仏の顔も三度まで
日の光も差さない、薄暗い掘っ建て小屋の中、車椅子に腰掛けた皺だらけの老人と相対している。私は震える手で、真っ黒いベレッタM92を構えて、照準を老人――かつて、アメリカで五本の指に入るマフィアのボスだった老人に向けていた。
「君、私を殺しに来たのかい?」
口径が小さいとはいえ、銃を向けられているというのに、老人は努めて冷静にこちらを見据えており、ゆったりと弾力のある車椅子に背中を預けた。
「当然かね。引退して、こんなスラムの端で暮らしているとはいえ、私はこの手でも、言葉でも多くの人を殺してきた。君は、数えるのも面倒な死者達の身内なのだろう?」
その通りだ。私は初めて銃を握り、初めて人を殺すために銃を構えている。そこからくる、例えようもない緊張と興奮は、なかなか真っ直ぐに照準を合わせられない。
それでも殺してやると、亡き妻のために、トリガーに指をかけた。この老人が指揮をしていたマフィアに、税理士だからと殺された妻の無念を晴らすために。
「どうしたのだい? 早くトリガーを引きたまえよ。殺すチャンスは今だというのに、どうした」
うるさい、そんなことは分かっている。私は声を荒げると、老人は肩をすくめた。
「私は人殺しに迷いを感じたことはなかったぞ? むしろ、善行だとすら思っていた。君の知る誰かを殺した時も、こんなふうに殺したのだろう」
老人は羽織っていた毛布に隠れた胸ポケットへと手を入れた。動くなと私は叫んだが、取り出したのは銃器の類ではなく、ただのタバコだった。
「私が若いころから値上がりつづけて、私が組織から追いやられる様に衰退していったタバコも、君に殺されるのなら、これが最後になる」
もう一度胸ポケットへと手を入れた老人は、今度も銃器の類ではなく、銀色のジッポーだった。知る限りの知識では、あのジッポーは防弾性能がある。私が狙うであろう胸から取り出したのは、もう生き残ることを諦めた証だろうか。
そんなこちらの思惑とは別に、ジッポーでタバコに火をつけると、日本人は素晴らしいと口にした。
「ことわざという、我々の話す英語では表せない、人生に対する生き方の指針の様なものがある。その中の一つに、こういう物があるんだよ」
三度目に胸ポケットへ手を入れた老人の言葉を聞いていたら、私の腹に重たい衝撃が走った。
「仏の顔も三度まで。どんな聖人でも、私の様な寂れた人殺しでも、チャンスは三回しかないということだ」
食道から逆流してくる血液を吐き出して膝から崩れ落ちれば、老人の手には博物館物のリボルバーが黒く輝いていた。
「仮にも、元は裏社会で生きてきた相手を殺すのなら、殺される前にやらなければならない。君は、本当なら一度目に胸ポケットへ手を伸ばした時にトリガーをひかなければならなかった。遅くても、二度目のジッポーを取り出す時には撃たなければならなかった。それらを怠ったから、君は私より先に死ぬ事になる」
私は、甘かったというわけだ。こうして死の間際になって、ようやく気付けた。相手は歩く事すらできない老人だが、人殺しと人心掌握のプロだということに。
「本当はね、私も殺されたかったよ。時折、食料と飲み水を届けに来る、かつての部下以外と接することのない、この人生の終わりを、君に委ねたかった。職業柄、自殺はできないからね」
さて。老人は通信端末を取り出すと、短い言葉を口にする。死体の処理を頼むと。
「次に来てくれるのはいつになることやら。しばらくは、君の亡骸とお喋りさせてもらうよ。腐臭と血の匂いが漂うイマジナリーフレンドとでも思えば、マシだからね」
私は、もう息をしていない。魂が空へと吸い込まれている。あんな老人一人殺せなかった私は、天国へ行くのか、地獄へ行くのか。とはいえ結局、私は何もできなかった。それだけが、私の生きた証として、薄暗い掘っ建て小屋に残ったのだ。