第十三話 生きる意味 フランクル
今日、聞こえてきたのは、宗教のような心理学のようなお話。
「フランクル」とか「ロゴセラピー」という言葉があったので、『夜と霧』のヴィクトール・フランクル氏のこのようですが、よくわかりません。
例によって、誰ともわからない人の話を、わたしの理解出来た範囲で記しておきます。
多くの人たちの生き方は、以下の四つのどれかだそうです。
一、人生、愉しんでなんぼのもんや。悩むなんてとんでもない。愚痴ってるヒマがあったら、とにかく出来る範囲で愉しんだほうがいい。愉しんでたら、人も寄ってくる。そしたら、もっと愉しくなる……という、快楽主義。あるいは、「躁」状態。
二、今の世の中、頭のいいやつ、他人を踏み台にしてもなんとも思わないヤツが、弱い者や人の良い者から搾り取って、いい目をしているのが真実。それは社会構造であり、平凡な個人、ましてや能力の劣った者とすれば、人生が罰ゲームのようなもの……という厭世主義。「鬱」状態。
三、普通が一番。周りを見て、テレビを観て、みんなと同じようにやるのが最善…… という同調主義。
四、自閉。社会から離れ、自分の世界に閉じこもって生きる。往々にして、独りよがりの狂信状態になる。
以上、いいやつが一つもないんですが、多くの人はその四つをグルグル回る。その四つからは脱するためには一段高いところに行かねばならないというのが、このお話の主旨。
目先の快楽を求めるのが愚かなことはもちろんのこと、計算高く生きても不安からは逃れることが出来ない。では、どうすればよいのか?
フランクルは一番大切なことは「意味」だと語ったそうです。
生きることは、たえず問いかけられることであり、自分の行動でそれに応えるのが人生である……
誰が問いかけるのか? その人の信仰によりますが、神とか仏とか、大いなる存在とか、自然とか。
問いかけられるとは、どういうことか? わかりやすいのはトラブルです。職場や家族やご近所など、避けにくい相手とのトラブルは特に厄介です。自分が正しいと思えば、怒りに油が注がれる。問題そのものよりも自分の怒りで自分自身が追い込まれる。多くの人が経験されていることでしょう。相手が悪魔や鬼に思えてくれば、もうノイローゼです。原因はともかく、こっちが病的になってしまっている。
現実的な解決方法としては、距離を空けることが一番即効性のある対症療法で、とりあえず頭を冷やせます。それはそれで一つの処世術。
フランクルは、しかし、こう考えました。そのトラブルは、いわばあなたに贈られたプレゼントであると。
「未来ですべきことがある。待っている人がいる。そのために今、やるべきことがある」
「今、やるべきこと」というのが、今、起きていることにどう取り組むかと云うことです。人生にもトラブルにも「意味」がある。
ものすごくかいつまんで云うと、フランクルはユダヤ人なので、第二次大戦の時に収容所に入れられました。壮絶な極限状態を経験しました。ばたばたと人が死んでいった。拷問もあったし、仲間内の醜い争いもあった。そのような状況で、どういう人が最後まで生き延びることが出来たか、それを目の当たりにしたのです。
どんな人が生き延びたと思いますか?
若い人? 強靱な肉体を持った人? 仲間のパンを取り上げて食ってた者? 信仰に篤い人? 知的な人? 楽観的な人? 無気力な人?
わたしが最初に目にした解説本では、鳥の声や雑草の花に気づくことが出来た人が生き延びた、と書かれていました。気持ちに余裕がなければ、目に入らなくなりますから、そういうことかと思いました。
その後、もう少し詳しい解説に出会いました。
その方は、こう説明してくれました。鳥の声や草花に神のメッセージを感じられるようになった人が、生き延びられたと。
大人には、その説明の方が納得しやすいですね。人によっては、オカルト的と感じ、拒否反応が出るかも知れませんが。
ところが、今回、聞こえてきた話は、また違いました。「神の声」というのもたとえ話であって、フランクルは「意味」と云ってたようです。
死んだ方がマシだという極限状態の収容所で、この苦しみには「意味」があるんだと。自分には将来、やるべきことがあるんだと、そう思えた人が生きの伸びた……ということだったようです。
冒頭、四つの状態を脱するためには精神に目覚めなければいけないと云いましたが、それは「意味」に気づくということ。
鳥の声も、トラブルも、無意味なものは何一つとしてない。すべてはあなたに用意されたヒントであり課題である。あなたはたえず問いかけられている。あなたはその答えを行動で示す必要がある。それが生きるということである……。
そのあと、三つの具体例が示されました。
ある人は、仕事の中に答えを発見する。人に喜ばれ、自分自身も大きなやりがいを感じる。そんな仕事に恵まれれば、この仕事をやるために生まれてきたんだと、そう実感することが出来る。
しかし、皆がそういう職業を持てるかというとそれは難しい。特に、近代以降は、労働者という、自分の活躍を自己確認しづらい職業が増えた。いつても交換可能な部品のような立場で仕事をして、生きがいを感じるためには、別の納得が必要である。
二つ目のケースは、いわば自然のとの共生。田舎暮らし。それは人間の感性によく馴染む。不便なことが多くとも、日常が愛おしい。この場所で生きていきたいという気持ちがあれば、それも生きる「意味」である。近代以前は、それが普通にあった。近代以降、それ普通ではなくなりましたが。
でも、田舎に移ることは禁止はされていないので、チャンスはあります。田舎に引っ越すことで、これが望んでいた生き方だと思える人はきっといる。
では、三つ目は何か。
たとえば、障碍や病気が重いなどの理由で、仕事が出来ない。日常生活も介助なしにはままならないという場合はどうするか? ということです。
フランクルはこう云ったそうです。自分では変えることが出来ない境遇は受け入れる。しかし、自分でやれる範囲では主体的に生きることが大事であると。
フランクルの云う主体的というのは、我を張ることではありません。神と共に生きるという意味だと思われます。わかりやすく云えば、神の子が自分と同じ立場で生きるなら、どうするだろう? と意識する。とても同じ真似は出来ないにしても、その幾分の一かでも真似てみる。生徒が先生の前で実演して見せるような感じでしょうか。先生、観ててくれた? みたいな。そんな生き方だと思います。
上記の三つを、社会指標でみるとどうなるか。
いずれも数字では表しにくいですね。少なくともお金には換算できません。じゃあ、近頃、多くの人が重視しはじめた「いいね!」で表せるでしょうか?「いいね!」もお金とは別の価値観と云うことでは大いに注目されますが、しかし、フランクルのいう「意味」とは違います。「いいね!」は他者の評価ですから。フランクルのいう「意味」は、何よりも自分の納得です。
以上が、今回の聴いた話の、わたしなりの覚え書きですが、どうして、ぐたぐたのどうしようもないわたしが、こんな話を受け売りしているのか? そこをカミングアウトして終わりたいと思います。
特別の仕事がしたかった……でも、出来なかった。
自然の中で慎ましくとも伝統的な暮らしをすることに憧れた……けどそれも出来なかった
そして、歳を取った……。たとえれば、日没一時間前くらいでしょうか。間もなく日が暮れる。しかし、まだ暮れていない。出来ることはないのか……。そう思っていたところに、この話が聞こえてきたわけです。三番目の生きがいは、まさにものすごいヒント。
まだ介護される側ではなく、する側ですが、介護者としても参考になりました。それは被介護者の主体性を潰さないと云うことです。こっちが判断したり、やったほうが早くて確実だけれども、それは被介護者の主体性を奪うことになる。時間が掛かっても、いい方法ではなくても、被介護者が主体的に判断する機会を尊重したほうがいいですね。
それから、自由が利けば、講演を聴きに行ったり、本を買って、宗教的なヒントも得られますが、それも出来ない。であれば、そういう本を用意したり、そういう会話の相手も務めた方がいい。
かたい話になったかも知れませんが、昨日、これを書いて、一日おいて、心が穏やかになってはいます。いろいろ、嫌なことがあっても、苛立ったり、怒ったりすることが減りました。
身に降りかかる出来事は変わらなくても、「意味」を意識すれば、気分はかなり変わりますね。経験談~
もしかしたらいつか誰かに読んでもらえるかも知れない、というところで書くことがセラピーになってます。ありがとうございます。