後
8
それからどのくらい経ったのかわからないが、おれは警察署にいた。入口に「取り調べ室三」と書かれたプレートが貼られた部屋に。
ひたすら殺風景な部屋だった。鉄格子の嵌った窓がおれの背後にある以外は、入ってきたドアだけが唯一の出口。机を挟んで二つのパイプ椅子があるだけで、時計すらない。
アパートの大家に頼んで救急を呼ぶよう要請し、死体を前に気が抜けてしまったおれは、救急と同時にやってきた警察に素性を尋ねられた。それから抗弁することもなく、任意同行という形でここまで連れてこられてしまった。
どっちみち現場調査のため、今晩あの部屋で過ごすことはできないだろう。だけどおれがここに座っているのは間違ったことのように思えた。
「これから窺うことは調書に記録させていただきます。不利になることを無理に答える必要もありません」
佐藤と名乗る四〇絡みの刑事がおだやかな口調で言った。
おれは黙って頷いて、前置きもなく尋ねた。
「ミヨリは自殺だったんですか?」
「それはまだわかりません」
「服の上からの傷ですし、血痕の形も立ち上がっている状態で刺されたものと思われるんです。自殺であればためらい傷があることが多いのですがそれも見られませんでした。しかしだれかともみ合った形跡もないし、凶器もお宅にあったものだったそうですね。それに――」
親しい間柄の人間ならその条件を満たせる、暗にそう言いたいのだろうか。
「――帰られたとき、鍵が掛かっていたと聞きましたが?」
「ええ。それで大家に開けてもらいました」
「わたしも先ほど拝見させていただいたのですが、玄関のドア以外も戸締りはされていたのですね」
「そうです」
「ですから他殺であればわざわざ鍵を掛けて出て行ったということになります。しかし鍵は被害者の方のズボンの中に収まっていました。そう考えるとずいぶんおかしなことになりますね。本当にスペアの鍵はないのですよね」
「そうです。作る必要がなかったので」
やはり疑われているらしい。あの状況では仕方ないか。
こんなことが一瞬頭に浮かんだ。ミヨリがなにかに腹を立てて、衝動的に自殺しておれに罪を着せようとした。だけどそれはあるまい。ミヨリは性格はわるいが陰湿ではないし、馬鹿でもない。陥れるにしてももっとマシな方法を考えつくはずだ。
「それではあらためてわたしからも質問してよろしいでしょうか?」
「はい」
「改めて、御木本さんと被害者の方とはどういうご関係ですか?」
言葉に詰まった。関係性をどう表そう。
「昔交際していた相手です」
「それがどうしてあなたのお宅へ?」
「同居している相手に追い出されたと言っていました。それで泣きついてきたんです」
「いつごろですか?」
「今朝の九時くらいです。仕事に行こうとしているところで」
「そのときどう思いました?」
「迷惑だと思いました。でも可哀想にもなってつい上げてしまったんです」
「それからは?」
「家を出ました。仕事にいくために。鍵はミヨリに渡して。直接は職場に行かず、ノワールという喫茶店に寄りました」
「その喫茶店の方はそのことを証言できますか」
「できます。店の人間とは――幼馴染なんですが――話し込んだので。途中なじみのお客さんもチラホラ来ていました」
「店の連絡先と場所を教えていただけますか」
おれはノワールと遠藤の連絡先を紙に書いて渡す。
「そのあとは?」
「メロディ……、勤め先の児童デイに行きました」
「児童デイとは?」
「障害児の訓練施設です。学童保育みたいな。おれはそこの職員で」
「なるほど。喫茶店から職場までのどれくらい掛かりますか?」
「一時間くらいですかね。混み具合にもよりますが」
「ずいぶん遠いんですね。その日はどうでしたか」
「半端な時間だったので空いていました。ノワールを一〇時ごろに出て、職場には一一時前に着きました」
「職場に問い合わせればだれかが証明してくれますか?」
「はい」
「わかりました。これが殺人だとしたらだれか心当たりはありますか」
「ミヨリの彼氏? 関係はよくわかりませんけど同居してた男がいるならそいつなんじゃないですか」
「なるほど」
「あの、おれが疑われているんですか?」
思い切って尋ねた。
佐藤刑事は少し困ったように、
「そういうわけではないのですが、状況からしてもお話を伺わなければならないんです」
「そうですね」
それから一時間ほどこんな調子でミヨリとの関係について尋ねられた。
午後一一時を回ったところで、取り調べは終わり、念のため指紋を取られてからようやく解放された。ミヨリの精神科への通院歴や来歴、あとは鍵のおかげだろう、いますぐ逮捕されるほどではないらしい。ただし今日は部屋には帰らないでほしい、と言われた。
別の刑事に部屋まで送ってもらって同席のもと着替えや必要なものを取り、今度は自分の車で近くのホテルへと向かった。同行の刑事とはそこで別れたが、別れ際に、
「すみませんが、いつでも連絡がつくようにしておいてくださいね」
と言われた。自らの立ち位置がわかるというものだ。
ホテルの部屋はこじんまりとしていて、値段の割にきれいだった。シャワーも浴びずベッドの上に倒れ込むと、個人的な感情を解放しようとがんばったが涙は出なかった。悲しくないのではなく、単にミヨリが死んだということが信じられなかった。厄介払いしようとしていたけれど、望んだのはこんな形ではない。
目は冴えていると思っていたが、一日を振り返ろうとした途端、抵抗できないほど強い睡魔が訪れたので素直に身を任せることにした。もうなにも考えたくなかった……。
9
「ねえ、御木本さん。起きて」
聞き覚えのあるキンキン声に呼ばれておれは目を開ける。するとありえないものが見えた。おれの顔をミヨリが覗き込んでいるのだ。
「昔から寝てばっかいるなあ。ほんとつまんない人」
何百回と聞いた憎まれ口。もう聞くこともないはずだったのに。
おれはゆっくりと上体を起こし、辺りを確認した。
昨晩泊まったホテルの部屋に間違いない。
ミヨリはベッドに腰掛けておれを眺めている。
「お前……死んだんじゃ」
「うん、殺されたよ」
「殺されたって……、でもいまここにいるじゃないか。どうして」
「わかんない」
ミヨリは言った。
「わかんないけど気づいたらここにいた。ここどこ?」
同様になにがなんだかわからなかったけれど、もう一度ミヨリの顔が見られたのが嬉しくなって、おれはミヨリに抱き付いた。だがその抱擁はミヨリをすり抜けて、ベッドのスプリングを軋ませるのみに終わった。
「むりだよ。あたしも御木本さんに触れようとしたけどできなかった」
「まさか」
「あたし死んでるからね」
これは夢なのか、それとも妄想を伴う精神病が発症したのか。おれは頭を抱えた。
「やめてくれ、もう見たくないんだよ。こんなの辛いだけだ!」
「そんなにあたしのこときらいなんだ!」
ミヨリは憤然として言った。
「あたしだって離れてあげようとしたけど、御木本さんから離れられないのよ」
おれはミヨリの頬の中に手を突っ込んで左右に掻き動かす。
「本当に、本当に幽霊なのか?」
「そう、多分御木本さんの守護霊になっちゃったんだと思う」
憑りつくをかなりポジティブに表現するとそうなるのかもしれない。
「本当に?」
「うん」
おれはしばらく考えこんだ。そして前向きに対処するしかないと決断した。
「ミヨリ」
「なに」
「今何時?」
「午前三時だって、あの時計だと」
「わかった、もしお前がおれの幻覚でなく、本当に守護霊ならおれを八時に起こせ。いいな」
「そんなこと疑ってるの?」
「おやすみ」
「待ってよ、先に寝ないでよ」
「ここはどこかって言ったよな。ここは市内のホテル。なんでここで寝てるかというとお前が俺の部屋で死んだから。仕事終わりに警察署に連れてかれて遅くに解放されたんだ。疲れてる」
「ごめん、あたしがいない内にそんなことがあったんだ」
「謝るなよ。お前は被害者なんだから。だけどいまは眠らせてくれ」
「わかった。おやすみなさい」
あたしは御木本さんが眠るのを許してあげた。混乱して、不安だった。なにしろ死んだのだから。不安というか頭がおかしくなりそうだった。なのに御木本さんを寝かしてあげた。あたしにだって常識はある。でもその常識に沿って行動するのが困難なのだ。人間は感情の生き物だから。
あたしは御木本さんの安らかな寝顔を見守る。すーすーと静かに寝息を立ててまるで子供みたいだ。その顔を見ているとなんだか腹が立ってきた。なんでこいつはあたしが不安で仕方ないときにすやすや寝ているんだろう。あたしは迷った。寝かしてあげたい気持ちはあるのだ。でも腹も立つ。
だから決めた。御木本さんに触れることはできないが重なることはできる。こうすれば御木本さんを見ることもないし、包まれたような安心感も得られる。悪くない考えだ。
御木本さんの中でしばらくじっとしていた。いまいち眠くならない。
目がかゆい。ポリポリかいていると違和感を覚えた。これあたしの指?
違った。この大きな手はあたしのものではない。そしてこの手には見覚えがある。御木本さんの手だ!
どういうこと? もしかして!
その手を股間に伸ばす。あった。この感触はおちんちんだ。
きっと乗り移ったのだ! そのことと手の中の感触が面白くてついつい動きが増していく。
服の上からじゃだめだ。直に触らないと。
男の快楽とはどんなものなのか、試してみることに決めた。
結構面白いなあ、気持ちいいなあと思っていると汚らわしいものが飛び出た。ああ、つまんないなと思った。こんなものか。それにすごくいやな感じ。ティッシュで丁寧に拭ってから元通りパンツを履いた。
もういい。出て行こう。目をつむって出ていきたいと思っているとスポッとあたしの体が御木本さんから抜けた。……やっぱりいけすかない寝顔だ。
なんだかすごく疲れた。この体でも眠くなるんだ。半分だけ御木本さんに体を重ねて横になる。こうやっているのはわるくない。御木本さんのことがすきかもしれないと思う。なんとなく暖かい。あたしはしばらくそんな風にしてまどろんでいた。
10
翌朝、目を覚ますと同時にスマートフォンで時間を確認する。午前九時過ぎ。なにが守護霊だ。やはり夢だったのか。
隣を見るとミヨリが寝ていた。隣というか体が重なっていた。やはり憑りつかれたのか。そういえばよく寝たわりに疲労感が残っている。
そっと触れてみる。やはりすり抜けてしまう。幽霊も寝るのだな。
「起きろミヨリ」
「ん……」
離れられないと言っていたが、もしおれがチェックアウトしてメロディに向かい、ミヨリをこのまま置き去りにしたらどうなるんだろう。……メロディ!
スマートフォンを見ると村上先生から着信が二回もあった。即座に村上先生に掛けた。二連続遅刻はまだ経験がない。どんな当てこすりをされるのだろう。
「もしもし」
「あ、おはようございます。御木本です。すみません昨日ごたごたしていて起きるのが遅れました。今すぐそちらへ向かいます!」
「警察の方から連絡がありました。大変だったようですね。大丈夫ですか?」
意外にも声色は優しかった。どういう含意があるのだろうか。
「大丈夫です。ご迷惑お掛けしています」
「彼女さん、お気の毒でしたね。今日はゆっくりなさってください」
警察はそう伝えたのか。つまり村上先生はおれのことを恋人が殺されたばかりの男だと思って憐れんでいるのだ。冷淡だと決め込んでいた相手が見せる有事の際の思わぬ優しさにおれは戸惑う。
……実情とは違うが、疲れたのは事実だし今日一日ゆっくりするのもわるくないかもしれない。
「すみません」
「ほかの先生にもちゃんと言っておきますし、なにも心配は入りませんよ」
その言葉にガツンとした衝撃を受けた。
ほかの先生――ミサキちゃん!
「行きます」
「え?」
「いえ、こんなときですし、家にいると気が塞いでしまいますから」
「無理しないでいいんですよ」
「無理じゃありません。とにかく、いまから向かいますね!」
おれは強引に電話を切ってから、手早くシャワーを浴びてからホテルをチェックアウトして車に乗り込んだ。ミサキちゃんに誤解を与えてはならない。ミヨリのことが知れるのは仕方ないが、恋人がいたと思われるのだけは避けなければ。ミサキちゃんの反応を思うと暗澹とした気分になる。
守護霊からは逃げられないことがわかった。ミヨリは車の後ろ五メートルほどの距離をキープして寝たままこちらに引き寄せられている。まるで見えないロープで繋がっているみたいに。この先プライバシーは望めないだろう。
通勤が長いものだからとりとめのない考えがいくつも浮かんでくる。
このことで周囲に与えた迷惑のことやこれから先のこと。
ミヨリが再び現れたから解決したような気になっていたが、おれは最重要容疑者だし、ミヨリはだれかに殺されたのだ。
「置いて行こうとしたでしょ」
「うわっ!」
後部座席からの声に思わず飛び上がる。車体は半分反対車線へはみ出した。田舎道で対向車がなかったのが救いだ。
「急に話しかけるなよ。びっくりした」
鏡に幽霊は映らないらしい。直接振り返るとミヨリがいた。ニコッと笑い、背もたれをすり抜けて助手席を陣取る。
「御木本さんが事故って死んだらどうなるのかな」
「やめろよ」
「そんなことするわけないでしょ」
「怒らせたらするかもしれないだろ」
「御木本さんも幽霊になったら触れ合えるかもね」
「――週末お寺に行ってくる」
「冗談が通じないなあ」
ミヨリは呑気にほほえむ。
「冗談なんか言ってる場合じゃないだろ。お前死んでるんだぞ」
「わかってるよ」
「だれに殺されたんだよ」
「知らない」
「知らないって、刺されたんだぞ。相手を見てないのか」
「寝てたから。元彼が夜勤の人だったし」
「うそじゃないよな? 本当に自殺じゃないんだな?」
「そう言ってるでしょ。たしかにずっと死にたいけどね。あたしが死ぬって言って死ねたことある?」
おれは考え込む。それじゃああれは強盗の仕業だったのか? しかし警察は立ち上がった状態で刺されたと思われる、と言っていた。だがミヨリは寝ていたと主張する。
「死んだから記憶が混濁してるとかはないな」
「ちゃんと覚えてるよ。朝食べたのはベーコンエッグ」
「いつまで生きてたんだ?」
「ご飯食べてすぐ寝ちゃったからそれまでは」
「相変わらずだな」
「疲れてたの」
「となると、やったの強盗なのかな」
「なに、犯人に怒ってくれてるの?」
「違うさ。警察におれがやったと思われてるからだよ」
「なーんだ」
「お前がほかの人にも見えればなあ」
そこまで言って気が付いた。勝手に見えないと決め込んでいたがほかの人にミヨリは見えないのだろうか。
「見えてるよ」
「え、だれに?」
「いっぱいいるよ、その辺りに」
「なに言ってるんだよ」
「あたしと同じような幽霊って言うのかな? 御木本さんには見えないのかもしれないけど」
「怖いこと言うなよな。生きている人間にはどうなんだ」
「それは今のところ御木本さんだけかな、多分」
「そっか、なんでおれには見えるんだろうな」
「知らない」
ミヨリと会話しているうちに、メロディが近づいてきた。
さてミサキちゃんにはなんて言おう……。
11
ミサキちゃんにはなにも言えなかった。いなかったからだ。
「え、羽村先生休みなんですか!」
「そうですよ。どうかされたのですか?」
おれの問いに村上先生は怪訝そうに答える。
「い、いえ」
車内でたっぷり数分掛けて覚悟を決め、恐る恐るで敷居を跨いだのだが、肝心のミサキちゃんがいないとは拍子抜けもいいとこだ。みんなこれ以上ないほど優しく接してくれていて、文句を言えば罰が当たるだろうけれど。
「へえ、ここが御木本さんの職場かあ」
ミヨリがキョロキョロと辺りを見物している。
普段通り振る舞おうとするが、気を使われているのがわかってやりにくい。なにより退屈したミヨリがしきりに話しかけてくるものだから気が散って仕方ないのだ。
おれが相手しないのをわかると今度はひとりごとを延々続ける始末だった。
昼前になると警察がやって来た。佐藤刑事ともう一人の上背のある刑事。ここで会うとは思わなかったから驚いた。
「どうも」
挨拶を交わす。しかし向こうはおれ以外の人に興味があるようだった。
「ミヨリ、盗み聞きして来てくれ」
「任せて」
使うならここぞとばかりにミヨリに偵察に行かせる。退屈していたからだろう。気が乗らないと何もしないミヨリがその提案に飛びつき飛んで行った。あとでミヨリから聞いたところだと警察はどうやらおれのアリバイや素行について聞いていたらしい。
佐藤刑事が引き上げる際に声を掛けてきた。
「御木本さん、大丈夫ですか」
「ええ、どうにか」
「職場にまでやって来て申し訳ありません。しかし捜査はしなければならないものですから」
「大丈夫です」
「ところで昨日は被害者の死亡推定時刻は午前九時過ぎから一一時ごろまでですが、御木本さんは九時には例の喫茶店にいたそうですね」
「ええ、警察は犯人をだれだと考えているんですか」
アリバイがあるわけではない。家を出る前、あるいは出てすぐにも殺せたし、ノワールを出たあとでもここに来るまでの通勤時間から考えても難しくはあるが不可能とまでは言い切れない。
「現段階では目星も付いていません。面目ありませんが」
佐藤刑事は言葉を濁す。
部屋に鍵が掛かっていたことはおれの身体の自由に大きく寄与しているらしい。しかしそれだってスペアキーを作ってあればその状況は作れる。いつ警察から連絡が来てもおかしくないはずだ。
「もうアパートに戻ってもいいのでしょうか」
「ええ。ですがくれぐれもお気を付けくださいね」
「わかりました」
佐藤刑事たちが辞去したあと、ミヨリがどこからか帰ってきた。
「御木本さん!」
「ミヨリお前が死んだの九時過ぎから一一時の間だってさ。どうだ?」
おれは尋ねる。
「うーん、心当たりはないなあ」
「だれと話しているのですか」
村上先生が心配そうにおれの顔色を窺う。
「すみません、ひとりごとです……」
これからひとりごとが増えてしまうことだろう。
こういうところで働いていたのか。あたしが昔の職場に乗り込んで以来、職場の場所を教えてくれなくなったから新鮮だった。結構上手くやれているようだ。たしかに御木本さんはあたしのように社会性に問題があるわけではなかった。大した男ではないけれどそういうところだけは認めてあげている。
幽霊初日だし御木本さんの職場とあたしの新しい人生を勉強することにした。
憑りついてしまったせいか、はじめは御木本さんからあまり離れたところには行けなかったけれど、限られた範囲で周囲を動き回っていると少しずつ行動範囲が伸びてきた。幽霊にも訓練が必要なのだろう。不便だ。
腹立ちまぎれに思い切り壁を付けぬけると、出た先の空間に上下逆さの老人の顔が色付いた。
「ひゃっ!」
あたしは体を逸らす。幸いどこにも体をぶつけることはなかった。
老人は体をくるっと翻して天地を戻し、あたしの反応を指さして笑った。
「なんなんですか」
「あんた死んだばっかじゃろ」
「は? どうして」
「わしに気づいてなかったからよ」
「え?」
「今じゃない。さっき部屋の中におったとき」
この老人は何を言っているのだろう。あたしと同じような存在なんだろうけど、発言がおかしい。恐怖を覚えた。
「あんたあの男に憑りついとるようじゃから、教えてやる」
老人は出し抜けに言った。
「このままじゃああんたも遅かれ早かれおかしくなる。わるいことは言わんから忘れることじゃ」
あたしが黙っていると、
「わしは見てきたんじゃ。人に憑りつくような霊は例外なく狂っていく」
「なに言ってるんですか?」
あたしがそう言うと老人はふっと消えた。
それに目を丸くしていると、再び同じ場所に現れた。
「な、先輩の言うことは聞いとった方がええ」
「いまのどうやったんです?」
「姿を消すよう念じるだけじゃよ。慣れてくると隠れていても霊同士お互い気配で気付くようになるがな」
「あたしにもできるんですか? それ?」
「だれでもできる」
あたしはやってみる。
老人は頷いた。
「できとる。これであの男にも見られずにすむな」
「そういえば御木本さんにはなんであたしが見えているんですか?」
「生きとるときから過度に絡み合っとったもん同士にはそういうこともあるらしい。だんだん向こうには見えなくなるようじゃが」
「そんな!」
御木本さんに無視されるづけるのは寂しい。
「それが自然なんじゃ。忘れられることが」
老人は悲しそうな目つきであたしの方を見た。そのもの言いと眼差しに堪忍袋の緒が切れた。
「なにさまなんです? 色々教えてくれるのは助かるけど」
「もう何十年も彷徨っとるジジイじゃ。消えることもできとらん」
「あなたも成仏できてない同じ幽霊なんでしょ。えらそうに」
「返す言葉もない。ただの老婆心じゃから聞き流してもらってもいい」
老人は言った。
「じゃが、わしは公平に言っとるからな。あんたにも」
老人はあたしを一心に見つめる。
「で、どうすればいいのよ。成仏って」
「本来わしが知りたいくらいなんじゃよ。だがあんたらみたいなのは簡単じゃ。その相手を忘れてやること。それに尽きる。執着の対象がはっきりしとるんじゃから」
「あたしだってそうしたいけど」
「せっかくいまは話せるんじゃ。話し合ってみたらええ。いまを逃したらいけんぞ。変なジジイにこう言われたって」
それからしばらくこの老人に話を聞いた。彼は八二年に借金で自殺して以来各地を放浪しているらしい。いまでは自らの成仏はあきらめ、後進の成仏に力を注いでいるのだと言う。生きている間も死んでからもこういう奇特な人はいるようだ。
こんな人がいること自体、こっちの世も幸せなものではないということなのだろう。
いまのところ、御木本さんの体に入ったあのときを除いて性欲がなくなっていることだけが解放を感じられた点だった。
12
それ以降はなにごともなく午後六時、仕事が終わり帰路についた。
まだまだ日も暮れておらず、気持ちも同様だった。死んだとしても話ができるなら心はずいぶんと休まる。先を考えるとそう楽観できないことだらけなのだろうが。
ミヨリに話し掛ける。
「こういう通勤中の話相手にはいいけど、これから大変だろうな」
「御木本さん、仕事中相手してくれないから」
「当たり前だろ。退屈ならさっさと成仏しろ」
何気なく口にした自らの軽口に気付かされる。おれはこの状況を難なく受け入れているが、そもそもなんでこいつはおれに憑りついたんだ。そして成仏――そっちの仕組みはわからないけど――できていないんだ。
「ミヨリ」
「なに」
「犯人探せばお前成仏するかな」
「そんなのわからないよ。成仏してほしいの?」
と泣く真似をする。
「そりゃそうだろ」
「あたしだって四六時中御木本さんの顔なんて見たくないよ」
「なら決まりだな」
「犯人探すの? どうやって?」
「目星はあるんだ」
「だれ?」
「お前の彼氏」
「元ね」
「どっちでもいいよ」
「あたしもそれは思ったよ。だけどさっき刑事さん同士が喋ってるの聞いたんだ。木村もアリバイがあるし鍵の問題もある、やはり御木本か自殺のどちらかでしょうって。木村っていうのはその元カレね」
「アリバイ?」
「あたし追い出されたって言ったでしょ? あれね、あいつが引っ越したからなの」
「お前から逃げるために?」
「結婚するんだって。大分の実家でね。元々大して好きじゃなかったしいいんだけど困ったよ」
「お前の私物はどうした」
「全部あげたよ。大したもの持ってなかったし」
「服もか?」
「何着か以外は置いてきたの。明日引っ越すからすぐ出てけなんて言うのよ」
「ずいぶん荒んだ暮らししてたんだな」
「育ちがわるいからね」
「なんだ、へこんでんのか」
「ううん、大丈夫」
ミヨリはほほ笑んだ。
「御木本さんが心配してくれて嬉しかったよ」
「なんだよ、成仏でもするみたいな口ぶりだな」
「ずっと黙ってたことがある」
「どうした、唐突に」
おれは怯む。子どもをおろしたなんて言われたらどうしようと身構える。
「あたしもね。思ってた。このまま御木本さんから離れてお互いに干渉せず生きていくべきなんだって。だからなにも言わなかった」
「なんかあったのか」
「あたし自身死んだいまだから言うけどね。アパートを出ていったころね、御木本さんのお母さんに泣いて頼まれてたの。息子から離れてくれって」
「えっ」
「お母さんのせいにする気はないよ。あたしは情緒不安定だったし、本当に御木本さんにうんざりしてた。こんな男にあたしはもったいないって思ってた。でもお母さんにそう言われて心が決まったのはたしか」
「なんでそれをおれに言わなかった」
「言ってどうにかなったかな? いまでもやっぱり離れるべきだったような気はするんだ。それに、口止めされてたから」
ミヨリは続ける。
「いまになって、お母さんが亡くなってこんなことを言うのはフェアじゃないし、あたしもわるいことしてるかもしれない。でもずっと気になってたことでもあった。だから」
「ごめん、母さんがそんなことを」
「言ったでしょ。お母さんはちょっとしたきっかけだっただけ。傷ついたけど恨んでないし御木本さんに気にしてほしくもない」
「ああ、でもおれ……」
空気が重い。おれはなにを言っていいかわからないし、ミヨリは黙ったままだ。
「やっぱりごめん――って」
おれは助手席に目をやる。――ミヨリが消えていた。
「おい、ミヨリ?」
どこを見てもいない。まさか地中か? 地面に向かって呼びかけるも反応がない。
「おいったら」
エアコンの送風音だけしか聞こえない。
何分かそのまま走り続け、路肩に車を停める。
そこでようやくミヨリがいなくなったことに気付いた。
どうすればいいかわからず、呆然と田園風景を眺める。
「――ショックだった?」
「わっ!」
「あたしがいなくなったらショックだったでしょ」
「からかったのか。さっきのあれも」」
おれは声を荒げる。
「そんなことすると本当にいなくなったときわからなくなるだろうが!」
「いいじゃない、それで。それとさっきの話はうそじゃないよ」
「なにがいいんだよ」
「うるさいな。さっさと帰るよ」
「あのなあ」
おれが睨むとミヨリはまた消えてしまった。便利な技を覚えたらしい。
フットブレーキを踏んだときポケットに振動があった。電話、それも遠藤からだ。電話を取った。
「もしもし、お前どこにいる?」
と切迫した声。
「××からの山道を下ってるところ。どうした」
「どうしたって、さっき知ったよ! ミヨリちゃんが殺されたって!」
「そうなんだ、おれの部屋でな」
「ああ、聞いてる。昨日はどうしたんだ?」
おれは昨日から今日に至るいきさつを話した。ミヨリの姿が見えることだけは言わずに。
「そうだったのか。今日はうちに泊まれよ」
「そこまでは迷惑掛けられない」
「いまさらなに言ってんだ。いいな、こいよ。こなかったらお前のアパートまで呼びに行ってやるからな」
「大丈夫だよ。どうしたんだ急に」
「心配なんだよ! ばか」
おれは遠藤のその言葉に感じ入ってしまった。
「わかった、それじゃ今晩はお世話になる」
おれはついでにミサキちゃんに電話を掛けた。繋がった。お互いに気遣いの言葉を交わした。ミサキちゃんの声はいつもよりずいぶん元気がなかった。嫌われたのだなと思った。
13
鍵は警察から返されていたので一度アパートに帰って、シャワーを浴びて着替えを用意した。
ものがあるべき場所になく、フローリングの溝には血の跡が残る。もう自分の部屋でないみたいで腰を下ろす気になれそうもない。ポストに大家から「落ち着いたら連絡ください」とのお達しもあった。ミヨリと話ができているからそうは思えないが、これは実際には一大事なのだ。普段通り仕事に行ったことの奇矯さがわかった。周囲は近しい人間を失った混乱だと解釈するのだろうが。
部屋を出ながら、もうここには住めないだろうなと思った。いままで散々ほうぼうでミヨリの絡んだいざこざのために近所に迷惑をかけたものだ。ここに越して来てからはミヨリと別れたおかげで平和にやれていたのに。遠藤の家からも近いし家賃も安くていい物件だった。オンボロではあったけれど。
これから種々の現実的な対処にも頭を悩ますのだろう。
「遠藤くんち行くの?」
一人の世界に沈み込んでいると、ミヨリが背後から言った。
「ああ、だから相手してやれないかも」
「別にどうでもいいよ。勝手にホモホモしくしてれば」
遠藤の親切を茶化されてカチンときたが相手にしないことにした。いつものことだ。
遠藤の家は喫茶店の裏にある。築うん十年の日本家屋でまったく喫茶店の外装と調和していないが多分だれも気にしていないのだろう。
玄関の前で電話を入れると、急いで鍵を開けてくれた。
「ごめんな、ほんとに知らなくて。ミヨリちゃんは気の毒だったな」
それが向こうの第一声だった。
「大丈夫。お前が思うほどこたえてないから」
「そうなのか? どうのこうの言って結局はミヨリちゃんに戻るんだと思ってた。だからお前がおかしくなるんじゃないかって――」
「大丈夫、本当に平気だよ。ありがとな。入っていいか?」
「ああ、もちろん。何日でもゆっくりしていってくれ」
持つべきものは友達だと心の底から思った。意地の悪い女ではない。
居間に通されて座布団に座る。空気が舞い上がってふわっと畳の匂いがした。記憶にある限り四度引っ越して、あっけなく消えてしまう仮住まいの想い出しかなかったから、昔から変わらないものに気持ちが和らいだ。目の前にいる男もその一つだ。
「ロックでいいか?」
遠藤はブランデーの瓶を振る。
表面にいくつも傷が付いた木目の机の上にはいくつも料理の盛られた皿がある。
「出来合のものばっかだけど、食えたら食え」
「ああ」
危うく泣きそうになった。
「――もう遠藤くんと結婚すれば?」
ミヨリが水を掛ける。おかげで泣かずにすんだ。
聞こえないふりをして、酒をちびちびやる。たしかにこんなときは酔っぱらうべきかもしれない。異常な状況で神経が張り詰めてしまっている。
酔いはいつもより早く回って、胸中の不安をべらべらと打ち明けてしまう。だんだんと頭もぼやけていく。そして――
14
ああ、あたしのことまで喋ってるよ。
御木本さんに背後からそんな憐みの視線を投げ掛けた。神経が参ってると思われちゃうだろうな、まああたしは一向に構わないけど。
遠藤くんもそんな話に割り込まず辛抱強くうんうん頷いているんだからすごい。この二人本当に出来ているんじゃないかとさえ思った。
次第に上半身がゆらゆらしだして、御木本さんが前のめりに倒れた。遠藤くんは慣れた様子で体を受け止める。
「あんなことがあったらしょうがないよな……」
そう呟いて、お姫さま抱っこで御木本さんを抱える。背が高いだけあって力があるんだな、このルックスで世話焼きなら女の子も放っておかないだろう。そういえば御木本さんは昔あたしが遠藤くんにちょっかいを出すんじゃないかと気を揉んでいたけれど、あたしのことをわかっていないとしか言えない。あたしは御木本さんと付き合っている間はだれとも寝ていないし、寝ようとも思わなかった。好きな相手がいる間はほかの男なんて性の対象ではないのだ。それを別れてからビッチだのなんだのよく言ってくれたものだ。そもそも遠藤くんはあたしの好みではない。
遠藤くんは御木本さんを二階の寝室まで運んでいく。そしてシングルベッドに優しく寝かせた。そのとき思いついてしまった。あたしは御木本さんの体に入った。
意識があるときはどれだけ試みてもだめだったけれど、予想通り、意識がなければ体に入り込むことができるみたいだ。アルコールのせいで気分が悪いけれど、体は動く。
「ミヨリ……」
と小声であたしは呟いてみた。
「え?」
遠藤くんが近寄ってくる。
――このタイミングで抱き付くはずだった。ミヨリと勘違いして遠藤くんを押し倒してしまうという構図はとても面白い。あとでからかうのにもってこいだ。もちろんそこまでにしておくだけの良識はあるけれど。
しかし遠藤くんに抱き付こうとするとあたしの――御木本さんのだが――体はぴくりとも動かなくなった。どうしてだ!
目を開けてみる。
「起きたか、お前酔いつぶれてたから寝室まで連れてきたんだ」
遠藤くんが説明する。
「うん、ありがとう」
あたしは言う。やはりほかのことはできる。でも遠藤くんにホモホモしいことをしようとすると体が動かなくなる。
あたしは御木本さんの体を抜け出た。
「わっ、大丈夫か!」
抜け殻は再びベッドに沈む。
もしかすると本人が潜在意識で嫌がっていることはさせられないのかもしれない。まあもしそれができればこれだけ幽霊が蠢く世界、大惨事だ。幽霊になると色々なことができるが制約も多いらしい。
「おやすみ」
遠藤くんは優しい声でそう言って電気を消し寝室を出て行った。
あたしは暗闇の中で横になった。
これからどうなるのだろう。一人になっていまの状態やこれから先のことを考えるのは恐ろしかった。このままというわけにはいかないだろうから。
それじゃあ御木本さんが言うように成仏するほかないのだろうか。犯人がわかれば……か。眠れるまで少しだけ考えてみてもいいか。
――と言うものの心当たりがない。しばらく深く人と関わることがなかったからだ。しいて言うなら元カレ。でも御木本さん以外の三人の元カレはあたしに愛想を尽かして逃げて行ったし、いまさらやってきて殺そうとするとは思えない。
前のバイト先で告白を断った男の子……もすぐ彼女作ってたし、女の子に関してはまったく友達がいない。となると知らないところで恨まれていた、それくらいしか残らなくなる。実際愛想がわるいとかささいな不興を買うことは多かった。でも殺されるほどなにかしたろうか。
どちらの場合もどうやって鍵を開けたのかという問題は残る。
すると御木本さんサイド。夕方電話してた女の子。その女の子が御木本さんのストーカーをしていたとか。もしくは遠藤くん、御木本さんを密かに愛していた。なんてのもないか……。
ただこちらの方が前もって御木本さんの部屋へ侵入する手立ては準備しやすかっただろう。
金目当ての空き巣や強盗。鍵の問題以前に寝ていたのにわざわざ殺す必要もなかったろう。でもあたしはわざわざ殺された。あたしを殺すことが犯人の目的だったのだ。
本当はあたしが自殺して、記憶が混乱しているとか。……一番ありえるかもしれない。
――だけど、もう一つ可能性としては有力なのが、警察が疑ったように御木本さんなのだ。鍵が一つしかないというのは御木本さんの申告なのだから。スペアを隠し持っていたとしたら鍵など掛かっていないのと同じだ。
正直だれがあたしを殺したかなんてどうでもいい。だって生きていて楽しいことなんてほとんどなかったから。あたしは別に生きていなくてもいいのだと思う。でも御木本さんは常にそう思わないでいてくれた唯一の人だ。
もちろん少しは御木本さんがあたしを殺した可能性について考えないわけではなかった。昔から散々「殺して」なんて言ってたし、今回だって迷惑は掛けたから。だけど御木本さんがそんなことができる人じゃあないということははっきり信じられる。そしてもしそうでなかったとしてもあたしは御木本さんに裏切られたとは思わないだろう。
あたしの「愛」は単なる気分のむらに過ぎないと言われたことがある。多分そうだと思う。それでもいまは御木本さんが愛しかった。
もう触れることはできない。御木本さんの体に入って触れることはできる。でも御木本さんがあたしに触れることはもう二度とない。ひどく悲しくなった。
そう考えているとあたしはもう一つの可能性に当面した。
あたしが幽霊になって生きていているこの世界がある。そして意識のない御木本さんに乗り移ることができる。だとすればだれかがあたしに乗り移ってもおかしくないのではないだろうか。本人が望まないことはさせられないとしても、あたしは死にたかったし、死のうとしていたのである。だとすれば幽霊ならばあたしの体を使ってあたしを殺すことはできたはずだ。
じゃあその幽霊とはだれか。なぜあたしが御木本さんと再会したのちにこうなったのか。それはわからなかった。たまたま性質のわるいのがあの近辺にいただけかもしれない。
推論はここまでか。決定的な証拠はない。せめて御木本さんが警察に疑われずにすむなにかを見つけてあげたいとは思うが。
ところであたしはさっきから背筋の寒くなるような気配を感じていた。なにかがいる。この部屋にはあたしと御木本さん以外のなにかが。
そういえばあのおじいさんが言っていた。
「時間が経てば気配がわかるようになる」
これがその気配なのだろうか。姿は見えないけれど、たしかにそれを感じた。
あたしの枕元にだれかいる。
「……気づいたの」
しわがれた女の声がした。
あたしは背筋が寒くなって御木本さんの体に入り込む。
「それをやめなさい!」
女はそう叱責した。
「ケンジで遊ばないで!」
覚えのある声。そして口調。
あたしは御木本さんの目を通して、その姿を捉えた。――御木本さんのお母さんの幽霊を。
「モトコさん……!」
「早くケンジの体から出なさい」
「なんでそんなこと言われないといけないんですか」
あたしは抗弁する。命令口調にカチンときた。
「あなたは生きている間も死んでからもケンジの人生を滅茶苦茶にしようとするのね」
モトコさんはそう吐き捨てる。
その表情はいままで一度も見せたことのないほど歪んでいた。
あたしは後ずさる。
――だけどモトコさんがどうしてここに?
自問自答した。あたしが御木本さんと別れている間に亡くなったことは聞いた。すると……。
「――もしかしてモトコさんも御木本さんに憑りついたんですか?」
「あなたみたいにわるさはしていないわ。見守っているだけ」
「あたしだってなにもしていません」
「よく言うわね。早くケンジから離れて」
「この際だから言わせてもらいますけどね。そういうの気持ちわるいですよ」
あたしは母子密着型家庭を非難する。
「あなたにそんなこと言われたくない!」
モトコさんは我を失ったように喚いた。
「あなたにだけは!」
「あたしのことがきらいなんですか」
「ええそうね。ケンジの選んだ人だからってなにも言わずにニコニコしていたけれど。やっと別れてくれたと思ったら、また滅茶苦茶にしに来るんですものね」
「やっぱりそうですか」
「今回のことはやり過ぎたけれど」
「今回のこと?」
「わかってるんでしょ。あなたが死んだことよ」
「……あなただったんですか」
「今朝ケンジとのやり取りを見てカッとなってね。またケンジの幸せを壊すつもりなのかと思ったら耐えられなくて」
「あたしを殺したんですか」
「あなたがちゃんと鍵を掛けてそのうえ食事の後眠ったものだから、ついあなたの体に入ってしまったの。死にたいって言ってたでしょ」
モトコさんは続ける。
「ケンジは遠藤くんちにいるから距離的にもちょうどよかったわ。最初は殺す気まではなかったわよ。どうせ死にたいなんて狂言だと思っていたから、鼻を明かしてやろうとしたの。でも本気だったみたいね」
「だからなんなんです。あたしが死にたいと言っていたからってあなたが殺したことには変わりないし、それで御木本さんが警察に疑われているんですよ」
「うるさいわね。そのときはそこまで考えられなかったのよ」
「あなたも最低じゃないですか。全然御木本さんのためになってない。自己満足ですよ」
その言葉にモトコさんはうろたえた。
「わかってるわよ! でもああなったらもうだめなの。自制が効かなくなる。
わたしは忘れられたくないの。忘れられたくないのよ!」
あたしたちはいがみ合った。しかし死んでいるのでお互いどうすることもできずひたすら罵詈雑言をぶつけ合うだけ。こうなったら御木本さんが起きるのを待とう。今度のことをあらかたぶちまけてやろう。
そう思っていたけれど、御木本さんがいつまで経っても起きないので次第に頭が冷えてきた。自分の死んだお母さんが恋人を殺したって御木本さんにとってはすごくヘビーな話なのではないだろうか。それを知ってもこれから生きていけるのだろうか。
御木本さんは甲斐性なしだけど、そんなにわるい人じゃない。あたしに精神的DVを受けながらもずっと優しくしてくれた。だからこれは言ってはだめなんだ。御木本さんは知らなくていいことなのだ。
「モトコさん」
そう声を掛けても返事もしてくれない。ただむすっと座っているだけ。
「あなたのことは言いませんから」
反応はない。
あの成仏できないお爺さんが言っていた。人に憑りつくような例は遅かれ早かれおかしくなると。多分そうなのだろう。モトコさんを見ていてそう思った。モトコさんは元のモトコさんではない。それはあたしにも言える。いずれいまよりもっとおかしくなるのだろう。あたしは死んでいるのだ。
あたしは御木本さんの枕元に顔を近づけ、耳元でささやく。
「御木本さん、あたし出来るだけ早くにすぐに成仏するから、すぐ忘れてね」
そして姿を消した。あたしは意思が弱いけれど頑張ってそれからは姿を現さないことに決めた。最低でもあたしが見えなくなるまでは。
15
その後、御木本さんはお葬式を挙げてくれた。
あたしのお母さんも何年も前に亡くなっていたし生前親戚付き合いも皆無だったから、遠藤くんやサポステのときの知り合いが数人来てくれる程度のさみしいお葬式ではあったけれど、うれしかった。
しかしあたしのお骨をあろうことか、御木本家の墓に納骨したのである。もちろんあたしのお母さんと一緒に入るよりはよかったけれど、こっちはこっちでモトコさんがいるのだ。きっとあたしには母親運がないのだろう。
御木本さんは殊勝なことに毎週末になると家から三〇分も掛けて、だれかの畑の合間にあるその小さな墓地まで車を走らせる。
結局あたしは自殺ということになって、警察からの疑いも晴れた。しかしそのせいで御木本さんはアパートを追われ、大家に一〇〇万ほど賠償を支払うはめになっていた。あなたのせいよ、とモトコさんに言うとすまなさそうな顔をしたので驚いた。
あたしはもう御木本さんには見えなくなっている。自分からああは言って離れたものの寂しくてまた顔を出してしまった。でも御木本さんはもうあたしに気が付かなかった。
職場の同僚のミサキちゃんとはあたしのことが知れたのちも上手くやれているようだ。実はあたしが死んだ日、ミサキちゃんは元カレに復縁を迫られていたらしい。そして一時はOKしそうになったものの、御木本さんからの電話で心が決まったという。
相変わらず面倒な女に行くなーと眺めていた。少しだけ寂しく感じたけれど、でも御木本さんが一人にならずにすんでよかったと思う。もちろん遠藤くん一家やほかにも親身になってくれる知り合いが少なからずいるようであたしが心配することでもなかったけれども。
そしてある日あたしが目を覚ますとモトコさんが消えていた。辺りを探すが一向に見当たらない。これはひょっとしてひょっとするかもしれない。半年も毎日顔を突き合わせているとそこに妙なさみしさが生まれた。
みんな消えていくのだ。だからあたしもきっとそうなるのだろう。そうなってほしい。でも本音を言うとたまには思い出してほしい。
ミヨリの姿は見えなくなった。だからあれが精神的に追い詰められたおれの妄想だったのか、それとも本当に幽霊として現れ、それから成仏したのかはわからない。
でも本人が「成仏する」と宣言したのだから、多分したのだろう。酔いつぶれて倒れたときたしかに耳元でミヨリの声が聞こえたのだ。妄想の夢を見るという複雑な処理が行われた可能性はあるが、おれは夢ではないと信じている。
見えなくなった途端、ミヨリが死んだのだという事実が事実として理解できるようになってきた。そうすると悲しみや不安が胃の奥からいつまでもせり上がって止まらなくなった。取り返しがつかない事態なのだ。ずいぶん遅れてそのことに気が付いた。
「忘れてね」という今際の言葉たけれど、賠償金や葬式などいろいろと置き土産を残してくれたのでミヨリのことを忘れるのは難しかった。そうした後始末が仲良くしていた頃を思い起こさせてどこか心地よかったのだ。もちろん急に腹が立つこともあった。でもあとから振り返るとよいことばかりが思い出されてしまう。こういうのも死人に対する典型的な反応で、実際に目の前にいたなら今でも罵り合っているのだろう。そうできればいいなと思うがもうできない。
――いまでもおれはミヨリに憑りつかれている。ミヨリが消えてからずっと忘れようとがんばったのに、どこへ出かけてもなにをしていてもしじゅうミヨリの言ったあらゆる言葉が聞こえてくる。
母がおれにミヨリと別れてくれと零したとき、あのときおれがもっと強くその拘束を振り切ればあんな風に黙ってミヨリが身を引くこともなかっただろう。ミヨリはなんで死んだのかいまだにはっきりとしたことはわからないけれど、おれが殺したようなものではないかと思う。
だめだ。
生きていたときはあんなに喧嘩ばかりだったのに、わるい思い出さえ美化してしまう。
そんなことばかり考えているのはよくない。
本人が「忘れてね」と言ったのだ。おれだって忘れなければならない。おれもおれの人生を生きなければいけない。
あれから念願のミサキちゃんと付き合うことになった。だから余計に忘れなくてはならないし、忘れるためのはっきりしたきっかけにもなった。
でも忘れきれてはいない。愛情も執着も同じようなものだ。おれは憑りつかれたと騒いでいたが、もしかするとおれがミヨリに憑りついているのではないだろうか。ミヨリがおれを離してもおれがミヨリを離せていないのだろう。おれがミヨリを呼び寄せたのだ。
線香に火を点けて墓に手を合わせた。
「ちゃんと忘れてるから」
と嘘を言って帰った。聞こえていてもいなくてもつらい言葉だと思った。