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最善の未来

 居間のソファに腰を下ろし、アサは大きく背中を伸ばした。

 今日の仕事も疲れた。これで、夏にほんのささやかにでも気晴らしに出かけていなかったら、既に倒れていたかも知れない。


「まったく、問題って次から次へと起きるものよね」

 何とはなしにぼやくが。

「仕事とは、その様なものでございます。どこの仕事もですが」

 お茶を持ったシヨイが、傍らから言ってくる。いつの間にか、来ていたらしい。

 机の上に、お茶を淹れていく。香ばしい香りがアサの鼻腔をくすぐった。


「そうね。シヨイには迷惑かけてばっかりだったものね」

 アサは苦笑を浮かべた。

「その様な意味で申し上げたのではありませんが」

「分かっているわよ」

 大きく、アサは息を吐く。


 と、シヨイのもの言いたげな視線に気付く。彼女は無言で見詰めてくるのだが。

 アサは軽く呻いた。

「ごめんなさい。今は少し、許してくれない? 我ながら、だらしないとは思うけれど、本当に疲れているの」


 帰るなり、ぐたぁっとだらけきった姿を晒すというのは、使用人達に示しが付かないし、貴族に生まれた淑女としてはあるまじき振る舞いだとは自覚している。

 子供の頃は、こういう真似をするとしょっちゅうお説教されていたように思う。


「そうですね。本当にお疲れなのだと思います。お分かり頂けているのであれば、私からは何も申し上げません。今は旦那様も奥方様も、王都にいらっしゃることですし」

「ありがとう」

 仕方ないですねと。シヨイは笑みを浮かべた。


「お仕事の方は、相当に難しい状況のようでございますね。今は、その様な話からも離れたいというのであれば、差し出がましいことを申し上げたと思いますが」

「別に良いわよ。私も少し、話したい気分だから」

 アサはシヨイの入れてくれたお茶に手を伸ばし、啜る。一息吐いた。


「暫定的な対応については、先日発表した通りよ。その上で、世論は大きく割れているわね。進むべきか。止まるべきか。こちら側では、何か動きがある? 何しろ、仕事場に籠もってばかりだと、市民の声が直接聞こえるわけじゃないから」

「そうですね。やはり、動きはありますね」


「どんな?」

「市役所やこの屋敷に、研究の凍結を訴える者達が詰めかけてきました。陳情書も置いていっています。街でも、そのような主張をしては、賛同者の署名を集めているようです」

「そう。多いの?」


「これが、ルテシア市民の総意だとは言い切れないと思いますが、昨日今日で集めた数としては、多いと思います」

「そうなのね」


 決して、その数が多いか少ないかによって無下にするとか、そんなつもりは無いのだが。

 彼らが不安に思う気持ちもよく分かる。しかし、だからといって必ずしもその声に応えられるとは限らないのが、心苦しいところだ。


「あちらの世界でも、似たような感じのようね。特に、広域破壊兵器への転用に繋がりかねないという可能性が、平和主義とやらを掲げる様々な団体の感情と行動を煽っているみたい。それと、彼らと繋がっているのかどうか分からないけれど、いくつかニホンの野党勢力が強くそういった声に応えて、日本政府や与党を追及する構えみたいね」

「あの事故はニホン政府とは無関係で、追究したとしても彼らも責任の取りようが無いと思うのですが?」

「政治的パフォーマンスって奴でしょ? そうやって責め立てていれば、正義の味方として活躍していると見せかけられる」


「そんなものに、踊らされる人が。と、言いたいですが、いるのでしょうね。どこの国でも」

「ええ、いるわね。特に声が大きくて過激なのが彼らというだけで、与党支持者の間でも議論が分かれて尽きないみたい。ニホン政府も、そんな世論の動向を眺めながら、どう動くべきか決めかねているといった感じね。更に、各国での世論と代表者との意見交換にも追われている」

 アサは嘆息した。


「王都に連絡は出したけれど、届いたら王都も揺れそうね」

「旦那様や奥方様が倒れなければよろしいんですけど」

「まったくだわ」

 でもまあ、そこは上手くやってくれるだろうと期待している。甘えていると言ってもいいかも知れないが。


「取りあえず、こっちの回答としてはそんな感じだから早々すぐに答えが返せる問題でもないわね。王都から何らかの回答が返ってくるまでに、どれだけこっち側の意見が落ち着いて、纏まってくるかが気掛かりだけど」

「少なくとも、それまでの間はこの暫定対応が続くということですね」

「まあ、そうなるわね」

 この間に、どのような形であれ意見が落ち着いて欲しいものだと思う。


「ちなみに、お嬢様はどのようにお考えなのでしょうか?」

「私? というと?」

「プログラミング魔法という未知の新技術に対し、研究や実験を続けるべきか。そうでないかです」

 もう一口お茶を啜って、アサは天井を見上げた。

 あの事故の時に見た光とは違った、柔らかく優しい光が降り注いでいる。


「本音を言えば、そういう判断は全部王都の人達に任せてしまいたいし、どんな回答だろうとそれに従う。そんな風に考えているけれど」

 悩ましいと思いながら、続ける。


「どちらかというと、早急にきちんとした体制を整えて、研究を再開出来るようになればいいと思っているわ」

「そうなのですね」

「ええ」


「それは、何故でしょうか?」

「こういう話はね? ゼリーやプラスチックと同じよ。注目が集まり熱を帯びたときは形を変えられるけれど、一度冷えて固まってしまったら、もう一度温め直して動かすのは難しい。仮に、この話が棚上げという形になってしまえば、二度と触れられなくなってしまう可能性すらある。そうなると、異世界に行って貰った記者達は、死ぬまで帰ってこられないことにもなりかねない。たかだか数十人の人生と、何千何万という人命が失われかねないリスクのどちらが重いか? と訊かれて、その答えは人によって違うのは当たり前だと思うわ。けれど、私は数十人の犠牲を出す選択を安易に、当然のようには出したくない。もしもそれを選ばざるを得ないとしても、ぎりぎりまでは最善の未来を選ぶ道を探すべきだと思うのよ」


「最善の未来とは?」

「安全にプログラミング魔法を研究、実験し、兵器への転用も防いで、この新しい技術を平和的に利用して人類の発展に繋げる未来よ」

「そんなことが、可能なのでしょうか?」

「分からないわ」

 アサは首を横に振った。


「でも、シヨイ? ありがとう」

「何がでしょうか?」

 アサは笑みを浮かべた。


「正直言うとね? 私も迷っていたのよ。この問題をどうすればいいのかって。でも、どうしたいのかっていう考えは見付けることが出来たわ」

「そのように言っていただけで、このシヨイ。恐縮にございます」

 恭しく頭を下げるシヨイを見ながら、アサは仕事への決意を新たにした。

下のリンクにも追加しましたが、先週に「チートスキルが「発情」「服従」「絶倫」「衣服消滅」「衣服変更」でもエロに期待すんな!」なる短めの連載を投稿し、完結させました。


「この異世界によろしく」や「ソルの恋」とは、一人称であることも含め、全然雰囲気が違った内容ですが、もしちょっとでも興味が湧いてお読み頂ければ幸いです。

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