その約束がどれだけ重くても
家の入り口で出来るだけ服から水を搾り取って、白峰はミィレの家に入った。
ミィレとその両親に案内されて、彼の部屋へと通される。
「こちらです」
部屋の中に入った瞬間、白峰は少し目を細めた。
彼の視線の先で、ひどく顔色が悪く、やつれた若い男が寝台で寝ていた。彼は白峰の姿を認めて、僅かに唇を動かしたようだったが、白峰には何も聞こえなかった。
白峰は思いだした。つい数ヶ月前、この世界のインフルエンザらしき病気から生還したときだ。彼女には病気の弟がいて、その治療費のためにアサの家に奉公に出たという話をミィレから教えて貰った。
「弟のルホウです。子供の頃から、心臓の調子がよくなくて。詳しいことは分からないけれど、お医者様が言うには、少し心臓の形状に問題があって血の流れ方がおかしいのかも知れないと」
ルホウの視線に応えるように、ミィレは小さく頷いた。
「ルホウ。この人は、シラミネさん。何度か話もしたことあると思うけれど、私がルテシアにいた頃、とてもお世話になった人よ。この人、王都に行ったお土産を届けにこんな所まで来たの」
ミィレの紹介にルホウは微笑んだ。
白峰は寝台の傍まで行き、座ってルホウに目線を合わせる。
「白峰です。初めて会うというのに、こんな格好で恐縮です」
「シラミネさん。遠いところまでよく、来てくれました。会えて、嬉しいです。姉さんが、お世話になっています」
「いえ、とんでもありません。自分の方こそミィレさんには沢山助けて貰いました」
白峰は本心からそう思い、またその想いが伝わるように、力を込めてルホウに伝える。
「ルホウ。無理に話さないで」
ミィレの訴えに、ルホウは首を横に振る。
「大丈夫だよ。心配しないで」
そうは言いつつも、話すことさえ体力を消耗するのか、彼が肩で息をするのが見えた。
「シラミネさん。何も言わずに仕事を辞めたけれど。どうか、姉さんを責めないであげて下さい。姉さんは、いつも自分のことより、他の人のことを。だから、今も――」
「大丈夫です。怒って何ていませんから」
「うん。そうか。それを聞いて、安心しました。姉さんから聞いていた通り、シラミネさんが優しい人で、本当に安心しました」
そう言って、ルホウは深く。深く息を吐いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから、彼と二言、三言の会話をした後。白峰達はルホウの部屋を出た。白峰は名残惜しさを強く感じたが、長居しては彼の体力に差し障りが出そうだったためだ。白峰は、ルホウの姿を強く頭に焼き付けた。
廊下を歩きながら、ミィレに訊く。
「ミィレさん。あなたがこうして急に故郷に帰ったのは、ルホウさんの為だったんですね」
ミィレは頷いた。
「その通りです。私がお嬢様の家に奉公に出たのも、心臓の医療費をどうしようかと。それで、相談に乗って頂いたからなんです。それが、先日に――」
複雑な表情を浮かべながら、ミィレは溜息を吐いた。
「あの子は、立派な子です。あの子は、部屋から近くの溜め池で小さな子供が溺れているのに気付いて。でも近くに誰もいなくて。家を飛び出して、池に飛び込んで助けたんです。まだ、水も冷たいというのに。本当に、無茶をして」
「あの子のお陰で、子供は助かりました。そして、あの子は言うんです。あんな状態になったというのに『僕にも、生まれてきた意味があってよかった』って。満足そうに、言うんです」
ミィレの両親からルホウについての話を聞きながら、白峰はどこか合点がいった気がした。白峰が見た印象だが、ルホウの目はとても澄んでいた。何も思い起こすことなど無い。そう、言っているかのように感じた。
「分かりました」
そう言って、白峰は家の入り口へと向かっていく。
「ちょっと? シラミネさん。あなた、どこに行くつもりですか?」
慌てて、後ろからミィレが白峰の腕を掴んだ。
「ルテシアに帰ります。今すぐに帰って、ルホウさんを助けるために、自分は全力を尽くします」
そう言った途端、ミィレはより一層強く白峰の腕を掴んだ。
「今から? 何言っているの? もう、外は真っ暗なのよ? それに、服も濡れたままで。風邪引きます」
「だからなんだっ!」
白峰は振り向き、大声でミィレに怒鳴りつけた。
「自分は、風邪を引いたときにミィレさんに命を助けられました。言ったでしょう。その恩は必ず返すと。今、こうしてミィレさん達が困っている。今ここで動かないで、何が男だ!」
白峰は再び、家の入り口へと向かう。
「だからって。こんなの無茶です。こんな真似、あなたにして欲しくないから。お嬢様達には、絶対に黙っておくようにお願いしたのに」
ミィレも鍛えているので、力は強い方だろう。しかし、それでも白峰に力比べでは適わない。白峰はミィレに腕を掴まれながらも、じりじりと進んでいく。
「ちょっと、待ちなさい」
その様子に、ミィレの両親も白峰の前に回り込んで、彼を止めた。
「シラミネさん。この子の言う通り、流石にこんな時間に、この天気で。ろくに休みも取らずに出よう何て無茶だ」
「そうですよ。落ち着いて」
「しかし――」
流石に三人がかりでは白峰の足も止まった。
「せめて、少しだけでも休んで、着替えと食事だけでもしていきなさい」
「お父さん」
ミィレの声に、彼女の父は首を横に振る。
「クレナ。男がこうと決めた以上は、もう止めようが無い。だがシラミネさん。君も、あまりうちの娘を心配させないで欲しい。食事と着替えはすぐに用意する。それなら、いいだろう」
少し迷って、白峰は力を抜き抵抗を止めた。
それを受け入れなければ、殴りつけてでも止める。そんな思いをミィレの父から感じ取った。
「分かりました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。恩に着ます」
それでいい。と、ミィレの父は白峰の両肩を叩いた。そして彼は、白峰の背後にいるミィレに向かって頷く。
「分かったわ。私が、食事を作ります。シラミネさんは、部屋で待って休んでいて下さい。すぐに、用意しますから」
「着替えは、私のものを貸そう。付いてきなさい」
白峰は、無言で彼に従った。