初診
医師の控え室にて。
ヤコン=レウィは、その返答を自分でも意外なほどに落ち着いて、かつさほど迷わずに返したことに、一瞬遅れて自分自身でも驚いた。
ただ、思い返すに当然だったようにも思える。
異世界の人間達と交流が始まってから、何か起きた場合の対処については市から聞いている。いざ、そのときになって慌てふためくことは無いように、常に考えていた。
言い換えれば、覚悟を決めていた。
何よりも、医師として目の前の命を救うことこそが己の使命だと、理解していた。高名な学者でも何でもない、大学病院の中でも平凡な医師の一人でしかない身だが、その心の中にあるものだけは、決して見劣りしないものだと思っている。それが、誇りだった。
まさか、二つ返事で承諾されるとは思わなかったのだろう。彼に話を伝えに来た、大学病院の副院長の方が驚きの表情を浮かべた。
「引き受けてくれて、ありがとう。経験や年齢から考えると、やはり君しかいないと思っていたんだ」
その言葉に、ヤコンは苦笑を浮かべた。
ヤコンの年齢は六十を超えた。老い先短いなどとは、彼は露ほどにも考えていないが、命を散らす危険を考えれば、若者を出すよりはその方がいいだろう。経験という話も、勿論嘘ではないだろうが。
「それで、患者の容態はどうなんですか?」
「朝時点での話になるが、かなり高いもののまだ危険熱には達していないようだ。年齢は二十代半ばの男性。発熱の他に頭痛、喉の痛みに全身の筋肉が痛むといった具合だそうだ。」
危険熱というのは、この体温を超えると容態はかなり重症であり命に関わることになるという。そんな経験則から生まれた、この世界の言葉だ。
「症状だけを聞くと、季節性風邪のように思えますね。最近の診察で見る患者さんにも多いです」
「そうだな。だが、知っていると思うが同じような病気はあちらの世界にもあるそうだ。予め、彼らもその病気に対しては予防対策をした上でこっちの世界に来ているという話だが。それでも、どちらの病気かは分からない」
「そして、どちらの病気だったとしても、大事になりかねない。そうでしたね?」
「その通りだ」
「体力的な問題はあるのでしょうか?」
「いや、無いそうだ。熱を出す前までは健康そのもので、持病も無いと聞いている」
今はその体力に期待するしか無さそうだなと、ヤコンは判断する。
「それで? 私はこれからどうすればよろしいのでしょうか? 患者は、こちらに?」
「いや、前もって決められていた話の通り、感染拡大を防ぐためにも自宅に隔離だ。午後過ぎには、彼に投与して欲しい薬と、検査キットがあちらの世界から送られてくる手はずになっている。なので、まずは今から渡界管理施設へと向かって欲しい。そこで、薬などが届いたら患者の自宅へと向かって貰いたい」
「分かりました。しかし、あちらの世界の検査キットというのは、すぐに使えるような。そんな簡単に使い方を理解出来るようなものなのでしょうか? それとも、それも渡界管理施設で覚えろという話ですか?」
「それについては、薬も検査キットの方も渡界管理施設で説明はして貰えるそうだ。時間も無いので、あまり専門的な説明までは期待出来ないが。ただ、検査キットの方は、こちらの言葉に直した説明メモを用意していて、扱いも簡単らしい」
「分かりました」
「ああ、それと渡界管理施設では君にもあちらの風邪に対処するための薬を飲んで貰う事になる。それを飲めば、こちらの人間の体に合わなくて問題が出る可能性もあるが、それでもあちらの風邪に罹って、命に関わるような事態になってしまう可能性よりは低いはずだ」
「助かります」
出来る限りの準備はされていたことに、ヤコンは軽く安堵する。
少なくとも、無駄にこの命を危険に晒そうとしている訳では無いというだけでも、心の持ちようは楽になった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
渡界管理施設で、薬と検査キットを受け取り、ヤコンは白峰の自宅へと向かった。
最悪、寝込んで動けなくなっている可能性も考えていたが、そんな事は無く彼は出迎えてくれた。
そこは安心したが、やはり症状は楽観視出来るような状況では無いようだ。彼は激しく咳き込み、何度も洟をかんでいた。
ベッドの上で目を瞑り、横になる白峰の額へと、ヤコンは右手を置いた。左手は常熱版に置く。その温度の違いを確認。やはり、熱があるのは間違いない。
続いて、ヤコンは左手を危険熱版へと置いた。その差は、あまり無い。
それから、渡界管理施設で受け取った電子体温計も使用してみた。表示された文字をこちらの世界の文字に直す。38.2度となっていた。朝に聞いていた頃よりも上昇している。
インフルエンザ検査キットを使用。こちらは、反応無しだった。
「こちらが、私が受け取った薬になります。飲んで下さい」
「何という名前の薬か、聞いていますか?」
「タミフルという名前だと聞いています」
「分かりました」
検査キットの結果を考えると、薬にはどれほどの効果があるかは分からないのではないか? そう、ヤコンは考えたが、効く可能性がある以上は、それに賭ける他ない。
それは、あちらの世界を持つこの患者にも分かっているだろうが、彼も何も言わずに大人しくしたがった。
水を飲んで、少し気分が楽になったのか、白峰は薄く笑みを浮かべてきた。
「何か?」
「いえ。こちらでお医者さんに診て貰ったのは初めてなんですけど。思っていた以上に、自分達の世界の医者と同じなんだなって思いました。その全身白い服も、風邪に対して額や脇の下を冷やすといった対処方法も。経験なんですかね?」
「そうかも知れませんね」
「それから、熱が出たときは額や脇の下を冷ますというのも。あっちの世界だと、水で濡らしたり、氷を巻いた布を使って。それで水で濡れてしまうので時々取り替えないといけないんですが。こっちだと、魔法で冷やせるのでそんな手間が無くて楽だと思います」
「へえ。そうなんですね」
「はい。近頃は、額については薬の力を使った、熱を冷ますシートなんかもあるんですけどね」
患者の世間話を聞きながら、ヤコンは思う。
ひとまず、自分という、彼にとって異世界の医者が彼に余計な不安を与えていないこと。信頼して貰えたようだ。
それが嬉しくて、ヤコンは彼に笑みを返した。