アサとストレスと嫌な予感
これは、いい加減に自分も限界なのではないだろうか?
夜。宿の部屋に戻って、ぴくぴくと頬が引き攣った自分の顔を見ながら、アサは思った。
何しろ、王都に来てシラミネと一緒に働き詰めの日々を送って。途中で彼が失調をきたして休みを得てからも、アサは働いているのだ。
正直なところ、シラミネが倒れたのだから、自分にも休養が与えられるだろうとアサは期待していた。が、その期待は脆くも崩れ去った。
事もあろうに、外交宮はここに来て新人研修と各部署への挨拶回りをねじ込んできたのであった。ほぼ一年間、ルテシアで実績を積んできたとはいえ、アサはそういった研修を受けてはいない。というか、受ける為に王都に行く前に今の立場と仕事を与えられた訳である。
それはそれで、人材のスキル管理上問題があるとかなんとかで、そういう運びになった。
もうちょっと、落ち着いてからというわけにはいかないのかと、アサも抗議はした。特に、外交宮の重鎮でもある、父ユグレイには精一杯の訴えをしてみた。が、一回の午前休を得るのがやっとだった。外交宮の規定云々の前には、重鎮といえども。いや、ある意味では重鎮だからこそ逆らうような真似は出来なかったのだ。
「本当に、ごめん」と父に言われては、アサもそれ以上は駄々を捏ねることは出来なかった。
が、それでもやはり、ストレスを抑え付けるのにも限界がある。幾ら理屈は理解出来ても、感情が言う事を聞かない。
去年の夏に自分を知らず追い込みすぎ、気を遣われてしまって以来、アサも反省して自己の精神状態がどんなものかは気を付けているつもりだ。
だからこそ、判断出来る。今の自分は、もうかなりギリギリだ。
いっその事、熱でも出てくれないものかと思うが。生憎と、そういう気配は無い。丈夫に生んでくれた母キリユには、常日頃から感謝はしているが、今は少し恨めしい。
アサは大きく溜息を吐いた。
果たして、本人の精神状態がどうなっているのかは定かではないが。正直言って、シラミネが羨ましいと思った。
何しろここ、王都イシュトリニスと言えばアサにとっては子供の頃からの憧れの場所である。お気に入りの時代小説の主人公達が生まれ育ち、活躍した場所である。数々のエピソードに出てくる場所が今どうなっているのか? 訪れてみたいし、そこで彼らに思いを馳せたいと思っていた。
というか、そういう機会が少しくらいは作れないものかと思っていた。
シラミネには悪いが、彼が倒れた今がその機会だとも思っていた。が、この様子ではそんな時間は作れそうにない。
だというのにだ。アイリャの報告によると、彼らは王都を巡って回るそうだ。シラミネの気力次第ではあるのだが。これが、嫉妬せずにいられるだろうか。
せめて、シラミネが倒れ伏しているだけだというのなら、まだ耐えることが出来たかも知れない。しかし、これは本当に堪える。
いや? アサにとってストレスとなる要素は、実は更にあったりする。
なぁんとなくだが、両親が何事かを企てているような気配を感じ取っている。
ベッドの上で横になり、アサは目を瞑った。子供時代の出来事を思い出す。
あれは、歯の健診が迫っていたときのことだった。歯の病気の厄介さについては、アサも良く教えられてきたので、ケアには気を配っている。
と同時に、病気になったときどんなことになるかという恐怖も叩き込まれている。なので、歯医者というものは押さない彼女にとって恐怖そのものであった。なお、この国では同様の理由で歯医者を恐がる子供は多い。
そういう訳で、アサは歯医者に行きたくないと訴えたのであった。
その結果どうなったか? 結局、歯医者に行くことは取りやめとなった。アサは勝利に酔いしれ、安堵し、そしてより一層、歯のケアに心を配ることを誓ったのだった。
そしてその数日後。今日は大事なお客様が来るから、絶対にどこにも遊びに行かないようにと言い付けられた。服も、入念に選ばられたものを着せられた。
これは、詳細は分からないけれど、本当に何か大切なことがあるのだとアサは身構えたものだった。
そして、予定の時刻となって、両親にお客様のいる部屋へと向かうと。そこには白衣を着た紳士がいた。その紳士は、屋敷に来た歯医者だった。
そのときの絶望感は、アサがこれまで生きてきた中でも最低最悪の出来事の一つとして深く心に刻まれている。あのときほど、両親を恨んだことは無い。それまで、盲目的に両親の愛を信じてきた少女にとって、あの裏切りは忘れようが無いトラウマとなった。
ちなみに、イシュテンでは多くの子供達が同様の手口に一度は引っ掛かっている。ある種の通過儀礼である。
で、この数日、そのときの両親と同じものを感じるのだ。予定の相手がどこの誰とははっきり言わないくせに、とある重要人物にあってもらうことになったとか。身嗜みがどうのとか。最近の興味関心がどうなのかとかを根掘り葉掘り聞いてきたり。
時折、アサの前から姿を消しては、誰かと連絡をしに言っていることもそうだ。何の話をしているのか、教えてくれてもいいだろうに教えてくれない。
極めつけは、明日に着てくる服装の指定までされたことだった。
ここまでくれば、怪しい以外の何ものでもない。父と母が何を企んでいるのか知らないが、前もって白状することも出来ない話に、自分を引っ張り出そうとしているのは間違いないだろう。
それが何かは知るよしもないが、そういうものがあると考えるだけで、陰鬱な気分になる。
もう一度、大きく嘆息してアサはベッドから体を起こした。
あんまり、こういう真似はしないのだが。ストレスが溜まっているときには、酒が効くとも聞いている。
それが、どれほどの効果があるかは分からないが、試してみるのも一興かも知れない。
彼女は、部屋に酒を届けて貰うよう、宿に頼むことにした。