そんな上等じゃない。
都心から一時間針をズラした駅の改札を通る。微妙に整備された道をナビを頼りながら歩くさまは、まるでゾンビ。頭には思い通りにならない現実という刃が刺さっている。心という正体不明の臓器の所在が頭であるとするなら、忍者って奴はこれのことかもしれない。一昔前の外国人の考えも合っていることになるな。刃が心に刺さってる人なんて日本には無数に居る。見てくれだけに騙されてはいけない。それはあの世界で学んだ。俯く事もたまには必要であることも。スウェットのように緩い思考が汗と共に流れて過去になり、アスファルトを黒く染める。これじゃあ、片道切符のヘンゼルとグレーテルだな。汗の痕跡なんて、役に立たない。でも──取り敢えず到着した。
「ここか……。花下忘歸とか言うカフェは。」
そう。私はあのきな臭い男が言う救いとかいう奴に更に踏み込んでしまったのだ。
***
「想蕩 睡季と申します。先日はご迷惑を……。」
頭を軽く下げて、様子を伺う。人の良さそうな叔父さんと若い女性。
『ああ、お気になさらず。ささ、中に入って下さいませ。』
カウンターの椅子を引きながら言う。お冷と備え付けの手拭きもさりげなく。挙措に流されて座る。彼のアイコンタクトを受けて女性はメニューを開いてくれた。軽食のサンドが三つ。良く分からないが凄い種類のコーヒー──ブルーマウンテンしか知らない──ウイスキーはハーフショットから。シングルモルトもある。正直目移りするが、酒は辞めとこう。特にシングルモルト。夕方、あの匂いがする人間を電車の空気が許してくれるとは思えない。悪酔いに懲りたというのもある。数日で忘れるタイプの後悔だ。
「じゃあこの一番上のコーヒーをフレンチプレスでお願いします。あ、BLTサンドも。」
叔父さんと女の子は目を見合わせて笑う。何かおかしい事でもあったのだろうか。
『──失礼致しました。こちらの話です。申し遅れました。坤野 京と言います。こちらがうちの看板娘の澄香です。花芽 理人について聴きたいそうで。』
「はい。」
ひょっとしたらこの延長線上に私の探している人が居るのではないか──そういう甘い期待だった。
『リヒト君について教えられること──難しいね。僕は彼に情報を提供しただけだから。』
そう言えば、彼も人を探していると言ってたな。大方そのことだろう。しかし、この話し方──正直望み薄だ。
『しかし、垂氷は彼が腕を引く先にいるよ。元警邏隊隊長サマ。キミの思い通りになるかは別として──ね。』
「何でそれを……。」
たらりと背中に水滴。フラスコの結露。この人は何処まで……。優しげな顔に古狸が覗く。
『垂氷は知らない仲ではないからね。燎原のように広がる切ない繋がりの口火を切ったくせに、全てに涙を注いで元の木阿弥にした自分本位な世界で彼女の手足となり手枷足枷になったと。一番近くに居たのに、【停滞】から足を洗わせなかった。まぁ、手を染めてるのに足を洗っても仕方が無いけれどね。』
──急に火がつくように笑う。渡柄杓。私の顔に引火。消化出来ていない感傷に塩をすり込まれた。ヒリヒリとした痛みが生まれるのは、火を見るより明らか。強がって睨む。自分の悪さを棚上げして、火炎瓶を投げつける。
『あらら。随分と嫌われてしまったらしい。──あいたっ!』
狸が煙と消えて、ニヤケ顔。その頭に後ろからチョップが刺さる。
『これだから、坤野さんは。』
『まぁまぁ、無駄な悪戯ではなかったみたいだし。一発くらい殴られるのを覚悟してはいたんだけれどね。』
呆れた娘と肩を竦める親。そんな緩やかな世界が思い出したように出来上がっていた。
「別に……。その通りですし。」
促されるままに矛を収める。
『そうか。すまないね。少し疑ってしまっていた。──試したんだ。君自体が垂氷にとっての刃物になってしまわないか。』
息を呑む。喉に張り付く違和感。考える度にご飯が喉を通らなくなる。「私は逢いたいけれど、垂氷さまは逢いたくないだろう」という事実。
「そう……ですよね。」
机の木目に目を落とす。心に走る亀裂より線は少なそうだ。
『だけれど、一つの過ちが人を形作る訳では無いんだから、それで協力するか否かを私は決めないよ。君がどうするか──それも敢えて聞かない。それに──人を信じた方が面白いじゃないか。疑うのは簡単だけれどつまらないからね。それに──』
一度切ってニヤリ。
『大トロちゃんなんだから、舌で蕩ける素敵な結末を用意してくれそうじゃない。』
そんな上等じゃない。反射的にそう言ってしまいそうになるのを抑えながら、私は軽く顔を顰めた。




