これが、どんなに馬鹿な真似だとしても
白峰も、こちらの世界に来て度々思ったことであったが。例え世界が違おうと、最も効率的な姿を追い求めようとすると、自ずと道具の進化は似通った形となっていくようだ。
自転車屋の開店早々、白峰が購入した最高級自転車の姿は、競輪やロードレースに使われる自転車の姿と似通っていた。違いがあるとすれば、素材ぐらいではないだろうか? 素材の特性に合わせた微妙な違いはあるのかも知れないが、少なくとも白峰には分からなかった。
この自転車は、とある自転車職人が、一度くらいは自分の持つ技術の全てを注ぎ込んだものを作ってみたいという欲求から作ってみたものだった。とはいえ、一般家庭の年収にも匹敵するような値段になってしまったもので、長く購入者は現れず、職人と懇意にしているユノア自転車店が、やむなく置いていたものだった。
そんな自転車ではあるが、自転車屋の主人もプロで、短い時間の間に白峰の体格に合わせた微調整を施している。おかげで、その性能は白峰が学生時代に使っていたママチャリとはまるで別次元の代物と言えた。
プロの自転車競技者達には遠く及ばないだろうと思っているが、それでも街中を走る自動車程度のスピードは簡単に出せているように思えた。
それこそ、自転車競技者よろしく白峰は前傾姿勢を取って自転車をこぎ続ける。まばらな通行者の脇を次々と追い抜きながら街道を北上し、以前に聞いた、ミィレの故郷の町を目指す。
無言で、一心不乱に白峰は自転車をこぎ続ける。
その視線の遙か遠くには、山脈が連なっていた。その山の麓に、ミィレはいるはずだ。しかし、ルテシアを立って数時間が過ぎて、もう昼になったというのに、その山々の姿はまるで近付いてくる気配が無い。
と、突如として白峰の脚が空を切り、ペダルを抵抗なく踏み抜く。
バランスを崩しそうに成り、反射的に白峰はブレーキを掛ける。
土煙を舞わせながら、自転車は急停止した。
白峰は舌打ちして、自転車を降りる。この感触は、通学時にも何度か覚えがある。自転車を確認すると、案の定だった。チェーンに相当する縄が外れたのだった。
溜息を一つ吐いて、白峰は背負ったリュックを地面に置き、自転車と一緒に購入した応急修理キットを取り出した。
荒い息を吐く白峰の額からぽたぽたと汗が流れ押した。脚を止めたせいで、一気に疲れが押し寄せてきたような感覚を覚える。
我ながら、馬鹿な真似をしていると思う。こんな真似をして、彼女が喜ぶ保証も無い。ただの徒労に終わる可能性だってある。それどころか、しくじって帰りが遅くなれば、クビにだってなりかねない。
だがそれでも、白峰はこうしたかった。こうしなければ、一生後悔する気がした。
白峰は汗を拭う。ふと、白峰が山脈の空を見ると、そこには暗い雲が立ちこめていた。酷い雨が降っているのかも知れない。だからといって、それがここで引き返す理由にはなり得ないが。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今日は朝から、季節外れの強い雨が、降っていた。
こういう日は、分かっていても気が滅入る。家の外から聞こえる雨音を聞きながら、ミィレは嘆息した。
日も落ちて、すっかり暗くなったというのに、雨はまるで止む気配が無い。そんなはずは無いと分かっていても、まるでいつまでも降り続けそうな勢いだった。
自室に籠もり、机の上に両肘を付いて、組んだ手を額に当ててミィレは目を瞑る。端から見れば、その姿は祈りを捧げているようにも見えるかも知れない。
「ただ、私は気が滅入っているだけなのにね」
そんな独り言を呟いて、ミィレは薄く嗤う。祈ったところで、もはや誰にも届かないと諦めているくせに、まるで祈りを拾い上げて欲しいと願っているような態度が、おかしかったように思う。
奇跡なんて、この世にありはしない。
あるいは、異世界の力が使えるというのなら、奇跡が起きた可能性もあるかも知れない。しかし、そこに至る可能性が、あり得ないのだとミィレは判断した。だから、選択出来る限りの最良の選択をこうして選んだつもりだ。
しかしそれでも、どんなに頭で分かっていても。あの優しい異世界の人達が、都合のいい奇跡を起こしに来てくれないか? そんな都合のよすぎる話を頭の片隅で願ってしまう。
だからきっと、いつまで経っても、忘れようとすればするほど、忘れたい男の顔と声を思い出してしまうのだろう。そう、ミィレは思う。
「えっ!?」
不意に聞こえてきたその声に、思わずミィレは顔を上げて目を開けた。
空耳? かと思ったが。
「ミィレさん! ミィレさん! 開けて下さい。こちら、ミィレさんのお宅で間違いないでしょうか! ミィレさん!」
家の入り口から、大きな声が聞こえ。何度も戸が叩かれる音がする。
それは、聞き覚えのある声で。けれども、あり得ないはずの声だった。しかも、紛れもない現実で、聞き間違えようが無い。
ミィレは、部屋を飛び出し、家の入り口へと駆け出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
家の入り口へと辿り着くなり、ミィレは口元に両手を当てた。驚きのあまり、声が出なかった。
入り口の近くにいた両親が、既に戸を開けていた。彼らの奥には、ミィレが思った通りで、でもあり得ないはずの男がいた。
夜になって暗い外にいても。雨でびしょ濡れになって、髪がべったりと頭に貼り付いていても、それが誰だかミィレには分かった。見間違えるはずが無い。
「クレナ。この人はお前の知り合いかい?」
戸惑いながら訊いてくる父に、ミィレは頷いた。
「シラミネさんです。私がルテシアで、お世話になった。異世界の人の」
シラミネは肩で息を吐いて、咳き込んだ。
「は? え? 君がシラミネ君? こんなところまで、一体どうやって?」
「自転車で。朝から。少し道に迷ったりもしてしまって。はは、予定が狂いました。夕方には着くつもりだったんですが、こんな時間にお邪魔して、すみません」
その答えに、両親が絶句するのをミィレは見た。
ミィレは、シラミネを睨む。こんな真似、とても許せそうに無かった。
カッと頭に血が上ったと思ったら、もう手を振り上げて、思いっきりシラミネの頬を叩いていた。
「あなた、一体なにをしているんですかっ! どうしてっ! どうしてこんなところまで! ルテシアから自転車で? 朝からこんな時間まで。こんな天気の中を? こんなにずぶ濡れになって。馬鹿ですかっ!」
「すみません」
「この、馬鹿っ! 馬鹿っ!」
ミィレは両手の拳を彼の肩に叩き付ける。何度も、何度も。
自分でも気付かないうちに、ミィレの両目から熱いものが溢れていた。
「何で? 来たんですか?」
ミィレの問いに、シラミネは服の胸ポケットからそれを取り出した。
涙でよく見えないが、シラミネがミィレの手にそれを置いて、握らせてくる。
「王都に行ったお土産です。ミィレさんにこれ、約束しましたから。それで、どうしても、直接渡したくて」
「そんな。ことの、ためですか。本当に、馬鹿」
嗚咽を漏らしながら、ミィレは白峰の肩を掴み、シラミネの胸に額を押し当てた。