永劫の竜と月の眼【永劫の竜は座して標となる】
あまりの喧騒に、ほとんどのイグの民が起き出し、アル・ルグのもとに集まりました。アル・ルグが吐き出した蒼石英の溶岩が、轟音を立ててゆるい坂道をくだり、海へと流れていきます。
「ガニメデス様の予言通り、アル・ルグ様は死んでしまうのでしょうか。」
民の一人がそういうと、全員が一層ざわめきたて、周囲は轟音と不安の声で宵闇が濃くなったかのように感じられました。
「静かに、静かに。アル・ルグ様の声を聞かなくては。」
イーロスが叫ぶと、今度は皆急に静まり返りました。いつの間にかガニメデスは目を覚まし、真っ白な目でぼんやりと顔をゆらゆらと振っています。イーロスは彼を近くの岩に座らせ、アル・ルグに向き直りました。
「アル・ルグ様、声をお聞かせください。どうなさったのですか。」
なんと声をかければ良いか分からず、イーロスはとりあえずそう言いました。アル・ルグは彼を見下ろして、
「……覡か。我は永劫の竜、何も心配はいらぬ。」
と、弱々しい声で答えました。どう見ても心配いらない状態ではありません。イーロスは愕然として、黙ってしまいました。
「もう限界なんじゃろう。竜の体を見ぃ、黒く焼け焦げて石化してきておるじゃろ。」
フリードリヒがそう言うと、皆が上を見上げます。宵闇のように真っ黒な岩の鱗が時折呼吸に合わせてパリパリと剥がれ落ち、その亀裂の間を血管のように這う蒼石英の鉱脈が薄ぼんやりと光っています。当時はきっとガニメデスが作った彫像のように青く煌々と美しかったであろう島竜アル・ルグは、今では翼と身体を折りたたみ標高千メートル以上ある岩山のように、宵刻の暗がりで弱々しい光を放つだけ。
「光を、浴びすぎたのですね。我々の代わりに……。」
力無い声で、イーロスは呟きました。アル・ルグはまた蒼石英の溶岩を吐き、
「……我は生涯永劫、同胞らの魂の軌跡を観測し、次に会う彼らに語らねばならぬのだ。我は死んではならぬ。死ぬことは許されぬ。」
と、呟いています。イグの民達は泣きながらアル・ルグの体に縋りつき、魔力を送ろうとしました。しかし焼け石に水、アル・ルグは苦しそうに蒼石英の溶岩を吐き続けます。やがて自分に視線が集まり、イーロスは焦りました。代々竜を見守り続ける者として、覡王として君臨してきた、その意味を万民から問いただされているのです。しかし未熟なイーロスにはどうする事もできず、ただ鼓動だけがどんどん早まって、時間だけが過ぎていきます。
「……貴方の聖躯を私たちの住処にし、私の身体を新たな聖躯としてはいかがでしょうか。」
ふと気がつくと、イーロスの横にガニメデスが立っていました。そのゾッとするほど恐ろしく透き通った声が彼のものであると、最初皆は気付きませんでした。
「我と魂を融合すれば、もう貴様は貴様としてこの世に存在することはできぬぞ。」
アル・ルグはガニメデスの真上まで顔を下げ、金属臭のする声で、彼は凄んで見せました。しかし、ガニメデスは身じろぎ一つせず、真っ白な瞳で彼を見上げておりました。
「私はそのために生まれてきました。私には魂が無く、このがらんどうの身体にあるのは神の名のみ。かの名を隠し遂せるならば、私は喜んで貴方の器になりましょう。」
再び、透き通った風のような声。イーロスははっと我に帰ってガニメデスを見つめました。
「ガニメデス、何を……。」
「私はそのために生まれてきました。」
誰がなんと言葉をかけても、ガニメデスは録音のように同じことを言い、誰の言うことも聞きません。アル・ルグはガニメデスと二人きりで話がしたいとイーロスに言い、彼はそれに応じ、心配するイグの民達を帰らせ、自分はフリードリヒと共に近くの林で待機することにしました。
「まだ人々が光を知らぬ頃。暗い世界で、ただ永遠を生きていた頃。一羽の鳥が、空を見上げておりました。『この空の向こうには、何があるのだろうか?』と。私はその先に行ってはいけないと思いました。けれども彼を制する勇気は私にはありませんでした。私は黙したまま彼らの声を聞いておりました。」
原初の記憶か、と、永劫の竜アル・ルグは呟きました。目の前にいる少年、ガニメデスが語ることを、懐かしく思ったのです。そう、確かにそのようなことがあった、と、アル・ルグは言いました。
ガニメデスは齢二百歳に満たない、自分やイグの民から見れば赤子のようなもの。そのような者が、なぜ何万年も前の、記録に残っていない暗黒時代のことを語るのか。その理由は明確でした。彼が神の名を持ったまま成長した、「神に愛されし者」だからです。
アル・ルグは、ガニメデスから持ちかけられた座標点の一致について話をすることにしました。彼は盲目で耳が聞こえないため、アル・ルグは直接魂に語りかけることで、彼と会話をします。
「……確か、あの鹿も神に愛されし者であったか。」
普通、人は皆平等に神の名を持って生まれます。しかし、そのほとんどは神の名を忘れてしまいます。諸説ありますが、その目で世界を見、言葉を聞きながら、一個人としての性質、ないしは性格を獲得していく過程で、神の名を自発的に捨ててしまうのだそうです。アル・ルグは、それは呪いである、と、シャルル・メシエが語っているのを聞いたことがありました。空を破った罰。神の寵愛を失う呪いである、と。また、その名を語ることは禁忌であり、神に愛されし者達は皆生まれた瞬間に視覚・聴覚を奪われることで外界から切り離され、言葉も話さず、黙したまま、神の名をその身に封じたまま死んでしまう、とも。
「あの方は私と違い、からの器ではありませんでした。あの方は星の王の、青き炎に満たされた器であったのです。」
ガニメデスは幼い声色で、しかしはっきりと言葉を紡ぎます。
「貴方が生まれてくることは、ずっと前から知っていました。私は天球の座から星の巡りを見ておりましたから。」
その言葉に、アル・ルグは驚きました。彼は星の民ではない、と直感したのです。
「そなた、何者だ。」
「……何者でもございません。今の私はただの器。貴方が理から外れることをお望みであれば、天球のことをこれ以上知る必要はありません。」
そう言って押し黙るガニメデスを見下ろし、アル・ルグは一言、「貴殿が、革新の先に在る存在か」と呟きました。ガニメデスは何も答えず、月のようにぽっかりと開いた白い目を閉じました。
「もう時間がないのではありませんか?私はからの器、したがって心がありませんから、あの人たちとの別れを悲しむことも叶いません。貴方が私と座標を共にし、この器に貴方の魂と心が灯れば、きっと、あの人も喜ぶことでしょう。」
あの人とは、イーロスのことでしょう。あの弟思いの彼がどれだけ悲しむか、アル・ルグは想像して首を振りました。
「一人の存在が消え去るのを、誰が悲しまずにいられようか……。」
「アル・ルグ様、どうかガニメデスの望みを聞いてやってください。」
不意にイーロスがガニメデスの横に走り出て、アル・ルグの言葉を遮りました。
「すまんのう、島竜殿。止めたんじゃが、どうしてもと聞かぬのでな。」
罰が悪そうに歩いてくるフリードリヒをチラリと見て、アル・ルグは何か言おうとしましたが、急にむせ返って蒼石英を吐いてしまいました。
「我々は、この世界は、貴方様を失うわけにはいかないのです。貴方様の他に、誰がこの世界が永遠に存在し続けることを証明出来ましょうか。ガニメデスがこの日のために生まれてきたと言うのなら、私は王として、兄として、喜んで送り出します。弟の、第二の誕生を祝福せねばなりません。」
静かで、しかし震えたその声は、アリスタルコスの民全員を動かしました。彼らは弾かれたようにざわざわと蠢き、やがて三千人余りの国民が、アル・ルグ達を囲って輪になっていました。
「アル・ルグ様、どうか永遠に。」
そっと目を開き、ガニメデスはアル・ルグを見上げました。
「私の意志はこのアリスタルコスに住まう生きとし生けるもの全ての総意。どうか、この三千の意志と共に生き続け、最果ての地トゥルーメイアに辿り着かんことを。」
透き通った声が空間に溶け、全ての人の身体を通り抜けました。その瞬間、人々は一斉に手を繋ぎ、アル・ルグを中心に白い円が出来上がりました。
「本当に行ってしまうんだね、ガニメデス。」
「貴方の弟であったことを誇りに思います。今までも、これからも。」
人々が見守る中、イーロスとガニメデスは抱きしめ合い、別れを惜しみました。アル・ルグは今にも消えそうな意識の中で泣き叫びました。誰かを犠牲にしてでも約束を果たさなければならない自身の運命を悲しみ、それでも寄り添い生きようとする小さな子供達の燦然たる心音を聞きました。
円の中にガニメデスとアル・ルグを残し、イーロスはフリードリヒに連れられて円の外へ出ました。ガニメデスは兄の方を見て、最後に「ありがとう」と言いました。彼は笑っておりました。初めて見る彼の穏やかな表情に、イーロスは泣きながらも笑い返しました。
永劫の竜と月の眼の少年の、第二の誕生を祝して。
「…………上、兄上。」
初めて聞くような、どこか懐かしいような幼い声に揺り起こされ、イーロスは目を覚ましました。ぼやけた視界に見慣れた弟の顔が現れ、彼は飛び起きました。
「ガニメデス……?」
イーロスは彼の頬に触れ、はっと手を離しました。白かったはずのガニメデスの左眼は赤く輝いています。この輝きには見覚えがありました。言葉を飲み込み、何を言おうか迷っているイーロスに、ガニメデスは口端を上げました。
「僕はデュカリオ・サダルスウド・エルス=ガニメデス。覡王ヘリクス・サダルメリア・クル=イーロスの弟であり、偉大なる者、アル・ルグだ。」
「そう……でしたね。ええと、その、何とお呼びすれば良いか……。」
困ったような笑みを浮かべ、イーロスはガニメデスの前に跪き首を垂れました。ガニメデスは少しムッとして彼を見下ろして、
「おい、僕はお前の弟だぞ。その態度は何だ。」
と怒鳴り、腕を引っ張って彼を立ち上がらせました。
「兄上は今まで通り、王らしく、兄らしく振る舞っていればいい。……僕は宝瓶宮として、色々とやらなくてはならないことがある。手伝ってくれるか?」
「はい、アル・ルグ様のお望みのままに。」
仁王立ちしながら頬を膨らませている小さな弟に、イーロスは深々と頭を下げて笑いました。ガニメデスはやれやれと肩をすくめ、城に向かって歩き出しました。空を見上げると、薄ぼんやりと光が差し、アル・ルグの聖躯を青白く照らしています。
「十二の聖獣の魂を持つ者全てに出会い、十二宮としてもう一度テオフィルスに集めるのだ。魔獣はまだ滅んでいない。星の王の遺志を継ぐ者として、奴との戦いに備えなければならんからな。旅に出ることになるが……。」
「ずっと島に座りっぱなしでしたからね、きっとたくさんの出会いや発見に満ちた素晴らしい旅になるでしょう。」
ガニメデスを追い、イーロスは静かに歩き出しました。
永劫の竜は生き続ける。歴史の観測者として、同胞達の記憶と共に。




