異世界生活の手引き
ちょっとずつ、ルテシア市での生活イメージを固めていこう。
この章はそんな内容になっています。
小規模スペースの会議室に、白峰達は集まった。
ホワイトボードに対して垂直に並んだ机の一辺に白峰と月野が、その向かい側の席に佐上と海棠が着席している形だ。
白峰は手にしていた小冊子を彼らへと配っていく。小冊子の表紙には「異世界生活の手引き」と書いてある。
「ええと、それでは異世界に引っ越す日にちも迫ってきたので、向こうでは具体的にどのように生活していくことになるのか? みたいな話を確認していきたいと思います。さっき配った小冊子が、手引き書となるので、向こうに行く前に読んで貰えると何かあったときに助けになるかと」
「ほ~ん? 見てもええ?」
「どうぞ」
促すと、佐上と海棠は冊子をめくっていった。
「向こうに行って貰っている警備隊の人達に渡しているものがベースになっていて、それに色々と書き足したものになります。向こうでやってはいけない犯罪行為やルテシア市の地図の他に、緊急時の行動や基本的な言葉などを載せました」
「うっかりやってしまいそうな犯罪とかってあるん?」
「そうですね。基本的には日本で犯罪になるような真似さえしなければ、特には問題ないかと。ただ、店先での値引き交渉みたいな真似は止めて下さい」
「え? 何で? それ、犯罪なん?」
白峰は頷いた。
「あちらでは、そういった交渉は然るべき立場の人間が、然るべき場所と時間を設けて行うべきという法律があるそうです。無秩序に価格を変更されることで、市場が荒れる恐れを防ごうというのが、その理由です。なんでも実際に昔、それで混乱が生まれたことがあったとか。我も我も強引に値引きを迫って、結果的に商売の妨害になったり」
「なるほど」
「特に佐上さん。気を付けて下さいね?」
「やらんわっ! お前、大阪人のことみんなケチやと思うとるやろ? 流石に、そういう理由あったら自重するわっ!」
月野に対し、佐上は鼻息荒く抗議した。
「治安はどうなんですか?」
手を挙げて海棠が訊いてくる。
「治安も悪くはないようです。犯罪の件数も見ましたが、むしろ海外と比べてもかなりいい方かと思います。ただ、実態まで正確に分かっているかというと不安はあるので、夜間に女性一人で出歩くような真似は避けて下さい。大通りだと、街頭も整備されていて人通りも多いですが」
「何か目安とか、ありますか?」
「定時で仕事を終えて、どこかで買い物をしたり、ご飯を食べて帰るくらい。十九時から二十時くらいに家に着くくらいなら、だいたい大丈夫だと思います」
「分かりました」
「生活のイメージとしては、諸々の電化製品が魔法の品に置き換わった様な感じですかね。ただ、水道やゴミ出し、トイレなどのインフラは少し前時代的なイメージでしょうか?」
「というと?」
「蛇口の素材の都合上、水道はあまり圧力を掛けられないので、蛇口がある水道は地面に近い限られた場所にしかありません。あとは、井戸のようなやり方で汲み取ります。上水道は一度煮沸したものを冷やしているそうですが、それでも飲むときは湯冷ましにするのが常だそうです。なので、飲み水はミネラルウォーターの様に買うことが多いようです。それと、ジュースも安く買えるようです」
「水、結構不便そうやな」
「それでも、これだけ整備されているというのは、こっちの世界の水事情を考えてもかなり上等です。水道水が飲める国なんて、世界中探しても限られるんですよ?」
「それじゃあ、お風呂とかはどうなるんですか?」
「アサさんのようなお屋敷だと、水道を引いてお風呂もあるようですが。庶民は銭湯を利用するようです。値段もそれほど高くはないかと」
「何だか、江戸時代みたいなイメージですね?」
「そうですね。そんな具合です。トイレは汲み取り式ですし。生ゴミはそれ用の道具を使って水分を飛ばして燃えゴミとして、分別をして指定の曜日に集積所へ。という具合です。ゴミ捨ての細かいルールは、区画によって違うので、それに従うことになります」
「まんま、町内会のゴミ捨てルールやな。口うるさいおばはんに目ぇ付けられると嫌やから、気を付けよう」
佐上のぼやきに、白峰達は苦笑を浮かべた。
「実際、ご近所の評判が日本を含め、地球人全体の評価に繋がりかねないので、気を付けましょう」
「私達が済むところですが、ゲートに近いところで賃貸住宅を利用させて貰うことになりました。それと、固まらずにそれぞれバラバラの場所に住むことになります」
月野の説明に、佐上が首を傾げた。
「何でや? 女の一人歩きを遠慮して欲しいとか言うんなら、月野はんや白峰はんに近くにいて貰った方が、うちらとしても安全なんとちゃう?」
「それもあって、色々と意見が分かれたのですが、もし私達が一ヶ所に固まっていて、万が一火事などに見舞われてしまい、それで運悪く全員が重傷を負ったり死んでしまった場合、状況を日本側に伝えることが困難になります。アサさんが協力してくれるとは思いますが、あまりそうやって彼女に頼りすぎるのもよくないだろうと」
「そういうことか」
「とはいえ、何かあったときに直ぐに集まれるようにはしたいので、住む場所はゲートからも互いの部屋からも近い場所にという方針となりました」
「分かったわ」
「部屋探しは明日になります。それと、時間が許す限り、日用の衣服や家具といった、こちらからは持ち込めなくて生活に必須になるようなものを優先して探すことになります。これも、詳細な予定はこれから皆さんと決めたいですが。ちなみに、水の便の事情があるので、水を運ばないといけない二階や三階は、一階に比べて賃料が割安です」
佐上が手を挙げた。
「持ち込めないもので気になったんやけど、スマホってどうなん? 持って行っていいん?」
その質問に、月野は大きく溜息を吐いた。
「ええ、確定とは言えませんが。持って行ってもよいことになりそうです。というか、します」
「ほんまっ!?」
佐上が喜色満面の表情を浮かべてくる。
「はい、これも色々と話し合ったのですが。結局は佐上さんのお仕事の話もありますし、いざという時に我々と連絡が取れないというのも、身の安全を考えれば非常に問題がありますから」
「あと、アサさんと屋敷の人にもスマホを持って貰う事になりました。充電用に太陽光パネルとバッテリーも持ち込む形で」
「試してみないと分かりませんが、ゲート管理用の施設に中継器を設置したとして、異世界の建物の材質を考えても恐らくアサさんの家までは電波は届くでしょう。ゲートから数㎞も離れていないようですし」
「せやな。いいことや」
うんうんと、佐上が頷いてくる。
「でも、それじゃあどうして月野さんはさっき溜息を吐いたんですか?」
海棠の質問に、白峰は苦笑を浮かべた。
「確かに、いい話ではあるんですけど、実はこの話って棚上げにされていたんですよね」
「どうしてですか?」
「ある意味で、こちらが主導して行う、異世界に対するインフラ整備ですからね。そういったルール策定についても各国で意見交換が行われている最中なんです。特定の国だけが、この場合は日本ですが、占有的に使わないことの約束だとか。その場合の出資がどうのこうのと。なかなか纏まらなくて。他にも業者の選定や地域住民への説明とか、色々と仕事が増えますし」
「ですが佐上さんがスマホの使用を要求したことで、慎重派の声は抑えられ、急進派の声が大きくなりました。結果、無理にでも纏めろというお達しが下りました。特に、月野さんが前面に出て音頭を取り、各国との調整を行うことになったんです」
「正直、愚痴になりますが気が重いです。本来、もっと時間を掛けて調整すべきものですしね。事情は各国に理解を頂けましたが。具体的な話を詰めるのは渡界管理用施設、暫定なので仮設住宅ですが、これが完成するまでと期限が定められました。スケジュールも内容も、なかなかにハードな案件となります」
「お、おう。お疲れさん」
責任を感じたのか、佐上が戦く。
「佐上さん?」
「何や?」
「これは、私なりの冗談のつもりですが。まさかこれで、実はスマホゲームがしたかったからとか、そんな理由だったりはしないですよね?」
「え? 嫌やなあ。そんなわけないやん」
爽やかな笑顔を浮かべて、佐上は手を振った。
しかし、その目が泳いだのを白峰は見逃さない。つくづく、嘘を吐くのが下手な人だと思う。自分に分かるくらいだから、月野も見逃してはいないだろう。
隣を見ると、月野は肩を竦め苦笑を浮かべた。本気で不機嫌な顔をしないあたり、何だかんだ言いつつ、面白がっているのかも知れない。
スマホの中継器とかって、どのくらいまで電波届くものなのかと、結構色々と調べるの面倒だった。
どうやら、鉄筋の建物が多い都会で数百メートル。遮蔽物が少ない田舎で数キロくらいの感覚であるそうなので。
建物の材質とかを考えても、ルテシア市ではゲートから数キロくらいまではスマホが使えるだろうなと。