洗濯済みのティッシュペーパー
──都内某所。
「やあやぁ。よく来たね。睡季さん。」
空に刺された何本かの針の一つに居る。大きい丸にHの文字。だいぶ煤けている。ヘリコプターは見つけられるのだろうか?
『ネモちゃんこんにちは。勿論来ましたよ。』
──あのままじゃいられないのでと小さく零す。結露の水滴一粒。彼女は、これから起こるであろう不幸を避けられなかった。吸盤のようにへばりついてしまっているようだから仕方ない。傍迷惑で飲み込みにくい事実だ。こうなってしまったら私も歩み寄る必要があるだろう。私はこの人の覚悟を見ないと信用できなかった。致命的に頭が悪いか疑われるぐらいに、彼女に確認した。あの後もそれこそ耳にタコをつくるくらい。それでも逡巡して、私は答えを彼女に投げた。せめてその不幸を酒の肴になる程度には加工する責任が私にはきっとある。退嬰的に海月のようにぷかぷか浮かんで誤魔化しても溺れているようにしか見えない──自己嫌悪の海を泳げる才能は私には無い──それに、私は月になれない。それどころか、ススキにも。似ているのは、不安の風に揺れることくらいだ。
「ここに来たってことは──」
『はい。何度聴かれても変わらない答えです。私は、哀しみを強いる変わり映えのしない明日の繰り返しより、ゴミ箱を漁ってでも宝石を手に入れる方がいい。絶対後悔するって分かってても、もう理性が機能する段階は通り過ぎてしまった。時間を無駄にし過ぎてしまったしね。』
不味い酒が抜けた彼女は聡明で綺麗だ。才色兼備。でも、透明な蝶の鱗粉をとってしまったように見えてしまうのは何故だろうか。地に足をつけて空を飛ぼうとしているようにも──鉄の羽を新たに付けようとしているようにも──酷く思考にコールタールが混じっている気がする。
「分かりました。私も出来る限り──」
保険。出来る限りなんて言ってる。洗濯済みのティッシュペーパーをポケットの中で強く握りしめる。負け惜しみのようなティッシュの糸。私は彼女の命綱にはなれない。まさにこれと一緒だ。蜘蛛の糸を垂らすような真似も、氷を垂らして冷たくあしらうことも出来ない。ただ……私は、リヒトのお願いを叶えてあげたいだけ。この可哀想な人を見放すことが出来ないだけ。
『うん。ありがとう。展望は結局何一つ無いんだけれどね。曇天の夜みたいに。』
それはそうだ。残念ながら私の仕事は、貴女をスタート地点で足踏みさせることなんだ。そう言ってしまいたかった。相反する二つの命題を前に私はどうすればいいのか分からないまま、曖昧に頷く羽目になった。