万能翻訳機と夢の結末
すべては憎き「ド腐れ眼鏡」こと月野渡をしばくために。
しかし、そう上手くはいかないようです。
しくじった。完全に失敗した。
佐上弥子は激しく後悔していた。
眠い。どうしようもなく眠い。眠すぎて頭痛どころか、体まで重い。
考えてみれば、当たり前である。大阪から東京に来るのに、始発の新幹線に乗るため、ほとんど寝ていない。確かに、新幹線の中で少しは寝たが、それも数時間程度の話である。
そして、昨晩はそんな寝不足の状態で、更に徹夜をしてしまった。すべては憎き「ド腐れ眼鏡」こと月野渡をしばくために。
それだけではなく、気付けば夢中になって翻訳機の調整をしていたのだ。昨日ここでアサから得たデータ。白峰が持ち帰ったデータ。そして本社の同僚達がまとめてくれたデータ。それらをまとめ上げ、どうすればいいのか、これがいいのかと悩みながらも、あともう少し、もう少しと思いつつ止められなかった。
新作のゲームに嵌まる子どもか何かかと、自分で自分が情けなくなってくる。
言葉少なく、佐上は翻訳機にアサの発した音声を登録していく。
佐上は、顔をしかめた。急激に、強い睡魔が襲ってくる。まだ、昼前だというのに、こんな事で今日を乗り切ることが出来るのだろうか?
ん? と、佐上は我に返った。
気付けば、月野もアサも自分を無言で見つめていた。
その、冷静に、何かを推し量るような、こちらの心の奥底まで見通してくるような彼らの視線に、佐上はびくりと背筋を震わせた。それが何を意味したものか、彼女には直ぐに察しが付いた。
バレた。
完全にバレている。考えてみれば、当たり前である。何度も、何度も彼らの目の前で欠伸を噛み殺している。これで、何事も無いとバレていないはずがない。
無言のまま、アサが近付いてくる。そして、腕を上げた。
叩かれる? 思わずそんな考えが佐上によぎったが、そんなことは無かった。佐上の額に、アサの手が置かれた。
ふむ? と、小首を傾げてアサが自身の額にも手を当てる。その行動に、佐上は胸が締め付けられる思いがした。
この子は、自分を気遣ってくれている? 自分の調子が悪いのを病気か何かのせいだと、そういう可能性を疑ってくれている? 滅茶苦茶いい人やないか。
そんな、彼女の心根にしばし佐上は、呆然とした。
「佐上さん、正直に答えて下さい」
しかし、それも束の間のこと。感情のこもらない月野の声に、佐上は現実へと引き戻された。
「なん、ですか?」
「あなたは今、もの凄く眠かったりしませんか?」
その問い掛けに、しばし佐上は沈黙する。
けれど、もうどうやっても誤魔化しようが無い。この場で咄嗟に丸め込めるような嘘が思い浮かぶほど、自分の頭がよくないことは自覚している。それに、もし仮に上手に嘘を吐けたとしても、彼らはきっと、それすらもあっさりと看破してくる。そんな、確信めいた予感がした。
だから、佐上は観念した。大きく肩を落とし、項垂れる。とてもじゃないが、彼らと目を合わせるだけの勇気は無かった。
「せや。今、うちはもの凄く眠い。本当に、ごめんなさい」
その声は自分でも分かるほどに小さく、そして震えていた。
「そうですか」
月野の吐息が聞こえた。それは、小さいけれど、心底呆れ果てたという嘆息にしか聞こえなかった。
「何故ですか?」
「昨日、始発の新幹線でこっちに来たから、元々あまり寝てなかったんです。それなのに、昨晩はちょっと、徹夜してしまって」
「慣れない場所だから、寝付けなかったとかそういうわけでもなく?」
しまった。その手があったか。
そんなことも思い浮かばないとか、つくづく自分のアホさ加減に嫌になる。だが、もう手遅れだ。
「はい。言語データを貰って、色々と解析とか翻訳機の調整とかしていて、夢中になってしまって。そうしたら、朝になってしまって」
嘘は、言っていない。正直に、とは言い切れないかも知れないが。本当の理由は明かせなかった。
「なるほど」
今、この人はどんな顔しとるんやろ? どんな目で私を見ているんやろ?
何が「しばいたる」や。その結果がこれや。こんなん、しばかれて当然や。
「佐上さん、顔を上げて下さい」
「……はい」
恐い。けれども、逃げ場は無い。
恐る恐る、ゆっくりと、佐上は顔を上げた。月野と目が合う。
軽蔑の表情は、彼は浮かべていなかった。ただ無表情に、じっと見つめてくる。
何や? この人、怒っているんとちゃうんか?
けれども、何を考えているのかはさっぱり分からない。
そして、数秒ほどそうしてから、彼は小さく頷いた。
「分かりました。では、今日は部屋に戻って下さい」
その言葉に、佐上はギョッとする。覚悟はしていた。けれども、いざ本当に言われると堪えるものがある。
「ま、待ってや? いや、待って下さい。うちがおらんと、翻訳機が――」
「翻訳機が? 今のあなたに、何が出来るというのですか?」
「それは、その」
何も出来ない。この眠気の状態では、正直言って足手纏いもいいところだ。いくら口で「やれます」と言ったところで、本当にやれるかというとその保証は無い。根拠の説明を求められても、説明出来ない。
「昨日も言いましたが、あなたには今のところ、期待しているのは技術だけです。無理して、残って貰う必要もありません」
つまりは、今ここでは役立たずという訳だ。
「……せやな」
乾いた笑いが、漏れた。
「ほなら、ごめん。うち、お言葉に甘えて、休ませて貰います」
力無く、また佐上は項垂れた。
これでもう、全部おしまい何やろうな。こんなアホはここで見限られて、おさらば何やろうな。
佐上はタブレットに映し出された「翻訳」ボタンを押した。せめて、お別れの前に、この優しい使者に、伝えておきたい。
「あなたは、いい人ですね。心配してくれて、ありがとうございます。私は、大丈夫です。それでは、失礼します」
でも、やっぱり、ダメか。
翻訳機が覚えているのは、名詞ばかりだ。それもまだ、数は少ない。訳して貰った異世界の言葉は、その半分ほどが「分からない」を意味するピーッとした音になってしまった。
佐上は、手にしていた翻訳機を月野の胸に押しつけた。
ふらふらと、彼らに背中を向ける。ああ、これでもう、ちょっとぐらいは涙がこぼれてもバレないだろう。
「せやけど、その翻訳機は本当に凄いんや。それだけは、信じて欲しい。よろしく、頼むわ」
涙で視界が滲んでくる。
ごめん、社長。ごめん、みんな。アホな社員で、ほんまにごめん。
そこから、どうやって部屋に戻って、ベッドに潜り込んだのかは、もうよく覚えていない。
次回も佐上回。
次回からは、大きくストーリーが変わります。異世界転生ものになります。
「目が覚めたら平行異世界に転生していたかも知れない件」お楽しみに。
はい、だいたい、嘘です。
でもタイトルは多分、このままいきます。