佐上弥子の眠れない夜
アサの前でつい、関西弁を使ってしまい、月野に冷たい目で見られた佐上弥子。
「ド腐れ眼鏡」こと月野渡を見返すために、奮起します。
佐上弥子は激怒した。必ずや、かの冷血非情の悪漢をしばかねばならぬと決意した。
佐上には政治が分からぬ。佐上は技術者である。キーボードを叩き、モニターと睨めっこして暮らしてきた。けれども悪意に対しては、人一倍に敏感であった。
「あんのド腐れ眼鏡。人のこと見下しくさりよって。ざけんなや」
佐上の脳裏に、強烈に「ド腐れ眼鏡」こと月野渡の姿と声が浮かび上がる。
"あなたには今のところ、期待しているのは技術だけです。下手に話すと色々と台無しになりかねません。いっその事、彼女の前では一言も話さない方がいいのでは?"
思い出す度に、腸が煮えくりかえる思いである。そりゃあ、つい事あるごとに関西弁を出してしまったのは、教える側として問題だったとは思うが。
高級ホテルの一室で、彼女は憤怒の形相で、翻訳機に接続したキーボードを叩いていた。机に向かって、白峰から返却して貰ったタブレットのデータも合わせて、データを編集していく。技術だけしか期待していないというのなら、その技術で見返してやろうやないかい。
ホテルは、異世界の使者に色々と教えていたところと同じだが、流石にあのスイートルームではない。
これがいつもの彼女なら、つい窓から眼下に広がる広大な景色を眺め、悪役三段笑いでもして、慣れない高級感を誤魔化すところであっただろうが。今はとても、そんな精神状態ではなかった。
"まだ、起きとるんか?"
タブレットの片隅に、そんな文字が浮かび上がる。会社で使っているグループチャットツールの通知だ。
"社長こそ。帰らんのです?"
"俺だけじゃない。みんな、残っとる。興奮してそれどころじゃない"
みんな、アホやなあ。と、佐上は思う。
だけど、こうして皆で一緒に熱くなれるような、そういうアホな集まりが、佐上は好きだった。少しだけ怒りを忘れ、佐上は笑みを浮かべた。
別に、第一志望だった会社というわけでもない。入社当初は特にそんな思い入れも無かった。けれどいつの間にか、この会社でやる仕事が面白くなってきた。アホな仲間に囲まれて、面白くも途方も無い夢を共有して、そんな空間が居心地がよくなっていた。
"せやけど、そろそろ終電ちゃうん?"
"ああ、だからここまでまとめたデータを今からサーバに上げるわ"
"おおきに"
んっ、と佐上は腕を上げて伸びをした。長時間、同じ姿勢でいたせいで大分体が凝っていた。
と、気付けばベッドの上でスマホが光っていた。「んげっ」と彼女は呻く。慌ててそっちに向かい、スマホを手に取る。液晶には母親の電話番号が表示されていた。
「あ、もしもし。おかん?」
『ああ、やっと繋がった。あんたねえ。こんな夜遅くまで何やってるのっ!?』
いきなりの怒鳴り声である。この分だとつい解析にのめり込みすぎて、気付いていなかったのだろう。こちらから連絡しなければと思っていたのに、それも忘れていた。
「ごめんて」
『東京に行くって言っていたけど、今どこ? 会社?』
「ええと、ホテル?」
『ホテル?』
「うん。グランドヒルホテルっちゅー、東京のホテルや」
そう答えると、母はしばし沈黙した。
『何で、そんな高級ホテルにおんの? しかも、東京?』
「えっとね? 私も、最初は日帰りやって思うとったんよ? せやけど、こっち来たら翻訳機のレクチャーとか専門家の意見だとか言われて? って、私そんな立派なもんちゃうのに? そんなんで、こっちにいてくれ言われてしもうたんよ」
『それ、いつまで?』
「ごめん。ちょっと分からん」
電話の向こうで、母親が大きく溜息を吐いた。
『あんたねえっ!』
「しゃあないやんっ! 外務省の人達も分からんって言うもん。こんなん、詐欺や」
『何で、はっきりと断わらんの?』
「言えんて。だって、外務省やで? おっかないわっ!」
『本当にあんたって子は、昔から小心者なんやから』
最初からこうなると分かっていれば、もうちょっと準備してきた。ちなみに、この動きについてはフットワークが軽いとか何とかで、対策室とかいうところの人達には好意的に受け止められたようだが。
「あ、せやから、ちょっと私の着替え送って貰える? 私、着てきたスーツしか持ってないし」
特に、下着は急務である。可能なら明日にでも、最低限1セットは新しいものを揃えておきたい。ダメ元で、ホテルの人に頼んでみるか?
ちなみに、今の彼女は下着の上にバスローブを羽織っただけである。流石に、仕事が終わってまで窮屈なスーツは着ていたくないし、少しでも汗を染み込ませてしまう時間は減らしたい。
『まあ、ええけどね。ところで、外務省の人とは上手くやれそうなの?』
途端、佐上の怒りが再燃した。
「全然っ! 異世界に行っとる方はええ。凄くええ人や。若手っぽいけど、しっかりしとって可愛い。せやけど、私と一緒に付く人は最悪や」
『最悪って、どんな人なん?』
「あー、せやな。裏切りボイスの冷血眼鏡や」
『皇剣乱ブレードの蒼司君みたいな感じ? あんたの大好物じゃない?』
女性向けのゲームのキャラクターの名前が母の口から出てきた。佐上のお気に入りキャラである。
「ざっけんなやっ! あんなんと蒼司君を一緒にせんといてっ! 見た目と声は少し似とるかもしれんけど、性格全然ちゃうわっ! 蒼司君はクールかつ、さりげない、それでいて不器用な優しさがあるんや。あいつはそんなん全然持っとらんわっ!」
一瞬、確かに少し似ているかもと思ってしまったのが、愛するキャラを汚されたようで尚更腹立たしい。
『そうなん?』
「そうやっ!」
電話の向こうで、母が嘆息する。
『まあ、いいけど。まだ会ったばっかりでしょ? 何を言われたんか知らんけど、どうせあんたが何かアホなことしたんとちゃうん? 偉い人達の前で、説明しようとして舞い上がったりとか? そんで、キツく怒られたとか?』
「そ、そういうわけやないけど」
実は、お偉いさんへの報告や説明は、翻訳機のことも含めてすべて月野がやってくれた。その点は、もの凄く助かっていたりする。断じて、彼がそうした理由は「優しさ」なんかじゃないと思うが。
『その割には、動揺しとるみたいやけど?』
「うっさいわっ!」
『はいはい。まあ、深くは聞かないけど、ちょっとでも自分が悪いと思ったとこ、あるんやったらそこを直して見返しとき? それでもダメやったら、そんときになってから見限り?』
「……うん」
『じゃあね。それじゃあ、もうちょっと東京で頑張り? 荷物は、明日出すから。グランドヒルホテルで合ってる?』
「うん。それで合ってる。ほなら、頼むわ。お休み。あ、あと皇剣のアニメの録画もお願い」
『はいはい。それじゃあお休み、弥子ちゃん。あんまり、夜更かししちゃダメよ?』
電話が切れる。ふぅ、と彼女は一息吐いた。
何だかんだ言って、少しいい気分転換になったと思う。
「さてと」
そして、彼女は作業を開始した。すべては、「ド腐れ眼鏡」を見返してやるために。
キャラ設定のところで、佐上のところを「人には黙っておきたい秘密がある」とか書いていますが。
はい、佐上はただの腐女子です。しかも葬女です。我ながら、書いておいて思うけど……秘密ってするほどのことだったのかな??