キッチン
心を打つ軽いときめきのような包丁の音に耳を擽られて目が開く。11時半。フライパンに油が落ちて、溶けるようにじゅうとなって身体を起こす。11時34分。頭の中で群れる羊がどこかに行きはじめた。食卓に並んでいないか確かめる。まぁ、当然居ない。いつもの位置に座る。
『──あ、起きたんだね。おはよう、ネモちゃん。少し待っていて、もう少ししたらブランチにするから。』
船を漕いでるからといって私は船長では無いんだけどな。適当に微妙なあいずちをうつ。
「そう言えば、今日は何を作ってくれるの?お父さん。」
目を擦りながら言う。まだ眠い。
『昼だし。炒飯なんてどうかなと思ってね。パラパラと言う訳には行かないけれど、水分たっぷりにならないことは約束しよう。』
少し自信を覗かせる顔。いいな。この顔。嫌いじゃない。
『て、ネモちゃん!もう!いつまでも船漕いでないで、お手伝い!!』
「クウちゃん……お母さんじゃないんだから……。ああ、ごめんなさい。やるよ。」
悲しげな顔になったので、慌ててそう言って、そそくさとキッチンへ。ほぼ出来てるから、手伝えなさそう。冷蔵庫から麦茶を出して、適当なグラスに注ぐ。3つ。食卓に運ぶ。
『最後に卵だ。』
リヒトさんがそう言った。ちょうどもうすぐ終わるみたいだ。
***
一家の団欒。血は繋がっていないから、厳密にいえば違うけれど、間違いだらけの私たちにとってこれは正解だ。周りに煙がたってるのは故障じゃない。彼が吸うシーシャの残りだ。空にチョークで線を引くみたいな煙の絵は何処に消えてしまうのか。
『お口に合わなかった?』
「少し考えごと。とっても美味しいよ。」
──そう言えばこんな日だったなぁと。笑ってみせるとリヒトさんは少し訝るけれど、やがて笑顔を見せた。奥で扇風機の風に揺れる部屋干しの下着とは対照的だ。この空間の裏側はどうかは知らない。ただ、私は今のところ安寧という名の得難い幸福を享受している。それは間違いないのだ。
『睡季さんはどうだった?』
幸福な食卓に挟み込まれる悩みの種。ピーマンは種があった方が好きだけれど、この種は除去しておきたい。花もジメジメしたものしか咲かないし。
「素面でも酔ってる人だった。泳ぐ海が酒しかなくて、色んな愚痴を産卵してた。ロシアにでも住んでいたのかもしれない。」
可哀想なロシア人、ヴォートゥカ片手に神を見るか。きっとロシア人名は睡季憂鬱とかそんな感じ。ちょうどяで終わるからロシア人女性らしい。意味は最低だけれど。
「でも、これからの色々なゴタゴタを避けて通らすことは出来なかった。──空を泳ぐ流れ星すら見えないこの都市で溺れている人をさすがに放置出来ない。願掛けするものすらないからね。随分迷ってしまったけれど、決めてしまったことなの。──ごめんなさい。」
『──謝ることじゃないさ。私も彼女に罪悪感があったんだ。むしろスッキリしたくらいさ。』
カラッとした笑顔を浮かべてそう言う。逡巡の甲斐あったのかもしれない。結果的に彼女を救えた。
──私は、【逡巡】する。全てを考え終わってなお葦のように動けない。しかし、すぐに決まるものがある。それにはいつも──悲しみが絡んでいる。