はじめてのにほんご
ホテルに移動して、アサが日本語を学び始めます。
ただ、まだ初めての試みのため、色々と前途多難なようです。
移動した先は、昨日とはまた随分と異なった建物だった。
ゲートを抜けたところにある建物よりも遙かに高い。そして、入り口からこの部屋に至るまでの内装が、落ち着きを保ちつつも豪奢なものだ。昨日の建物の中は、それに比べると大分殺風景で事務的な印象を受けた。
シラミネ=コウタが描いた絵から察するに、ここは宿泊施設のようだ。それも、この内装の風格から察するに、主に貴人が利用するような高級店なのだろう。入り口からこの部屋までを案内した人間を始め、働いている者すべてが、もてなしの心構え、その教育を徹底していると感じた。
シラミネ=コウタの他に、ゲートではもう一人、女性と出会った。サガミ=ヤコと名乗っていた。
移動した先がここというのも、サガミ=ヤコの提案によるものだろう。言葉を覚えようという話だったが、まずは日用品の名前から覚えていくのがいいのではないか? そういうことだった。
シラミネ=コウタに対しては、アサの家の中を見せられる範囲で案内すればいい。しかし、この世界でそういう場所を用意するとなると、こういう宿泊施設を借りるのが手っ取り早い。セキュリティ的にも、品格的にも申し分ない。そういう判断だろう。シラミネ=コウタを始め、この国の外交宮の人間は、高いレベルで臨機応変な対応が実行出来るようだ。
案内された先の部屋は、建物の最上階にあるようだ。ドアを開けて入った部屋の中は、結構な広さの間取りのようだ。台所を除いて、応接室やリビング、寝室などがほぼ揃っていると考えていいだろう。彼女の私室と同じくらいに広い。
一緒に入ってきたサガミ=ヤコが、おっかなびっくりといった表情を浮かべている。彼女はあまり、こういうところに慣れていないのだろうか?
その一方で、もう一人の男は落ち着き払っている。こちらは、昨日も見た顔だ。今日、この宿泊施設で合流した際に、再度名乗ってきた。ツキノ=ワタルと。
「それでは、早速始めましょう?」
まだ、通じていないとは思うが、彼女はイシュテン語でそう呼びかけた。
取りあえず、何から訊くべきか?
と、彼女の世界ではまず見たことの無いものが目に付いた。部屋の奥に、大きく四角い、そして黒い盤面の物体が備え付けられている。確か、昨日の会議室と思われる部屋にもあった。
「コレハ、ナンデスカ?」
早速、覚え立てのこちらの言葉を使ってみる。
「これは、テレビや」
『コレハ』が、近くにあるものを示す代名詞であることは、ここまでの会話で概ね予想が付いた。では、『テレビヤ』がこの物体の名前と言うことなのだろう。
「テレビヤ」
アサは指を指して、もう一度その名前を言ってみた。
途端、ツキノが顔をしかめた。続いて、サガミへと怪訝な視線を送る。
サガミが呻いた。
「これは、テレビ、です」
ツキノが言い返してくる。そして、サガミもこくこくと頷いた。
ツキノがスケッチブックに、アサが指さす物体の簡易図を書き、続いて三つの文字を書いた。そして、一文字ずつペンの先で指して、それぞれを「テ」「レ」「ビ」と発音してきた。
なるほど、どうやら「テレビ」がこの物体の正式名称で、文字としてはそのように書き、また発音するのだろう。
となると、まずは物の名前も重要だが、それはそれとして確認しておきたいことがある。
アサはツキノへと近寄って、ペンを渡して貰った。そのまま、スケッチブックに自分の名前を書く。
「アサ=キィリン」
自分の胸に手を当てて、自分の名前を言った。続いて、先ほどツキノが行ったように、文字をペン先でなぞり、もう一度言う。
慌てて、サガミがタブレットをこちらに見せてきた。そして、彼女が持っていたペンを渡して、人差し指を立ててきた。どうやら、もう一度同じ事をしてくれということらしい。
アサは頷いて、サガミが指さすタブレット盤面に自分の名前を書いた。このタブレットというもの、どうやら文字を書くことも出来る代物らしい。
「おおきに」
サガミが笑顔を浮かべてくる。
が、それも一瞬のことだった。再び、ツキノが顔をしかめてくる。彼が目を細めると、サガミがびくりと身を震わせた。
「ありがとう、ございます」
そう言って、ツキノが深々と頭を下げてきた。折り目正しい男だとアサは思った。何となく、家令のことを思い起こさせる。最近は物腰が柔らかくなってきたようだが、彼が若い頃はこんな感じだったように思う。
アサは、自分の名前の一文字を指さした。
「コレハ、ナンデスカ?」
むぅ、としばしサガミとツキノが唸る。
「文字?」
サガミが呟いた。
「モジ?」
続いて、アサは別の文字へと指を移動する。そして、「モジ?」と訊いた。
サガミが頷く。
もう、二、三度、同様のことを繰り返してみるが。彼らの反応は同じだった。どうやら文字は「モジ」と発音するらしい。
では、とアサは続けて母国の文字をタブレットに書いていった。タブレットの盤面が文字で埋まる。
続けて、彼女は自身の胸を叩いて、タブレットを指さし、「モジ」と言った。そして、サガミとツキノを交互に手のひらで指し示し、「モジ」と伝える。
またもや、サガミが閃いたらしい。
「ちょっと、待ってや?」
ツキノが小さく肩を竦めた。何か、サガミに気に入らないことでもあるのだろうか?
サガミがタブレットの盤面を指でなぞると、新しい空欄が生まれた。その空欄に、彼女は何事かを書き足していく。「あ」「い」「う」「え」「お」など。つまりは、これらがこの国の文字なのだろう。
「そういうことよ」と、アサは笑顔で頷いた。
文字と発音の仕方が分かることは、物の名前を覚える上で重要なことだ。「確かに」とサガミとツキノが納得の表情を浮かべてくる。
ただ、それに続けてサガミが少し困った顔を浮かべた。
アサが平仮名や片仮名の他に、漢字の存在を知って冷や汗を流すのは、それから約十分後のことであった。
次回も、ちょっとネタ仕込み回。