セレネーとアネモネ
オドオドした少年が迎え入れた先は、仮面の群れだった。造花売りで生計を立てて貴族になっていたら、違ったかもしれないが大変に気味が悪い──仮面舞踏会なんて、招待状があっても私は参加しないと思うから、それはあまり関係ないのは置いておこう──よく考えなくても私もソレの一部なのだけれど。
『遥塚 終日。そう言えば言うの忘れたから。』
鼻先のサングラスをくいとあげて今更のように言う。アネモネより淡い青。サングラスなのに日に焼けてしまったらしい。やけに夜景に似合う不思議な雰囲気だ。
「ヒネモスちゃんね。私もネモちゃんって呼んでもいいかな。」
『かまわないよ。私に船は操縦できないけど。』
クスリとも笑わずに冗談らしきものを言う。番傘で顔の半分を隠してもその無表情はきっと隠しきれない。そもそも彼女が人間として笑える個体なのか。
「ありがと。ネモちゃん。ところで、どうして私はこの場所に連れてこられたの?」
『リヒトのお願いを聴いたから。私はあなたの担当らしいから。その、顔合わせ。月を、探したいんでしょう?』
うなづく。
『セレネー、ヘカテー、アルテミス、どれ?』
月の女神の名前だ。しかし、そんな月の形に人はおさめられない。満月にも三日月にも合わない人間だっている。
「満月だけれど、三日月」
摘み食いをして答える。机の上に置かれているヘーゼルナッツも。
『その姿は新月といったところ?随分綺麗。』
素敵な合いの手。そう言えばヘカテーは新月だったか。
「うん。私の憧れの人だからね。綺麗にしか見えないよ。」
目は口ほどに物を言うと言うが、盲目はどれほど、物を言えるのだろうか。恋が作った盲目なら想い人の好ましい点が、憧憬が作った盲目なら……。自嘲のように考える。だから見つからないのかも知れない。あなたが降らす雨にも私は気が付かなかった。塵芥のように雲を作っていたのに。
***
彼女はただ目を惹く女性だった。彼女は、とあるコミューンの発足日に明日へのページを捲り違えたように、ふらりとやって来て目を擦りながら欠伸をした。太陽の下では輝けないくらい儚く、薄暗く透き通った氷のように美しかった。その神秘性すらある透明感にコミューンは惚れ込み女性をちょうど空席だった長に閉じ込めた。罪深くも、日陰で生きるべき月に太陽の代役をさせたのだ。御子がいらっしゃったとか言って、あれよ、悪れよ、荒れよとインチキ霊感商法の御神体。雑誌裏表紙の金運のブレスレット。正直あのコミューンの大人はとち狂っていたと思う。
しかし、私もまた狂ったレールに乗せられていた不格好なガソリンカーだった。とち狂ったサイクルをする前輪を追いかけるように、彼女の近くに寄った。酒気帯び運転。アクセルとブレーキはどっちが右だったか。警邏隊隊長──集落の警備長。垂氷さまに一番近い要職だった──ってのはその成れの果てだ。停滞を求める彼女とそれを助けてしまう私。三流映画にしても酷い構図だ。それを横合いからかっさらったのは、綺麗に磨かれた秒針を追いかけるような速さのBMW。降りてきた遊佐木とかいう奴は、その停滞を終わらせようとした。ピースは歪でもしっかり絵になっていたものを、あくまで利己的にひっくり返したのだ。私はそいつが嫌いだった。ロベリア。ただの嫌悪。
***
『あの男性が──気になるの?』
ネモちゃんの声でふと我に帰る。
「いや、何でもない。苦手な人によく似ていたから……」
『そう。ここでは、他の人の会話に耳を澄ませたりしては駄目だよ。今みたいにじっと見るのも、ね。』
仮面を指してそう言う。お忍びで来てる人も居るということらしい。まぁ、これ程悪巧みに適した場所はないか。マンホールの下みたいだ。きっと陽が出てても暗い。
「わかった。で、私はどうすればいいの?」
『出来る限り今は動かないこと、かな。貝になった気分で、水底でじーっと。でも砂は飲み込まないようにね。』
花のように手を咲かせたり枯らしたりしながら言う。こんな深海みたいなところに呼び込んだのに……。私は将棋の玉ではない。着いて行ったら詰まされるなんて聴いていない。
「どうして?」
『貴女がタルヒさんに逢うのはそれほど難しいから。科挙より難しい。月の枝を折るどころか、空に月を象って、撃ち落とさなきゃいけない。カンペもない。そして、何より、問題なのが──』
突然置かれた空白。ジョン・ケージ4分33秒の演奏。居心地が悪い。同じジョン・ケージならオルガン2/ASLSPが好みだ。終わらずほとんど変わらない停滞。17ヶ月の沈黙は流石に待ってられないけれど。
『そう。タルヒさんは、貴女じゃなくユサキと遭うことを望んでいるという事実。』
たっぷりと時間を待って決定的な一言。どっぷりとした夜に溶けるまえに耳が広い上げる。薄々分かっていた話だった。諦める事が正しい選択であること。グラスに目を落とす。ウイスキーのを上で踊り溶ける氷。ヒラヒラと花が乗せられる。紫のアネモネ。
『けれど、私は諦めることを勧めたりなんかしない。諦めは人間の武器だ。振るうときには覚悟が要る。切れ味は鈍い。ハムすら満足に切れない。ずっと寂しさという膿を出しながら痛み続ける。』
『勿論、ドロップアウトするのは、かって。何もかも忘れて太陽だけ浴びてればいい。酒煙草男に非合法適当にまぶしてLAZY TIME ALL DAY。けど何か癪、じゃない?謝る前に勝手に罪が消える。自分を苛み続けるのに。』
拳を握る。ネモちゃんに、それを存在がわかる程度最低限にさすられる。
『これが、最後のドロップアウトポイントだよ。よく考えて。家を買う時くらいではひょっとしたら不十分かもしれない。』
そう、言いながら。