明日はきっと晴れ
食事を含めて30分ほどの休憩をした後、シラミネは再び豪雨が降る夜へと出て行った。
彼がルテシアからここに来るまでに要した時間から考えても、彼が徹夜になることは明白だ。水と簡素な弁当だけを持たせて見送るのをミィレは歯痒く思った。
ミィレは膝を抱えて、居間のソファに座っていた。顔を膝に埋めて、目を瞑る。彼女の頭には、夜の闇に消えていくシラミネの背中が焼き付いて消えなかった。
「なあ、クレナ? ニホンの人というのは、みんなああなのか? 義理堅いというか」
父の問い掛けに、ミィレは押し黙る。無視しようとした訳では無いが、何て答えて良いのか、分からなかった。
少なくとも、ミィレが直接関わったニホン人はいい人だったと思う。でも、その話を短く説明するのは難しいと思った。
「あの人、よっぽどお腹が空いていたのかしらね? クレナが作った料理を夢中で食べていたわ」
からかうでもなく、それが本当に嬉しそうに、彼女の母は言った。
「彼のことが、心配か?」
今度の父の言葉には、ミィレは無言で頷く。
「そうか。そうだな。本当に、無茶をする男だよ。うちの娘をこんなにも心配させるなんて、とんでもない奴だ」
呆れ混じりに、父は笑う。その反応からして、どうやら彼もまた、シラミネには好感を抱いているようだった。
「お父さん。あの人、また来るかしらね?」
「どうだろうな? でも、俺はまた来てくれるんじゃないかと思うんだ」
「あら、奇遇ね。実は、私もそう思うのよ」
和やかに会話する親の会話に、ミィレは心がささくれ立つのを感じた。こんな状況だというのに、何をのんきなことを言っているのだと思う。
彼らにしてみれば、少しでも娘の心配を和らげようというつもりなのかも知れないが。だからといって、そう受け取れるだけの心の余裕は、今のミィレには無かった。
とにかく、黙っていて欲しいというのが、正直な彼女の思いだった。それを口に出すことも、出来なかったが。
「クレナ。お前が気に病むことじゃない。自分を責める必要なんて、無いんだぞ?」
無理を言うなと思う。
ここ一年ほどのの付き合いで、シラミネの性格というのは、ミィレにも少しは分かっているつもりだ。
彼は、優しくて、それでいてこうと決めたら貫き通す頑固さがあって。義理や人情に厚い。そういう男だ。
だから、自分の事情を説明したら、彼はどんな無茶でもしてしまうのではないか? そんな迷惑は、彼に掛けたくなかったから、そこを伏せて帰ってきたのだ。
早く帰ってきたのは、弟の容態が心配だったというのもあるが。もし、シラミネが帰ってくるまで待って、彼の顔を見て別れるとなったら、本当に帰れるのか不安でもあった。
それに、どれだけの決意を要したか。どれだけ、ルテシアに後ろ髪を引かれる思いで帰ったというのか。
だというのに、シラミネはそんな思いを全部ひっくり返すような、そんな真似をしてきたのだ。結果として、そのせいでシラミネにこんな所まで、土砂降りの雨の中を自転車で来る真似をさせてしまったというのなら。
「私、本当に馬鹿みたいじゃないの」
本当に、自分にも聞こえるかどうかというくらいに、ミィレは囁く。
自己嫌悪が、止まらない。
「なあ、クレナ? お前は、彼のことをそんなにも信じられないのか?」
少しだけ厳しい口調で訊いてくる父に、ミィレは僅かに体を震わせた。
「お前が、あいつに何も言わずに帰ってきた理由は、何となく分かる。これでも、お前の親だからな。でもな? それでも、あの男はこうしてここに来てしまうような男なんだ。つまり、やると決めたら、お前が想っている以上に、必ず何とかする男なんだ。だから、きっと何とかするさ。だから、もう少し、信じてやってもいいんじゃないか? 心配するだけじゃなくてな」
「それとも、信じるのが恐いの?」
母の声に、ミィレは少しだけ迷って。でも、答えはどうしても一つしか無かった。
ミィレは、首を横に振る。端から見れば、身じろぎしているだけにしか見えなかったかも知れないが。それでも、彼女は首を横に振った。
「おや? いつの間にか大分雨も弱まってきたようだな」
「そうね。もう少ししたら、雨も止むんじゃないかしら」
それを聞いて、ミィレは少しだけ心が晴れた気がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌朝。
白峰は息も絶え絶えに、渡界管理施設の中へと飛び込んだ。
途中で、いつの間にか雨は上がっていた者の。徹夜で自転車をこぎ続けて家に帰ってきたのだ。そこから、大急ぎで着替えをして髪を乾かし、走ってここまで来た。
始業時間には、十分ほど遅れた。間に合わなかったことは残念だが、状況を考えれば上出来だと彼は思う。
外務省の部屋に入るなり、白峰は頭を下げる。
「おはようございます。今日は遅刻して、大変申し訳ありませんでした。ミィレさんに、辞めた事情を聞きたくて、彼女の町まで行っていて遅れました。ただちに、今日の業務に移ります」
足音が近付いてくる。
「白峰君。顔を上げなさい」
足音は白峰の目の前で止まる。固い声色で、月野が声を掛けてきた。
その声に従い、緊張に顔を強張らせながら白峰は顔を上げる。
「――っ!?」
途端、白峰は目の前が真っ白になった。大きな破裂音が響き渡る。
よろりと体が傾き、横倒しに倒れそうになる。
しかし、倒れるよりも早く、月野に胸ぐらを掴まれた。
「おめは何ず馬鹿な真似すたんだっ! やっていごどどわりこどの違いが分がねのが? そった事でこの先やっていげるど思ってらのが、このほんずなすっ! そった顔すて、今日のすごど出来るど思ってらのが。人前さ出られる姿だど思うのが? あぁ? おめは、ふとがどんき心配すたのが分がってらのがぁっ! ほんに、このほんずなすっ! 一度、寝ろっ! 寝て、自分がすたごど反省すろっ! まなぐ開げだっきゃ顔出せっ!」
激しい剣幕で、月野は怒鳴ってきた。その激しさに、白峰は混乱し、たじろぐ。彼が何を言っているのか、よく分からない。
ただ、月野に平手打ちされた頬が、ひどく熱くて痛いことだけは感じた。
「し、しかし月野さん――」
「だばってもなんも無ぇ。この大ほんずなすっ!」
再び、月野から思いっきり平手打ちを食らって。疲労と眠気の中、ようやく立っていた白峰の意識は、今度こそ吹っ飛んだ。
月野が話した津軽弁の翻訳。
「君は何て馬鹿な真似をするんですか。やっていいことと悪いことの違いが分からないのですか? そんな事で、この先やっていけると思っているのですか馬鹿者。そんな顔で今日の仕事が出来ると思っているのですか? 人前に出られる姿だと思っているのですか? 君は、人がどれだけ心配したのか分かっているのですか? 本当に、この馬鹿者。一度寝なさい。寝て、自分がしたことを反省しなさい。起きたら顔を出しなさい」
「だっても何も無い。この大馬鹿野郎!」