第20話 白い雪に奪われる世界
十一歳の時に衛心に出会って、それからずっと一緒にいる。
衛心は三歳年上だったので学校は一緒では無かったが、家がそこまで離れていなかったので一緒に遊ぶ事も出来た。
出会った時の約束を果たす為か、衛心は親戚の集まりの時は咲良子の隣にいるようにしていた。咲良子を悪く言う人間から守ろうと奮闘する衛心。上手く守れてはいなかったが、それでも衛心の気持ちは嬉しかった。
衛心は子供っぽくて、騒がしくて。理出来ない様な馬鹿な事を仕出かす。どうしようもない人。真っ直ぐで真面目で、温かい。側にいる事が嬉しいと思える人だった。
「……まだ終わらないの?」
携帯の画面を見た咲良子は首を傾げる。
食事会前に衛心から連絡があり、「三時くらいには迎えに行けると思う」と伝えられていた。迎えに来た時にすぐに家から出られるように準備を終えていたが、三時半を過ぎても衛心からの連絡は無かった。
咲良子はカーテンを開けて外の景色を見る。
一昨日から降り続けている雪が、世界を白く染めていた。
自室の二階の窓から自宅に続く道を見下ろすが、衛心の姿は見えない。
(……近くまで行ってみようかしら?)
食事会は衛心の家で行われる。
雪が積もっている為、いつもの様に自転車は使えないが、咲良子の家から衛心の家まで歩いて三十分程度だ。
衛心が咲良子の家に来る時に使う道なら知っているので、行き違いになる事も無いだろう。咲良子の家とイルミネーションがある広場は逆方向。衛心が家に迎えに来るより、咲良子が迎えに行けば、一緒にいる時間を増やす事も出来る。
部屋を出る前に、姿見で自分の格好を見直す。
白いニットワンピースと焦茶色のタイツ、淡いピンクのダッフルコートとボンボンがついた白いマフラー。髪はハーフアップで編み込みをして、衛心から貰ったピンクのリボンのバレッタを後ろに留めている。両親も自分も絶賛する美少女が鏡の中にいた。
「よし」と一人頷いて、茶色のハンドバックを持って一階に降りる。リビングにいる母に出掛ける事を伝えて、鞄と同じ色の編み込みブーツを履いて外に出た。
「寒い……」
冷たい風に体温が一気に奪われる。
世界のあらゆる色を飲み込む真っ白な雪が作り出す世界が、何故だか怖く思えた。
人の少ない道を、咲良子は歩く。
(なんだか、いつもと違う……)
よくわからない恐怖感に包まれ、咲良子はコートのポケットに入れた携帯を取り出す。
衛心からの連絡は無い。大事な用事の時に電話をかけるのは躊躇われて、連絡する事は諦めた。
ザワザワと心を覆っていく不安を振り払うように、咲良子は衛心の家を目指して足早に歩いた。
衛心の家に辿り着いた咲良子は、すぐに違和感に気づく。
家の周囲にある目隠しと防音用の結界。呪術を使用する時に万が一にも外部に知られないように使われる結界は、三家の人間の家では必ず設置されているのでおかしくない。
問題は、呪術による外部からの攻撃を防ぐ役割を持つ結界がなくなっていた事だ。塀や門扉に描かれていた術式が、巨大な獣の引っ掻き傷によって破壊されている。
インターホンを鳴らすが、誰も出ない。
固く閉ざされた立派な四脚門と家を取り囲む高い塀に隠されて、中の様子がわからない。
しかし、結界が破壊されているのなら、十分に異常事態だと考えられる。
咲良子は携帯を取り出し、衛心に電話をかける。
苛立たしさを掻き立てる呼び出し音が続くだけで、衛心は電話に出なかった。
咲良子は寅が描かれた門扉へと手を伸ばす。
驚く程にあっさりと扉が開いた。
敷地内に入った咲良子は息を呑む。
椿の花びらの様な赤い色が雪面に散らばっていた。その赤の中央に倒れているのは、見知った人だった。
衛心の家で働く庭師の老年男性。遊びに来た時は、いつも優しく出迎えてくれる人だった。衛心と咲良子が遊んでいるのを温かい目で見守ってくれた。
しかし、雪の中に倒れた男性は、光を映さない目でただ宙を見つめていた。周囲には、穢れが漂っている。初めて見る人の死体を前に思考が停止して、咲良子は息を止めて凝視していた。
「あ……ああ……」
意味を成さない震えた声が口から漏れる。涙が頬を伝った。
涙を止めるように、ガラスが割れる様な大きな音が咲良子の鼓膜を震わせる。
驚いて音がした方へ視線を向けると、家屋が崩れ、ガラスの破片が周囲に飛び散っていた。
「黒い龍……」
壊れた家の前に、穢れを纏った大きな黒い龍がいた。
龍が見下ろす視線の先にあるものを見て、咲良子は叫ぶ。
「衛心!!」
壊れて剥き出しになった室内。血に染まり、膝をついた衛心が、余裕の無い顔で黒い龍を見上げていた。
咲良子の声に衛心がハッと振り向いて、二人の視線が合う。
「咲良子!! 逃げろ!!」
衛心が顔に焦りを滲ませた鋭い声で叫ぶ。
「あれ? お客さん?」
衛心とは対照的なおっとりとした声が聞こえて、咲良子は視線を向ける。
黒い龍に守られるように立つ少年が、こちらを見ていた。
白い髪も肌も服も赤で斑に染まっていた。全身血だらけなのに、少年は笑っている。その様子から、少年を染めているのが返り血なのだと分かった。
「ふふふ。ねえ、君も僕と遊ぶ?」
少年が掌を咲良子に向けて翳す。少年の手に白い光が集まり、術式が形作られていく。
咲良子は我にかえり、少年を睨みつける。
少年が何者かはわからないが、衛心を傷つけた人物なのは確かだ。
咲良子は鞄の中から銀柱を一本取り出す。
簡易的な術式ならば、イメージするだけで即座に発動可能だ。しかし、大抵の術は構築式をいくつか組み合わせて術式を完成させなければ発動出来ない。
その為、鬼降魔の術者は、予め『銀柱』などの呪具に術式を刻んでいる事が多い。呪具に術式を仕込んでいれば、力を流すだけで瞬時に発動する事が可能になるのだ。
咲良子は、握りしめた銀柱を地面に突き刺す。
銀柱に力を流し、仕込んでいた結界の術式を発動させた。前方に白銀色に輝く壁が現れる。
少年が作り出した術式から現れた白い小さな龍が、咲良子を目掛けて飛んでくる。咲良子の結界に阻まれて、小さな龍は音を立てて消滅した。
(うまくいった……)
結界がうまく発動した事に、咲良子は安堵の息を吐く。術の練習で結界を発動させた事はあるが、実際に呪術の攻撃を阻んだ事は無かったので緊張した。
少年を見れば、目を見開いて驚いた表情を浮かべていた。
「その光は、結人間の……。でも、銀柱を使っているし、術式は鬼降魔?」
術者によって力の色が異なる鬼降魔とは違い、結人間の力の色は全員が白銀色。咲良子が描いた結界の術式は鬼降魔のモノなので、少年は不思議に思ったのだろう。
どうやら、少年は鬼降魔の術式も結人間の力の色の事も理解しているようだ。呪術の力の色が白なので、鬼降魔の人間なのだろう。
(という事は、あの黒い龍は加護なの? 何故、衛心と戦っているの?)
「結人間の人は優しくない。お兄ちゃんになってくれなかった。僕を嫌った」
少年はブツブツとよくわからない言葉を呟く。考え事に集中している様だ。好機だと考えた咲良子は、結界を解除して、簡易的な攻撃術式を紡ぎ出す。
白銀の術式から生まれた矢が、俯いている少年へ一直線に向かっていく。
あと少しで届くというところで黒い辰が少年を庇い、咲良子が放った矢は光の粒となって宙に消えた。
(もう一度!)
再び術式を紡ぎだそうとした咲良子は、ゾッとする気配に息を呑む。
昏い目を見開いた少年が、咲良子を見つめていた。
「酷い。君も僕が嫌いなの? 何で僕の事をいじめるの? 怖いよ。お母さん。助けて。僕……僕は」
少年は瞬き一つせずに淡々と呟く。異常な少年の姿に、咲良子は恐怖を抱いて一歩後ずさる。少年は憎しみのこもった顔で咲良子を睨みつけた。
「死んじゃえ! 僕に酷い事する人、みんな消えろ!!」
少年が絶叫すると共に、六つの攻撃術式が宙に浮かび上がる。白の術式が少年の周囲にあった穢れを吸い込んで黒く濁る。
嫌な予感がビリビリと肌を刺す。咲良子は咄嗟に地面に刺していた銀柱に力を流し込んで、結界の壁を再生させる。
結界が張れると同時に、小さな黒い龍の形をした六体のモノが、咲良子を目掛けて襲いかかってきた。
小さな黒い龍が咲良子の結界に衝突する。量が多い上に穢れも帯びているせいか、小さな黒い龍は消滅しないまま、結界を力で押し続けている。結界が嫌な音を立てて揺れていた。
(押し切られる!!)
結界にヒビが入る。咲良子は自分の中にある全ての力を結界へ注いで、修復と強化を試みる。
「咲良子!! 後ろだ!!」
衛心の声に咲良子は振り返る。「あっ」と言葉を漏らす間も無く、結界の正面から逸れて後ろに回り込んだ一体の黒い龍が、咲良子の背後から襲いかかった。
(ダメ! 間に合わない!)
回避が不可能だと感じた時、咲良子の胸元から白銀色の光が溢れる。
温かな白銀色の光に咲良子は目を見開く。
「……ママ」
咲良子の体は、白銀色に輝く卵型の結界に包み込まれていた。母が作ってくれたペンダントの呪具の結界が発動して、咲良子を守っていた。
母の結界の力に阻まれて効力を無くしたのか、六体の小さな黒い龍は塵となって消えた。
「嫌だ! やめろ! 消えろ!!」
錯乱した少年の声と共に、黒い辰が動く。穢れを持った辰が真っ赤な口を開けて咲良子へ向かってきた。
咲良子を包む結界が揺れる。辰は結界ごと咲良子を上下の顎で挟み込む。鋭い牙による持続的な攻撃。咲良子を守る結界に亀裂が入る音がした。
(ダメ。このままじゃ!)
壊れないでという祈りも虚しく、咲良子を守る結界は次々とひび割れていく。辰の鋭い歯が結界を突き破り、内側に侵入してきたのが見えた。
痛みへの恐怖から、咲良子は固く目を閉じる。