アサ=キィリンの消失
朝。
実際のところは、医者に診断して貰ってからでないといけないかも知れないが。
精神的な不調については、一気に改善したような気がする。この調子なら、数日後には職務に復帰出来そうな気がする。
そういう話をイシュテン外交部やアイリャに伝えに行こうと、白峯が宿の部屋を出ると。
アサの母、アサ=キリユが宿の従業員と共に、こちらに向かってきていた。何事かと、白峯は目を丸くする。
「シラミネ。休養中に、しかも朝早くに押し掛けてきてごめんなさい。ちょっと、話いいかしら?」
「え? あ、はい。何事か、ありましたか?」
「それは、今から説明します」
キリユの、如何にも切羽詰まったと言わんばかりの鬼気迫る形相に、白峰は思わずたじろぐ。
彼女はつかつかとシラミネの直ぐ目の前まで近付き、従業員には少し離れていろと視線を送った。そして、白峯の耳に口を寄せる。
「シラミネ? あなた、キィリンを見掛けなかった? もしくは、ここに匿っていたりしないかしら?」
小声で訊いてくる言葉に、彼女が一体何を言っているのか、白峰は一瞬、分からなかった。
ゆっくりと、時間を掛けて、その意味を理解していく。
そして、小声で訊いた。確かにこんな話、従業員には聞かせられない
。
「ひょっとして、アサさん。今、いないんですか?」
それを聞いて、キリユは白峯から離れた。こくこくと頷いてくる。
「分かりました。それで、こちらに来たんですね。誓って言いますが、自分はその件については何も知りません。確認が必要なのも分かりますから、部屋に入って貰っても結構です」
「ありがとう。私も、本当にあなたを疑っているという訳ではないけれど」
それでも、彼女に仕手も、思い当たる節がここくらいしか無いのは白峯には分かる。白峯が部屋の鍵を開けると、キリユは従業員と一緒に部屋に入っていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
馬車の中で。
白峯の隣で、キリユは組んだ両手に額を押し当てて項垂れている。
「白峯。あなたには本当に、何と言ってお詫びと感謝を言えば良いのかしら」
「いえ、気にしないで下さい。困った時はお互い様です。先ほども言いましたが、自分はもう、大丈夫に思えるので。我ながら、あんな事で。単純だなあとは思うんですけど」
「何かあったの?」
「ええ、まあ? 些細なことですけど?」
余計なことまで口を滑らせてしまったかも知れないと、慌てて白峯は横目で見てくるキリユから目を逸らした。
「ところで、今はユグレイさんはどちらに?」
「あの人は、待ち合わせの場所に向かって、この件について相手に事情を説明しているわ。傍にいてあげられないのが、心苦しいけれど」
「あの? 事情は自分も存じ上げないのですけれど。その、お相手の方ってそんなにも大変な方なのでしょうか?」
キリユも、曲がりなりにも、高級外交官の妻として、秘書として外交の最前線に立ち続けてきた女性だ。その経験豊富な彼女が、こうして血の気を引いた顔を浮かべ続けているというのは、尋常ではないと白峯も緊張する。
「ええ。そうなの。ごめんなさい。事情は、訳あって白峯には話せないんだけれどね」
「警察に連絡は?」
「そんな事出来ないわよ。それこそ、バレてしまいかねない。ああもう、あの子ったら。よりによって、どうしてこんなときに限って。本当に昔から、ここぞというところで。皇帝陛下の来訪のときもそう。もういい大人なんだから、もうちょっとしっかりしていると思ったのに」
「ミィレさんから、子供時代のアサさんがとても活動的で、ちょくちょく屋敷を抜け出すようなお子さんだったことについては、自分も色々と伺っています。母親としては、アサさんは手の掛かるお子さんだったんでしょうか?」
「ええ、そりゃあもう。昔から、頭の回転が速くて物覚えも良くて、思いやりもある自慢の娘だけれど。本当に、どれだけ私達を心配させてきたか知らないわ」
「こういうのも、『手の掛かる子ほど可愛い』って言うんですかね?」
「なんですか? ニホンの諺ですか?」
「そうです。一緒に過ごして経験した厄介事が、いい思い出になって相手に対する愛情を深めるっていう意味です」
白峯は笑みを浮かべた。これが、少しでも慰めになればと思う。
「これまで、アサさんはキリユさん達からみたら手の掛かる所が多い娘さんだったかも知れませんが。だからこそ、それもいい思い出になって、深くキリユさん達の心に残る娘さんになったのだと思います。だからきっと、今回もそうなりますよ」
「本当に、そうなってくれることを願うわよ」
疲れ切った溜息をキリユは吐いた。
馬車はアイリャのいる宿舎へと向かっていく。彼女のところに、アサが匿われていないか確認するためと。アサの捜索に協力を依頼するためだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
アサが意識を取り戻し、薄ぼんやりとした視界で周囲を伺うと、そこは薄暗い一室だった。
ふかふかの布団の中で、頭が痛いことに気付き、そういえば強めの酒を飲んで寝たのだったと思い出す。
気分は、酒を飲んでも晴れた気がしない。これから仕事かと思うと、陰鬱な気分が蘇った。目なんて醒めなければ良かったと後悔する。
ふて腐れた溜息を吐いて、アサは首を横に向けて――
「ひいっ!?」
途端、彼女は息を飲み、悲鳴を上げた。
自分と同世代の若い男のものと思われる、裸の背中がそこにあった。こちらに背を向けて、ベッドに腰掛けている。
アサの頭から、一気に血の気が引いて、酔いも醒めた。
周囲もよく見ると、宿泊していた宿の部屋とは全然違う。清潔感はあるものの、逆に生活感が薄く妙なゴージャス感と色気が漂っている。
慌てて、彼女は自分の体をまさぐって、確認した。必死になって昨晩の出来事を思い出そうと試みる。状況から考えるに、本気で泣きたかった。心の中で両親に平謝りした。
アサ=キィリンさん人生最大のピンチ。
いや~、酒の勢いって本当の恐ろしいものですね。
アサ「もう、二度とお酒なんて飲まない(涙)」