聞きたい想い。言いたい想い
激しく息を荒げ、咳き込みながらアサとレイはベンチに座り込んだ。
追っ手から逃げ続けて、軽く5区画は離れた場所だ。彼らが追い着いてくる気配も無い。
「レイ。あなた。脚速すぎ。もう少し、手加減。してよ」
アサはずっと彼に手を引かれながら走ってきたが、追い着くのが精一杯だった。
「すまない。僕も、余裕。無くて」
アサの隣でレイもへたり込んで、顎を上に上げて喘いでいた。
「でも、流石にここまで逃げれば。当分は、追い着かれないと思う。あそこから、5区画は離れたから」
「そうね。こんなにも走ったの、生まれて初めてじゃないかしら」
男に手を引かれながら、窮地を脱出して逃げるというのは、小説とかだともっとロマンチックなものに思えるが。実際にやってみると、ロマンスの欠片も無い真似ではないだろうか?
全身にのしかかる現実的な疲労に、アサは夢を打ち砕かれたような気がした。
「アーシャ。さっき公園で話しかけてきた男。どうも、君を追ってきたようだけれど。誰なんだ?」
「ええと。あの人は――」
どう答えたものかと、アサは口籠もる。
数秒悩んでいると、レイは嘆息してきた。
「そうか。思い出せないんだな」
「え、ええ。そう、みたいね」
一瞬。ヤバいとアサは思ってしまった。
自分が記憶を失っているという設定をすっかり忘れていた。よほど、疲れて頭が回っていなかったらしい。先にレイが答えを言ってくれて、本当に助かったと彼女は思う。
「ひょっとしてあの男、君の恋人か。婚約者だろうか?」
恐る恐るといったレイの呟きに、アサは思わず呻く。
「な、ないないっ! それだけは絶対に無いわ! よく知らないけれど、多分それだけは絶対に無い。そ、そうよ。きっとあれよ。私の兄とか? そういう人よ。あるいは、仕事の同僚とか。ひょっとしたら、あの口ぶりから考えて? 実は私がそこそこのお嬢様で、あの人達は召使いか何かだったとかいう可能性もあるんじゃない?」
慌てて、アサは否定する。レイにそんな誤解は、されたくなかった。自分でも、なんでそんなにも必死なのかと思うくらいだが。
「本当に、そうだと良いんだけどな」
静かな、切ないレイの口調に、アサは胸が締め付けられる気がした。
と、同時に一つの疑問が湧き上がってしまう。訊くべきか? 留まるべきか? 逡巡した後、アサは結局、訊くことにした。
「ねえ? どうして『そうだと良い』のかしら?」
その問い掛けに、レイはあからさまに息を飲んだ。
アサは数秒待つが、彼からの返事は無かった。
「ねえ? どうして?」
無性にその答えを聞いてみたくて、アサは催促した。レイは呻く。
何度も、何度も。髪を掻いたり、唸ったりした挙げ句。彼は苦しげに口を開いた。
「そんなこと、言わないと分からないのか?」
「聞かせて、欲しいのよ」
この願いが、レイに対して相当な負担を強いている無理難題なのだろうとは思う。彼にばかり要求している時点で、自分でも我が儘で卑怯だとも思う。けれど、この我が儘を聞いて貰いたかった。
多分、自分でも間違いではないと思う。けれど、その答えが何か、明らかにされるまでは、恐い。
アサは心臓が痛いほどに高鳴っているのを感じながら、レイを見詰める。
「僕達は、まだ出合って一日も経っていない」
「そうね」
「まだまだ、お互いに知らないことだらけだと思う」
「そうかも知れないわね」
「一緒に、こうして追っ手から逃げてきて、その興奮を勘違いしている可能性だってある」
「本当にそう思っている?」
レイは、押し黙った。そして、彼は拳を握った。
「アーシャ。僕は、その答えは今ここで言うべき事じゃないと思う」
「そう」
アサは表情を曇らせた。期待を裏切られたと思う。
「だから、もう少しだけ。僕に付き合ってくれないか? 一緒に行きたいところがある。僕達にとって、それを言うのに相応しい場所があると思う。だから、もしよかったら、そこまで来て欲しい。そこで、必ず答えを言うよ。途中で、寄り道はさせて貰うかも知れないけれど」
俯き賭けたところにレイから続きを聞かされて、アサははっと顔を上げた。
「ええ。あなたと一緒なら、どこへでも。喜んで」
笑顔を浮かべて、アサは返事を返した。