ミィレの仕事と白峰のやる気
アサのお屋敷に到着してからの、「そんなこんなで言葉を覚えることになりました」な報告とかそういう話になります。
正直なところ、ちょっと困ったというのがミィレの思いだった。
なるべく早く、お互いの言葉を覚え意思疎通が取れるようにするということの重要性は分かる。イシュテン語のようなその地方特有の言語だけではなく、皇共語も習得して貰うことが望ましいということも分かる。
だが問題は、それを実現するための調整が出来ていないということだ。
可能であれば、そこら辺の準備もした上で、お互いの合意を得て欲しいところだった。何しろ、こちらとしてはこれから急いでその説明と準備をしなければならないのだから。
だが、それが主の望みであり、自分達にならそれが可能であろうという信頼でもあるのなら、その想いには応えてみせたい。
あと、向こうの外交宮は、このような変更にも柔軟に対応が出来る。そういう相手のようだ。であれば、こちらも負けていないところを見せてやりたい。先んじてこの流れを読んでいたのからこそという可能性は、大いにあるが。
ティケアの執務室に、シヨイと共に集う。
「――と、このよう形で、今後しばらくは、お互いの言語の習得を中心にしていこうという話になりました」
「本当に、急な話ですね」
シヨイが小さく嘆息した。念入りに、完璧な段取りと持て成しを汲み上げる彼女にしてみたら、この変更には思うところがあるのだろう。
「対応は、難しいでしょうか?」
「いいえ? そんなことはありませんよ? この程度であれば、各々の持ち場に言って聞かせれば済むでしょうから。多少の予定外にも対応出来ないような、そんな段取りは私は組みませんよ? まあ、それでもこういうのはあまり無い方が嬉しいのですけどね」
「それは、よかったです。流石、シヨイ様」
ミィレは安堵の息を吐いた。
「それで? 今、彼はどちらに?」
「晴天の間にお通ししています。お茶も用意して。事情は、分かって頂けていると思いますが」
「結構です。とはいえ、あまりお待たせする訳にもいきませんね」
「はい」
せいぜい、許される時間は15分から20分といったところか。
大分端折ったが、この部屋に集まってからの説明で、既に5分使っている。それにシヨイを呼んで、ここに来て貰うまででもまた幾ばくかの時間を消費している。
「つまり、早急に彼に言葉を教える体制を考えなければならないと。そういうわけか」
「そうなります」
ティケアは顎に手を当て、軽く目を閉じた。そして、数秒後に再び目を開く。
「では、ミィレ。イシュテン語については君がお相手しなさい」
「え? 私ですか?」
「そうだ。他に誰がいると思うのかね? 今この屋敷で、彼と面識が取れているのは私と君くらいだ。それに君は昨晩、折衝の記録を残す役をお嬢様から与えられただろう? 君を外すことだけはあり得ないよ」
「まあ、確かにそうなんですけど。言葉を教えるとか、初めてですよ? 経験ありません」
「どこの世の親だって、そうだろうさ。私もそうだった。それに、君の説明によると、物の名前を中心に教えていくのが主なのだろう? 何とかなるのではないかね? あと、最初から上手くやろうなどと考えなくていい。そこは失敗を積み重ねて、お互いに改善していけばいいのではないかな?」
「そう……ですね。分かりました」
しばし、唸る。
「では、取りあえず最初は晴天の間を見て頂いて、そこにある物の名前を伝えたら、後は他の場所を案内します。広間や厨房などにも行くかも知れませんが、よろしいでしょうか?」
「分かりました。伝えておきましょう」
シヨイは頷いた。
「家令殿は?」
「私は昼食を摂った後に、皇共語を教えます。ミィレよりは適任でしょう」
「すみません。私も皇共語は、話せないわけではないですが、ティケア様に比べるとどうしても劣りますし」
ゆっくりと話す、聞く、書くというぐらいでミィレにも出来るが、実務レベルで皇共語を操れるような人間となると、アサを除けば、かつて外交宮にも勤めていたティケアぐらいしか今ここにはいない。
「午前中は、これまで溜まっていた仕事を片付けたい。市議会からの書類が大分滞っているのでね。出来れば、近いうちに顔も出しておきたい」
「家令殿? 実は、そっちに割ける時間が増えて、これ幸いとか思っていませんか?」
「そんなことは、ありませんよ」
目を細めて訊くシヨイに対し、至極平静に、ティケアはそう答えた。
けれど、ミィレは見逃していなかった。彼が自分にシラミネ=コウタの相手を命じたとき、微かにほくそ笑んでいたのを。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
白峰は額に手を当て、軽く嘆息した。
幸い、部屋の中には自分一人しかいない。このような姿は、あまり他人には見せられない。
ここは、昨日に通された部屋に比べると、そこまでは広くない。大体、日本の住宅基準で考えると7畳から8畳くらいだろうか? 装飾も、そこまで凝ってはいない印象だ。どちらかというと、飾られている絵画なども落ち着いた雰囲気のものが多い気がする。
待合室ということなのだろう。白峰はそう推測した。そして、待たされている理由は、自分に言葉を教える体制について、報告と相談をしていると、そういうことなのだろう。
出来れば、自分に構うことなくゆっくりと相談して欲しいくらいだったが。
「何で、あんなこと言ってしまったかなあ」
よりにもよって、全く未知の言葉を二つ同時に覚えようというのだ。可能だというのなら、それに越したことは無いが、相当にハードなことは間違いない。
苦笑を浮かべつつ、目の前に置かれたカップの中身を啜った。
番茶と紅茶を混ぜたような味と香りの飲み物だが、こういうお茶なのだと考えると、悪くないと思った。気分が落ち着く。
別に、彼女らにしてみたら煽っていたとかそんなつもりは毛頭無いのだろうけれど。
アサの自信満々な顔と、それを称賛するかの様なミィレの笑顔。
それだけなら、特に何も思わなかったかも知れない。けれど、その後のミィレの優しい微笑み。その表情から察するに「無理しないでくださいね?」というつもりだったのだろう。
だが、それがむしろ、何だか妙に癪に障った。アサには、負けたくないと思った。
焼き餅を焼く子供じゃないんだから。と、そんな一時の感情で決定を下してしまった自己嫌悪が拭えない。後で帰ったら、何と言われるものやら?
ノックの音が響いた。
「どうぞ」
白峰は応える。言葉は、通じていないだろうけれど。
ドアが開いて、ミィレが姿を現した。一礼してくる。
身振り手振りで、何事かを言ってくる。「イシュテン」と「ミィレ=クレナ」は聞き取れた。ゲート前の遣り取りで、「イシュテン」という単語が、恐らくこの国のことを言っていることは、推測が付いている。
「ミィレ=クレナ、さんが、自分に、イシュテン、の、言葉を、教えてくれる?」
白峰は彼女に手を向けた後、自分を指さした。ミィレが笑みを見せて、頷いてくる。
白峰は頭を掻いた。何だか、彼女の笑顔を見ていると、悩んでいるのが馬鹿馬鹿しい気分になってきた。不思議と、悪い気分じゃなくなった。
それなら、折角だから、自分から言い出したことでもあるから、覚悟を決めてやってやろう。
おい、なんかこの主人公(笑)。どんどんと腐抜けていっているんですけど?
真面目に仕事しろこの野郎、馬鹿野郎。(嫉妬)
次回は、白峰が異世界側の言葉を覚えていく感じになります。真面目に?