第十五話 さわると ふれるの ふかい話
伊藤亜紗先生のご著書をめぐる座談会のようなものを聴きました。ご関心のある方は、伊藤先生のご本をどうぞ。
さわる と ふれる の違い
「さわる」はストレートで、「ふれる」というのは 相手の反応をうかがいながら、そっと近づく感じ。
ですから、一般的には「ふれる」には優しさが感じられ、「さわられるのは イヤ」ということになりがち。「気に障る」とか。
そう説明されると、ふむふむ、と思うわけですが、それはまだ表面的な話。その座談の中で、ある人がこう云ったのです。
子どもにさわられているのは心地よかったりする、と。
さわられる=不快 と決まったものではないんです。
たとえば、親密な関係だと、さわられることが不快ではなくなる。
云い方を変えれば、さわることを許すというのが親密な関係ともいえそうです。
やさしい気遣いである「ふれる」という行為も、いつまでもその調子だと、かえって「他人行儀」ということにもなりかねません。親密な関係では、意味が変わることもある。
そんなやりとりの後、沈黙、が話題になりました。
普通は、沈黙してると無愛想と見られますよね。仲良くする気がないのか! みたいな、かなりリスキーな態度です。
ところが、その沈黙も親密な関係においては、安心して黙っていられる、ということになる。
夫婦や恋人の関係で会話がないといえば、関係が冷えたのかと。思いがちですが、親密だからこそ喋らなくてもいいという世界がある。そこまでいってはじめて、「わたしの存在が受け入れられている」と、そう感じる人もいるということです。
と、ここまでだと受け売りで終わってしまうので、ここから少しわたくしごと。
自分で云うのも何ですが、わたしには「気に障ること云う」特技があります。わざとじゃないですよ。そうなってしまうという悲しい性質。
対策としては、なるべく当たり障りのないことを話すということなんですが、お付き合いしたくない相手なら、それでいいわけですが、そうでない場合は、むずかしい。
そこでついひと言、思ったことを云いたくなるんですが、それが不快ゾーンに当たってしまう。それで、ずいぶん嫌な思いをさせ、悲しい気持ちになってきました。苦節、ン十年です。しかし、今回ようやくその理由がわかったという。
この人と近づきたいと思ったときに、わたしは、さわりに行ってしまってた。当然、相手としては、親しくもない相手から、さわられると不快です。さわっていいのは、親しくなってからのこと。さわれば親しくなれるというのは、勘違いもいいところでした。はい、そういうことでした。
いかがでしたでしょうか? せっかくの深いお話が、ふかいな話になってしまい申し訳ありませんでした。
これまでご迷惑をおかけした皆様方にも、この場をお借りして深く……