をとり、歩き出した。ケイブとバイルが生徒達をおしのけ、道をつくる。
ログスは肩越しにリビン卿へ、ぱちんと片目を瞑って見せた。あのまぬけな男は、まぬけを絵に描いたような顔をした。