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「ルアス・トーン、貴様との婚約を破棄する」
頭を抱えていた、トーカー伯爵家の長子、ログス・トーカーは、その声にはっと我に返った。
「なんだ、ありゃあ」
学友のバイル・レントとケイブ・ルが立ち上がり、それどころか首を伸ばすようにして、人垣の向こうを見ている。どちらも公爵の長子だというのに、まったく俗っぽくて、貴族としては眉をひそめられかねない振る舞いだ。
が、ログスもベンチから立ち上がって、似たような格好をした。「今のは、リビン卿の声だったな?」
「ああ」
「そのようだった」
ログスの問いかけに、バイルとケイブは似通った仕種で振り向き、同じような声で答えた。
このふたりはいとこなのだが、双子のように似ている。バイルがくせ毛でケイブがそうでないという違いしかないので、髪型をかえられたら母親ででもないと見分けがつかないだろう。
くせ毛を揺らして、バイルが人垣の向こうを見る。ひょいと、またしても貴族らしからぬ仕種をした。ゆびさしたのだ。人垣の先を。
「リビン卿は、「毒殺令嬢」に怖じ気づいたらしい。それとも、殿下に感化されたかな」
毒殺令嬢。
ログスは壁のようになっている生徒達をかきわけ、謝りながら前へとすすんでいった。
ここは、ジャシ皇国の皇立学校の前庭、今日は新学期の一日目、先程、大広間での教授挨拶が終わったところだ。その最後に、殿下と伯爵令嬢の結婚の日程が発表されて女生徒達が沸き立ち、ログスは自分の情況を思い出して実に苦い気分を味わったばかりである。
そのあと、生徒達はぞろぞろと大広間を出、前庭へいたり、半分くらいは寮への〈接続口〉へ向けて歩いているところだったのだが。
「失礼、お嬢さん」
名も知らぬ令嬢に笑みかけると、彼女とその友人達はぽっと頬を染めてログスを通してくれた。ログスは微笑みのまま、彼女達へ軽く頭を下げる。
ログス・トーカー、伯爵の長子、つまりジャシ皇国の国法に則って、無条件で伯爵位を継ぐ立場にある人間である。
オリーブ色の肌と金の髪、猫のような目はきらめく銀の瞳で、女生徒達の噂話の種になる類の顔をしている。ひきしまった肉体と、乗馬にせよ槍術にせよ決闘にせよ、運動ならばそれなりにすべてをこなし、かといって成績も悪くはないというそれなりの優秀さも相まって、だが。
ログスは自分を、かなりめぐまれた人間だと思っていた。外見は申し分ないし、頭もそれなり、運動もできる。そして、由緒正しいトーカー伯爵家の長子である。
しかし、僕は生まれと外見とで、主のお慈悲をすべてもらってしまったようだ。なにしろ、あと数日で、伯爵どころか一文無しになってしまう……。
思わず溜め息を吐いたログスは、唐突に人垣から排出された。思ったよりも、人間の壁はうすかったのだ。そしてその向こうには、茫洋とした表情のルアス・トーン嬢が居た。
ログスは転ぶような不名誉なことはせず、自分が最初からその場所へ行こうとしていたのだ、と云わんばかりの顔で、目にはいるものを眺めた。
生徒達は輪になって、ルアス・トーンと、その婚約者リビン卿、そして、リビン卿が片腕で抱き寄せているクラン・ネル嬢を見ている。ふむ。
情況からするに――ルアス・トーン嬢は、リビン卿から婚約を破棄された、らしい。そして、クラン嬢が、リビン卿のあたらしい婚約者ということだろう。
婚約破棄。なんとも苦々しい言葉である。
ログスはうっすら顔をしかめ、顎を撫でた。常日頃から気にくわないやつだが、リビン卿のあの憎たらしいにやにや笑いはなんなのだろう。ただでさえ下品な顔がより一層下品に見える。あの踏みつけられた砂のような汚らしい頭!
それに、クラン嬢の、まるで自分が婚約破棄されたような、もの哀しげな表情は? あの女は、自分が婚約を破棄させておいて、なにを被害者のような顔をしているのだ。他人の婚約に影響を与えるなど、唾棄すべき愚行を犯しておいて? 頭よりも尻のほうが重そうな女はやはり好かない。
かすかに吐き気を覚えて、リビン卿とクラン嬢から目を逸らしたログスは、三度、ルアス・トーンを見た。
ふむ。悪くない。
ルアス・トーン嬢は、泉の貴婦人のように姿勢よく、それでいてどこか頼りなげな様子で立っていた。表情はとらえどころがない。強いて云えば、困惑している、ととれなくもない顔付きをしているが、それだけだ。感情を激しく見せはしていない。かといって、気絶するでもない。
典型的な、無害で無防備で毒にも薬にもならない、野の花のような貴族令嬢である。父親か、でなくば母親か、さもなくば兄の云うことをひたすら実直にこなす、というような。
ログスは、ルアス・トーン嬢が、皇立学校の前庭のような場所で、無作法にも婚約破棄を告げられるのを、心底不憫に思った。
単なる婚約破棄ではない。よりによって、別人が自分にとってかわるのだ。どれ程の屈辱だろう。どれだけ悔しいことだろう。
「ルアス、貴様はクランに毒を盛ろうとしたな」
ぎょっとするようなことをリビン卿が云った。人垣から戸惑いの声と、小さな悲鳴がもれる。次第に、それらはある範囲の言葉に収束されていった。ログスの耳にはいった言葉をまとめて要約すると、こうだ。ルアス・トーンがまたやった。
「はあ……」
突然、とんでもない疑惑をかけられたルアス嬢は、あまりのことになにを云われたかもわかっていないらしい。リビン卿を不審げに見て、小首を傾げている。
クラン嬢が顔をゆがめ、ぼそぼそと云った。
「先日、ルアス嬢から送られたお菓子を戴いて、わたくし、治癒院へ運ばれましたのよ」
「俺とクランのことを邪魔したかったのだろうが、そうはいかんぞ。もしクランが俺から離れてしまっても、貴様との婚約は今日限りだ」
リビン卿が喚く。ルアス嬢は、腑に落ちないような表情をしたが、反論はしなかった。生徒達が無責任に野次を飛ばす。「毒殺令嬢!」
「今度はしそこなったな!」
「ルアス、菓子の件はすでに父上に報告しているからな。すぐにも証が出る。おとなしく捕まるのを待つか、トーン家の名をこれ以上汚さぬように自分で始末をつけるか、選ぶんだな!」
ログスは顔をしかめた。リビン卿はクラン嬢の云うことをすべて真にうけて、ルアス・トーン嬢が、顔はいいが頭がからっぽのクラン嬢を毒殺しようとした、と思っているらしい。その上、トーン家に迷惑をかける前に自死せよととられかねないことまで云っている。というか、そういう意味だろう。なにを云っているのだあいつは?
ルアス・トーン嬢は、また、はあ、と云う。「そのようにおっしゃるなら、そういたしますが……」
ん?
ルアス嬢は困ったような戸惑ったような顔で、反対へ首を傾げる。言葉の意味がわかっているのかいないのか、判断つかぬ。このうら若い乙女は、訳のわからないいいがかりに素直に従って、死ぬというのか? それとも、いいがかりではなくて、本当に彼女はあの憎たらしいクラン嬢に毒を持ったのだろうか?
とりあえずは、ルアス・トーン嬢は婚約者が居なくなった。そして、憎たらしいリビン卿は、僕と同じ貴族の長子。つまり、婚約相手のルアス嬢は家を継ぐ義務のない第二子以降の子ども。
そして、毒を盛っただのなんだのとこのような場で糾弾され、彼女の名誉は地に落ちている。僕が恩を売る余地があるということだ。
リビン卿がまだまだなにか喚きそうなので、ログスはごほんと咳払いして、数歩前へすすんだ。「やあ、ルアス嬢、遅れただろうか?」