第3話 見えますか?
猪島亜海は、高速道路の標識を確認しながら車を走らせる。
パーキングエリアで車を駐めて時間を確認すれば、昼の十二時になっていた。
パーキングエリア内にあったコンビニで眠気覚ましのエナジードリンクを購入して車に戻ると、口から大きな溜め息が漏れた。
朝の八時に自宅アパートを出ていたが、いまだに目的地に辿り着かない。途中二回ほど休憩を取ったが、体がだるくて仕方がなかった。金銭的に安く済むと思って車で行くことを選んだが、新幹線とタクシーで移動した方が良かったのかもしれない。
凝った肩を揉みほぐしながらスマホを操作し、地図アプリで目的地までかかる時間を調べる。
(あと三十分くらいで着くんだ。でも、これから下道に出るし、休みの日は道が結構混むらしいから、一時間くらいは見た方がいいか。そろそろ連絡を入れよう)
メッセージアプリに添付されていた番号をタップして電話を掛ける。
相手が口を挟む隙を与えないように、用件と一時間後に着くことだけを告げて電話を切った。エナジードリンクをグイッと飲んで、座席に沈み込んで目を瞑る。
(疲れた。でも、これが終われば解決するんだ)
亜海の今までの人生は割と順調だった。家族関係や交友関係も良い。大学卒業後の就職先も決まっている。周囲にいるあまり親しくない人達から、よく嫉妬の感情を向けられる程の運の良さだった。
妬まれるのは嫌な気持ちになるが、それ以上に亜海が気にしていることがあった。
──”人には幸せと不幸が同じ量だけ与えられている。”
小学生の頃に教師が言っていた言葉。それは、ふとした時に亜海を不安にさせた。
”それなら幸せを多く手に入れてきた自分には、いつか大きな不幸が一気にやってくるのではないか?”と。
その考えを裏付けるように、三ヶ月前から頻繁に悪いことが起こるようになった。
気づかぬ内に持ち物がなくなっていたり、駅で誰かに背中を押されて階段から落ちそうになったり。バイト先の飲食店で、頭上の食器棚から亜海の頭めがけて皿が落ちてきたり。夜道を歩いている際に街灯が当たらない場所にあった側溝が外れていて足を踏み外し、脹脛を縫わなければならない程の怪我を負った。
それに加えて、誰かに見張られているような嫌な気配を度々感じていた。毎晩のように黒い影が亜海を追いかけてくる夢を見る。人生で初めて金縛りを経験した。
──”あなた、呪われていますよ。”
そう言われた時、亜海は信じられないという思いと、やっぱりと納得する思いがあった。
知り合いから紹介された”視える人”。
胡散臭いと思いながら話を聞いていたが、その人は亜海の状況を悉く言い当てた。次に遭う危険を予知してくれたおかげで、亜海は自宅アパートのベランダの手すりの金具が緩んでいることを事前に知ることができ、転落せずに済んだ。
この呪いは徐々に力が強まり、やがては亜海の命を奪うという。
(私は……まだ死にたくない)
亜海は目を開ける。エナジードリンクの効果なのか、先程より体と頭が軽くなった気がした。
エンジンをかけて、車を発進させる。
高速道路を降りてから、不思議な程に良いタイミングで信号が全て青に変わった。祝日だからと予想していた混雑もなく、かなり快適に運転できた。
(神様が味方してくれているのかもしれない)
亜海は三十分も早く目的地に到着した。
駐車場に車を駐めて、運転席から降りる。坂を上る前から感じていたが、随分と大きな屋敷のようだ。
恐怖と怒りを手に握りしめて、亜海は屋敷を睨みつける。
「ここに、私を呪った人がいるんだ」
***
「総一郎様。先ほど仰っていた一般人のお客様が到着しました」
総一郎が母屋の一階にある仕事部屋で書類仕事をしていると、襖の外から声がかかった。時計を確認すると、予定より早く、まだ十二時四十五分だった。
少しだけ待ってもらい、切りのいいところまで仕事を終わらせて立ち上がる。総一郎が襖を開けると、君丸が立っていた。
君丸は主に総一郎の事務系の仕事をサポートしてくれる秘書のような立場の人間だ。杓子定規なところはあるが、総一郎を心から慕う信頼のおける人物である。
「君丸君、ありがとうございます。呪具や凶器になりそうな物はありましたか?」
「戌に調べさせましたが、危険物の持ち込みはありませんでした。ただ、右肩に微弱ですが邪気が纏わりついており、軽度の呪いを受けていると思われます。対面接触による影響はありませんが、追い詰められている人間特有の焦燥が感じられました。暴れた場合に備えて、室内に結界を張っています」
「わかりました。ありがとうございます」
君丸が先導して、客人が待っている部屋へ案内してくれた。
襖が開けられ、部屋を見た総一郎は苦笑する。
室内を二分するように張られた結界。通常の結界は光を纏ったガラスのように向こう側が透けて見えるのだが、君丸が張った結界は磨りガラスを二重にしたように向こう側が見えない。これでは、依頼人の顔も見えないだろう。
(今回も随分と気合を入れて張ったものだ)
振り返ると、君丸が褒められ待ちの子犬のような顔をしている。やりすぎだとは思いつつも、礼を言って下がらせた。
総一郎は部屋に入る前に、依頼人の姿を確認する。
年齢は二十代前半から半ば辺りで、今時の女性という印象の服装。化粧で緩和されているが、その顔は何かに怯えているように青ざめているのがわかる。
君丸の言う通り、依頼人は軽度の呪いを受けているようだ。命を奪うような強力なものではないが、それなりに悪意はありそうだと感じる。
総一郎は相手の警戒心を解くように柔らかい笑みを浮かべた。
「お待たせしました」
女性と対面に置かれている座布団に座る。思った通り、重ねすぎた結界のせいで向こう側は見えなかった。呪術の力が無い依頼人からは総一郎の姿が見えているので問題は無いだろう。
「今回は、呪いについて相談したいことがあるというお話で間違いありませんか?」
「……はい。あ、あの……」
女性は不安そうに口籠り、項垂れてしまった。暫く待ってみたが、なかなか言葉を切り出せない様子だ。
(前当主の知人からの紹介ということでしたが、問題なさそうですね)
前当主は人を呪い殺す仕事も請け負っていた。
総一郎が当主になってからは、人に危害を加える呪いの仕事は全て断るようにしたので、依頼が持ち込まれる事はほぼ無くなった。しかし、稀に前当主関連の人から話を持ちかけられることがある。
従業員が対応して断った際に依頼人が怒り狂ってトラブルになってしまったこともあり、前当主が関わる際は総一郎が対応するようにしていた。
目の前にいる女性の様子からして、人を呪い殺すような依頼ではない。おおかた、自分にかけられた呪いを解きたいのだろう。
「そう身構えなくて大丈夫ですよ。不安なことを吐き出してみてください」
一般人は呪いを信じていない人間が多い。それ故に、『自分は呪われている』と口にすれば、周囲から異常者扱いされてしまうと危惧する。思い違いの場合ならいいが、本当に呪われていては命に関わることもある。
「外は寒かったでしょう。温かい内に、お茶を召し上がってください」
女性に茶を勧め、総一郎は湯呑みを手に取る。
普段は来客対応中に茶を飲まないが、ふと日和の話を思い出したのだ。
この前会った時、日和は「出されたお茶を飲んでいいタイミングが分からなくて困る時がある」と話していた。気を遣って色々考えてしまうらしい。すかさず碧真に「菓子はすぐに食おうとするくせに」と馬鹿にされていたが。
仲良さげな二人のやり取りを思い出して、思わず顔が綻ぶ。碧真は以前より表情に棘がなくなったように思う。あの二人は、思った以上に良い関係を築いてくれた。
(碧真君と日和さんが結ばれたら一番いいですが。もし、そういう関係にならなかったとしても、碧真君の中に日和さんとのことが温かな思い出として残ってくれたら……)
「あの」
声をかけられ、総一郎は顔を上げる。女性が左手を持ち上げた。
「あなたには、これが見えますか?」
思い詰めたような強張った声で女性は問う。恐らく、右肩を指差しているのだろう。
結界越しでも薄らと見える微量の邪気。総一郎は頷いた。
「やっぱり……」
理解者を得たと安堵するのかと思いきや、女性は怒りを露わに立ち上がる。
「やっぱり、正道様の言う通りだった!」
ゾワリと体を走る悪寒に総一郎が腰を浮かせようとするより早く、女性が口を開いた。
「術者の名前は、鬼降魔!」
女性が唱えた瞬間、室内の空気が一変して重く体に伸し掛かる。
爆発音と共に顎先に強い衝撃が走り、総一郎は畳の上に仰向けに倒れた。
『ナ……ナ』
何かの呻き声が耳に届いた気がするが、ぐらつく頭では思考することもできず、ぼんやりと意識が溶けていく。
終わりを感じさせるような底冷えする真っ暗闇の中に、総一郎の意識は落ちていった。




