勉強と魔法と不安と信頼
家に帰ったアサと白峰が、それぞれ今日あった出来事を振り返りながら、異世界の言葉を自宅学習するの巻。
宿題が大嫌いだった自分からすると、このキャラ達は偉いなあとか思います。頑張れ(他人事のように)。
「あ」「い」「う」「え」「お」――
アサは自室で机に向かい、幾度も異世界の文字を書いては発音する。
まずは、今日中この文字を出来るだけ覚えてしまいたい。正しい書き順は自分でも怪しいが、だいたい左上から右下の順に書いていけば、法則として間違っていないようだった。
乾いた音が部屋の入り口から響いた。
「入っていいわよ」
「失礼致します」
そう言って、ミィレが入ってくる。
「報告書とお茶をお持ち致しました」
「ご苦労様」
アサは机からミィレへと向き直った。近付いてきた彼女から、報告書を受け取る。「お茶は、こちらに置いておきますね」と、ミィレは机の隅にお茶を置いた。
「ふむ?」
「い、如何でしょうか?」
「まだ、読み始めたばかりだから、急かさないでよ?」
強張った声を上げるミィレに、アサは苦笑した。
「でも、まあよく纏まっているんじゃないかしら? 少なくとも、報告会で話し合った内容に漏れは無いようだし。情報も整理されていると思うわよ」
「それを聞いて、ちょっと安心しました」
「ティケアとシヨイに搾られた?」
ミィレが疲れ切った溜息を吐いた。大きく肩を落としてくる。
「ええ、そりゃもう」
「でも、それだけミィレに任された仕事が重要っていうことだし、期待の証でもあるから。頑張ってね」
「それは、分かっているつもりなのですが」
実際、ミィレは二人には高く評価されている。でなければ、家柄のみを理由に自分の傍に置くなどという真似を二人は許しはしない。そして、見込まれるという重みがどれだけのものかというのも、アサは理解しているつもりだ。何しろ、経験者なのだから。
「ところで、お嬢様の方は如何ですか?」
アサは軽くお茶を啜った。疲れた頭が、少し休まった気がした。ミィレが淹れたのだろう。シヨイ直伝のお茶だが、これについては師を超えたという評価を彼女は貰っている。
「どうにもこうにも。ちょっと見栄を張りすぎたかも知れないわね。覚えられるなら、これが一番だって思ったんだけど」
「漢字と言いましたっけ? あちらにも、皇字と同じ表意文字が存在していたんですよね?」
「ええ、でも構文はイシュテン語に近い気もするけど」
「皇共語で言う、平字のようなものもあるんでしたよね?」
「そう。それがこれ。それで、とにかくまずはそっちから覚えているところよ」
アサは平仮名をミィレに見せた。これで、片仮名とかいうものまであるというのだから、なおさら頭が痛い。
だが最低限、それで読み書きが出来るようになるだけでも、意思疎通は大分楽になる。焦らず急がず、着実にやるべきだ。
「正直、イングリッシュの方がまだ簡単に思えるわね」
「こちらは、皇字の様なものは無いんですよね。まあ、無くてよかったと思いますけど」
「こっちにも有ったら、朝の私をぶん殴っているところよ」
アサは苦笑いを浮かべた。
実際、ちょっと後悔している位なのだ。少し、想定を甘く見積もりすぎていたかも知れない。
「でも、シラミネ=コウタも同じ事をしようというんですよね? 今頃、あの人もお嬢様と同じような事考えられているのでしょうか?」
「かも知れないわね」
アサは肩を竦めた。いっその事、それで諦めてくれれば少し気が楽になるのだが。そうすればこちらも、イングリッシュ一本にするから。だが、あの男は意地でも自分から折れそうな気はしない。そういう強い意志が、彼の視線から見て取れた。
そして、アサ自身も、自分からは折れることは出来ない気がした。
「結局、どうしてあの人も二つの言葉を同時に覚えよう何て言い出したんでしょうね?」
言語取得力に自信があるから。こちらに借りを作りたくなかったから。そういう推察は、既に報告会で言っている。だが、ティケアはまた違う考えを持ったようだった。
「何で私達が彼に笑顔を向けたから、そうなったって言うのかしら? 『無理しなくていい』って、伝わらなかったのかしら?」
「さっぱり分かりませんねえ。男心って難しいです」
結局、どういう意味かとティケアに訊いてみたが。彼は答えてくれなかった。「同じ男として、それをお嬢様達に伝えるのは、彼に対しあまりに忍びないので」とか言っていたが。結論としては、それが無くても最終的には同じ選択をしただろうとも言っていたので、深く考えなくていいという話でもあるが。
ちなみに、シヨイも頭を傾げていた。どれだけ生きようと、男と女の間には深くて広い溝があるようだ。
「でも、お嬢様。本当によろしかったのでしょうか?」
「何が?」
「魔法についてです。灯りについてもそうですが、時計や製氷槽、調理用火炉を始めとして、色々なものを見せましたけど」
ちなみに、こうして色々と屋敷を回って案内した挙げ句、午後からのティケアによる皇共語の説明ではタブレットを使って一歩も部屋から出なかったそうだ。それが記録されているというのなら、同じ意味の言葉を覚えるために、また同じところを回るのは無駄だからだ。
ミィレはティケアのその狡猾なやり方に散々文句を言っていたが。
「でも、衛士隊の装備については、後日にあちらの装備と同時に情報を交換するということにしたんでしょう? ええ、上出来よ」
「シラミネ=コウタは、本当に驚いていました。報告書にも、書きましたけど」
「ええ、そして同時に、冷静に事実を受け止めていたのよね?」
「はい。どの魔道具に対しても真剣な表情で見ていました」
「恐がってはいなかったのよね?」
「はい、その通りです」
方針は既に伝えている。理由も既に説明している。それでもなお、不安を覚える彼女に、アサは自信たっぷりに笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。それならきっと、明日も昨日や今日と同じように来ることでしょうね」
「何故、そこまではっきりと言い切れるのですか?」
「私と彼が、似たもの同士だから、かしら? まだ、きちんと話したことは無いけれどね」
その辺、気になる。機会があれば話し合ってみたいものだ。
「それは、確かに私もそう言った覚えありますけど」
「あら? これでも私は、ミィレの人を見る目は信用しているのよ? でもって、私はあの世界に非常に興味がある。王都にも悪いようには伝えていない。なら、私と似たもの同士だという彼もまた、同じでしょうね。ありのままに報告しているはずよ。そして、興味を持って、これからも付き合ってくるでしょうね」
「だと、いいのですけれど」
魔法について情報を開示する。それが、外交上重要な意味を持つと聞いて、その重責に不安が拭いきれないのだろう。
「ミィレ、頭を下げなさい」
ミィレは素直に首を傾げた。
「こうでしょうか?」
アサはにやりと笑った。この表情は、頭を下げるミィレからは見えないはずだ。
「えい」
唐突に、アサはミィレの頭に手を置いた。そのまま、くしゃくしゃと撫でてやる。
「ちょっと、お嬢様!?」
「昔、あなたにやられたお返しよ。もっと、自信持ちなさいって。シラミネ=コウタには、普通に、魔法が私達にとって身近で日常的な技術や知識に過ぎないんだって教えればいいだけなんだから」
「もう」
不服げな声を上げるが、ミィレは抵抗はしない。アサがかつて、ミィレにされたように、たっぷりと撫で回してやった。彼女の不安が消えるまで。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
異世界で習った文字をノートに書き写し、白峰は発音する。
「やっぱり、無茶だったか?」
特に共通的に使用される言葉については、難易度が高そうだった。どうも、日本の漢字に相当する文字があるらしい。これから、どれだけの文字を覚えなければいけないことやら。
だが、ここで退く気は無かった。もし退くとしても、相応の合理的理由が無い限りは、退けない。お偉いさんに「頑張ってくれ。期待している」などと言われてしまい、退けない状況を作られてしまったというのもあるが。
でも、方針を決めたのは、非合理的要素が絡んでいたような気もするのだが。
ふぅ、と大きく息を吐いて。白峰は天井を見上げた。少し、疲れた。
「しかし、魔法か」
あちらの言葉では『マギ』と発音されていた。地球上のあちこちの地方の言語で、同様の概念を示す言葉の語源と同じだ。そこに、何らかの意味があるのか? 歴史的な接点は無いはずだ。人間の本能的思考に根ざした何かによる、単なる偶然の一致?
文字はどことなく、昔読んだ漫画に出てきた魔術文字に似ていた。ただ、まさかと思ってネットで検索したが、それらとは似て非なるものの様だった。
そして、白峰にも魔法は使えた。あれらの道具を使うとき、自己の意識が世界と繋がり、世界の理を操作しているような感覚を味わった。それは、全くの未知の感覚だった。
それまで目の見えなかった人間が、目が見えるようになったとしたら、こういう思いを抱くのかも知れない。
だが、何故そんな真似をこっち側の人類である自分が出来るのか? 理屈は分からないが、その精神構造やあるいは遺伝情報も似通っているのか? 何が、「使える」決め手になるのだ?
答えの出ない推測が、白峰の頭に浮かんでは消えていく。正直、集中は出来ない。
対策室には、ありのまま、見たままを報告した。その上で、どう考えるか? その決定は彼らが下す。故に、言語の習得に専念しろと、報告が終わればそのまま帰ることになったのだが。
「――次は、スポーツニュースです」
政治や経済関係の、つまりはお堅いニュースの時間は終わった。魔法についての情報の取り扱いについては、まだ答えが出ていないらしい。
方針から考えるに、各国には既に報告されているとは思うが。
「どういう風に、文明を築いてきたんだろうな?」
魔法。未知の技術。未知の文明。
未知。それは恐怖を呼び起こし、敵対感情を招く可能性があるものだ。理解からは最も遠い。理解するのなら、恐怖を克服する必要がある。だから、白峰は恐怖しない。理解するために。理解して貰うために。
あの黒髪の使者は、こちらの世界に魔法が無いことに既に気付いていたのだろう。つまり、魔法というものが、この世界にとっては異物であることを周囲に報告している。だからきっと、教えてくれた彼女は躊躇した。
頼むから、早まった決断だけはしないで欲しい。対策室に対して、閣僚に対して、白峰は心からそう願った。相互理解の可能性を信じ、恐怖を抑え、正直に「マギ」という言葉を伝えてくれた彼女らのためにも。
一エピソードにつき、テキスエディタで50~60行程度のつもりだったのが、大幅オーバーで100行とか。
思い切って二つに分けようとも思ったけど、区切りが悪くてこうなると。
まあ、あまり気にしないようにしよう。
来週は、佐上回です。やっと、少しギャグテイストが入れられる(笑)。