二度とは戻れない夜
こちらが、起きた気配に気付いたのだろう。
「気がついたか?」
裸の背中を向けて、ベッドに腰掛けている男から、声を掛けられた。意外なほどに、落ち着いていて品のある口調だとアサは感じた。そこに、アサはほんの少しだけ安堵を覚える。
深呼吸をして、アサは少しでも落ち着こうと試みる。気付いたときから、心臓はずっと痛い程に脈打っている。
「ここは、どこ? あなたは、誰? 私に、何をしたの?」
男の背中を睨み付けながら。それでも、冷静さを失わず、臆したようには見られないように、アサははっきりとした口調で訊いた。
「それなんだけど。君、昨日の晩の事は覚えてる? 思い出せる限りでいいから、話して欲しいんだけれど。最初に断っておくけれど。僕は誓って、君に不埒な真似はしていない。もし君が、そういう経験が無いというのなら、医者に診て貰えば証明出来る」
その言葉に、アサは半眼を浮かべる。
起きた直後に確認したときは、上着は大きくはだけ、下着も捲れ上がっていた。
「着衣の乱れがあったんだけれど?」
「それは本当に知らない。君が、布団の中で暑くて勝手に脱いだんじゃないか? 僕は一切、見ていない」
ややもすると、憮然とした声が男から返ってきた。
「そう。なら、昨日の晩だけれど。私は、仕事でストレス溜まっていて。宿の部屋でお酒飲んだのよね。そこまでは覚えているわ」
うん。と、そこは間違いないとアサは頷く。
「そうか。僕が君を見付けたのは、真夜中の公園だ。ベンチに寄りかかって、寝ていた。君、夢遊病とか脱走癖のような心当たりある?」
「そんなもの無いわよ」
脱走癖については、子供の頃は少々。のつもり。それも、黙っておくが。
「そうか。何にしても、お酒は控えた方がいいと思うよ。そんなわけで、酔い潰れた君を放っておく訳にもいかないと思いつつ。病院や警察を探そうとしたけど。どっちも見付からなかったんだ」
「そ、そういうことだったの? ごめんなさい。私も、まさかこんな事になるとは思わなくて。あなたには迷惑を掛けてしまったみたいね。助かったわ」
見ず知らずの人間に、とんだ世話をして貰ったものだとアサは恐縮する。
「それじゃあ、どうしてあなたは裸なのかしら?」
「君を背負って運んでいる途中で悲劇的な出来事があってね? 途中で水道は見付けたから、脱いで洗ったんだよ。今は、あっちで乾かしている」
それを聞いて、思わずアサは胃がせり上がるのを感じた。
「本当にそれは。何てお詫びしたらいいというか。本当にごめんなさい。出来る限りのお詫びはするわ」
アサは項垂れ、心の底から男に詫びた。そう聞くと、男の背中はどこか、酷く疲れ切ったものを語っているように思えた。
「あの? それで? 最初の質問に戻るんだけれど。あなたが、私を介抱してくれたのは分かったわ。あなたの名前と、ここは?」
「ああ、うん。それなんだけど」
口籠もる男の様子に、アサは小首を傾げる。
「まず、僕の名前はレイ。イシュトリニス大学の、ただの学生だよ」
「分かったわ。レイさんね」
「それで、この場所。何だけれど」
「何だけれど?」
「その? 本当に、これは他に適当な場所が見付からなくて、君がどこから来たのかも分からなくて。落ち着いて聞いてくれよ? さっきも言ったけれど、病院も警察も見付からなくて、仕方なくこうしたんだから――」
「ええ」
きょろきょろと、アサは再び周囲を見渡す。
"連れ込み宿"
その言葉を聞いた途端、アサは枕を引っ掴んでレイの後頭部へと投げつけ。
振り向くことすら許さずに、そのまま彼を押し倒して馬乗りになり、何度も枕を叩き付けた。「だから、落ち着いて聞いてくれって言ったのに」という声は、アサの頭の中には入ってこなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ひとしきり、十分ほども枕で叩いた頃には、アサの頭も大分落ち着いてきた。枕を抱いて、ベッドの上に座り、レイを睨む程度には。
「気は済んだ?」
その問い掛けに、アサは猫の如く威嚇を返す。
「まあ、元気になったようで何よりだよ」
乾いた笑いを浮かべて、レイは肩を竦めた。
「正直なところを言うと、僕だって本当に不本意な選択だったんだ。いくら緊急事態で、おかしな真似はしていないと言っても、こんな所に、女性を連れ込んだなんて知られたら。本当にもう――」
そう言って、レイは大きく溜息を吐いた。
「それは、こっちだって同じよ。あなたが、誠実な人であろう事は信じるけれど。でも、よりによって、こんなところに男の人と入ったなんて知られたら。私だって本当にマズいことになるのよ」
と、そこで思い出す。
「あ、ちょっと待って? 今、何時なの? レイ? あなた、分かる?」
「あそこに、時計があるよ」
レイが指さした先を見て、再びアサの表情が固まる。
始業時間なんて、とっくに過ぎていた。
書いていて思ったけど。アサと佐上弥子の中身が入れ替わっている気がする。
アサ「そうよ! こういうのはサガミの役よ!?(激しく混乱中)」
佐上「なんやと。うちかてここまで非道くはないわ。訂正を要求する!」
月野「類は友を呼ぶという言葉を思い出しました」