秋
『秋』
昨日まで燃えていた野が、
今日茫然として、曇った空の下につづく。
一雨毎に秋になるのだ、と人は云う。
「俺さ、お前の妹がほしい」
「はぁ? 何言ってんだよ」
「くれよ、妹」
「やだよ、僕の妹だもん」
「んだよーけちだなぁ」
あいつの妹。俺達より2歳下。
容姿はものすごくいいってわけでもないが、それなりにいい。
何よりも、真っ白だ。それがいい。
「あの、えっと―――第2ボタン下さい!」
卒業式の後、帰ろうとした俺を引きとめたのが、あいつの妹だった。
いや、他にも何人もの女に引きとめられたが、無視していた。
―――やっと来たか。遅かったな。
「いいよ」
ハサミもカッターも持っていなかったので、頑丈に留められたそのボタンを力任せにぶちっとやり、手渡した。
「ほ、本当に、いいんですか?」
「いいよ。ほしいんだろ」
「有難うございますっ!」
不安げだったその顔が、ぱぁっと明るくなる。濡れた瞳でこっちを見るな。
地平線はみつめようにもみつめられない。
陽炎の亡霊達が起ったり坐ったりしているので、
――僕は蹲んでしまう。
「お兄ちゃん―――なんで、助けてくれなかったの?」
ふいに罪悪感に襲われた。部屋の中からその声が聞こえて。
俺は何をしているのだ。壊して壊して壊して壊して、楽しいか。
―――あぁ楽しいさ。ほしかったものが手に入って満足している。
そう思いたいのに、俺の奥底に潜んだ何物かが、そうさせてはくれない。
部屋のなかで倒れる音がした。あいつが出てくる。
「お前さ、あれはひどくねぇか?」
自分のしたことを棚に上げて。自分のしたことを認めたくなくて。
「―――他人のこと、ぜんぜん言えないくせによく言うよ」
あぁ言えないさ。だから何だ。悪いか。いや俺は悪くない。
「で、どうするよ? これから」
「知らねぇよ。好きにしろ」
意外にもあっさりした答えが返ってきた。
「じゃぁそうするよ」
俺とあいつの妹の契約がスタートした。
鈍い金色を帯びて、空は曇っている、――相変わらずだ、――
とても高いので、僕は俯いてしまう。
「ちょ、お兄ちゃん、朝から何を―――」
俺が上に乗っていることに気付いた妹。やっと目を覚ました。
妹に兄と呼ばせることで、俺のものだと意識する。意識させる。
嫌な夢をみた。誰かとのつながりがほしくて、妹に乗った。
それに慣れてしまったのだろうか、妹は流れに任せて抵抗しない。
目を閉じて、俺を見ようともしない。少し、悲しい。
もう、疲れた。
「起きろ。朝だぞ」
「―――知ってるよ」
「今日で終わりだ。実の兄のところへ帰れ」
俺は言って、汗を流すために浴室へ向かう。妹が疑問の視線を投げてきても、無視。
そう、今日で終わり。3年の契約期間が満了。長かったな。
シャワーを浴びながら、それでも妹の身体はよかった、などと下らないことを考える。
少し前に、妹が俺以外と寝ていることに気が付いた。
相手の予想はついている。たぶん当たっているだろう。
ついに、このときがきたのだ。
僕は倦怠を観念して生きているのだよ。
「秋!」
妹―――あいつの妹が家に帰ってから、ちょうど1週間後。
呼ばれた。俺の家の前にいるのは、あいつだった。
「これ、どう思う?」
あいつは、俺に写真を差し出した。
見慣れた場所、見慣れた顔、見慣れた学生服。
俺はそのとき、どんな顔をしただろう。唇の端が上がったのは自覚できたのだが。
「これが何か?」
「何か? じゃねぇよ。妹の部屋漁ったら見つけたんだよ」
いい年こいて妹の部屋に入ってんじゃねぇよ。しかも漁ってるし。
「これでお前脅すつもりなんじゃねぇかと思って。持って来てやったんだよ」
別に。脅されたから何だ。金がほしいならくれてやるが?
「そのとき何を要求するかだな。元に戻しておけよ。面白いじゃねぇか」
「―――お前がそういうなら、そうするよ」
秋蝉は、もはやかしこに鳴いている、
草の中の、ひともとの木の中に。
「秋先輩」
翌日、帰宅すると、今度はあいつの妹が家の前にいた。
「なんだ、ホームシックにでもなったか?」
予想通りだと思い、思わず唇の端が上がる。
「ううん。違うんだけどさ」
とりあえず玄関に入れる。靴も脱がずにあいつの妹は俺を見た。
「はい、これ」
そう言って差し出されたのは、昨日見た写真。
「これが何か?」
昨日と同じ反応。だからその写真がどうしたというのだ。
「秋先輩にとって、いろいろと不利なんじゃないかなーと思って。この写真」
「だから何だ? 別に不利だろうが何だろうが俺にはどーでもいいことだ」
「ふーん。じゃぁこれネットに出しちゃうよ」
「好きにしろ」
「へぇ。いいんだ。もし出してほしくないなら―――」
あいつの妹は、俺の真正面に立っているくせに更に詰め寄り、こう言う。
「100万円ちょーだい?」
やっぱりそれか。わかっていたが、面と向かって言われると若干腹が立つな。
「どっちでもいいよ。出したいなら出せばいいし、金がほしいなら金やるから。いい加減にしてくれるかそういうの。いやほんとに」
そう早口でまくし立てると、あいつの妹はそれまでの強気とは打って変わって、急に俯いて「今にも泣きそうなオーラ」を出していた。
「じゃぁ、じゃぁ、―――お金ほしい」
正直でよろしい。
「取りに行くからとりあえず中に入れ」
煙草の味が三通りくらいにする。
死ももう、とおくはないのかもしれない……。
「ふぅ」
俺は居間の片隅で煙草を吸う。気が向いたときにしか吸わない煙草。
あいつの妹が、少し離れたところに蹲って泣いている。右手には赤く濡れた包丁があった。
「ふぅ」
もう何度目の溜息だろうか。これは煙草の煙を吐く音じゃなくて、溜息だ。
バスタオルで止血しているが、果たしてこのままでいいのだろうか。いや良くはないはずだ。だがどうすることもできない。
あいつの妹の左手には、赤く濡れた厚い封筒があった。
「秋先輩―――」
「なんだ」
「ご、ごめんなさい―――」
「ごめんで済んだら世の中警察はいらないんだよ」
下らないありきたりな台詞しか出てこない。俺も末期だな。思考回路が滅茶苦茶だ。
「いいからお前は手を洗って早く帰れ」
煙を燻らせながら俺は言った。言ったのか。言ったのかもしれない。何が何だかわからなくなった。
「でも―――」
泣いている。あいつの妹は泣いているが、何もできない。そんな奴に用はない。
そろそろ、この腹の創にも限界が来たようだ。
俺はゆっくりと目を閉じた。
ほしいものは手に入れた。そんな俺の人生だ。
こういう終わり方も、悪くない。
Fin.
引用:中原中也『秋』