前
おやすみなさい恋人よ、おやすみなさい。
そんな怖い夢はおよしなさい、
死だの心変わりだの、いやなことばかりいふのは誰ですか。
「クリスチナ・ロセッティ詩抄 時と亡霊」
1
起き抜けの気分ほど、すごく意味がありげなのにその実まったく間違っている予感はない。その日もそうではじまりの印象だけはすごぶるよかった。
深い灰色のドレープカーテンの隙間から早朝の青白い光が差し込み、部屋全体を淡く照らしていた。ここのところで一番涼しいし空気もなんとなく一味違う。起き上がって冷たい水をごくごく飲んだ。
はあ清々しい朝を迎えたな。
その感覚に満足するとゆっくりと目を閉じた。あと三〇分は眠りの余韻に浸ることに決めた。
三〇分後、愛用の小さな目覚まし時計が鳴った。裏のスイッチを素早くスライドさせた。あと五分、起きるための準備時間が欲しい。
準備というものは見積もったよりも時間が掛かるのが普通で、気づいたらそれから余分に三〇分が経っていた。
慌てて飛び起きた。
まだあきらめるには早い。あたふたと準備に取りかかる。
ひげは伸びがわるい方なのでまだ剃らなくていい。歯も職場で磨けばいいし顔だってどこでも洗える。髪はまあセットするほどではあるまい。とりあえず制汗スプレーだけはしよう。と、身だしなみに妥協してわずかばかりの時間を手にする。
弁当は昼休憩に買えばいい。通勤バッグになにもかも放り込み、気ぜわしく玄関へと急ぐ。
靴を履いて、さあ家を出ようというところで、呼び出しベルが素早く鳴り響いた。思わず全身の動きが止まる。ベルはもう一度、今度はゆっくりと鳴った。
なんなんだ。一番ドアをふさいでほしくないタイミングなのに。
おれはドアスコープからその訪問客をたしかめる。
若い女がドア越しにこちらを熱心に見つめていた。
きれいな半月型をした目、右目のすぐそばには小さなほくろが一つある。おれは泣きぼくろがすきだ。
おとなしい色の茶髪をポニーテールにまとめて、前髪はサイドに長く垂らしている。わりあい目鼻立ちはよい。しかし顔で人を判断するのはよくない。おれは以前それを知った。教えてくれたのは玄関前に突っ立ているこの女――如月美和だった。
テレパシーではないだろうが、ミヨリは口を開いた。
「御木本さん、いる?」
いるけど返事はしたくない。黙って二、三分待ってみたが一向に立ち去る気配がない。そうか、駐車場に車があるから居留守がバレているのだ。
おれは仕方なくチェーンをかけたままドアを開けた。
ミヨリの表情がぱっと明るくなる。
「よかった!」
「なにか用?」
「この間はごめんね」
「別に謝ってもらうことなんてないから」
九ヶ月前だった。ミヨリとおれとは険悪と険悪の境目、束の間の小康状態を楽しんでいた。そのころミヨリは優しかった。その直前の喧嘩がひどかったからきっとその埋め合わせでもあったのだろう。
しかし当然のことながらある日を境にそれは終わってしまった。原因はわからないが急に風当たりがつらくなった。ミヨリは「別れたい」と繰り返すばかり。何度も経験していたことだったから驚きはしなかったが、そのときはいままでのように自分を堪えることができなかった。ミヨリは出て行った。
それからしばらく連絡は取り合っていたのだけれど、毎回口喧嘩をして険悪なムードが関係全体を支配していくようになった。そのころ母が倒れたこともあっておれは精神的にひどく落ち込んでいた。ミヨリにそのことを伝えればきっと態度は変わるのだろうと思ったが卑怯な気がしておれはなにも言えなかった。連絡の回数は次第に減っていった。
長い付き合いだったから居場所はなんとなくわかったけれど無理をして探すのは嫌だったのでそれっきりになっていた。この間と言うには時間が経ちすぎている。そしてミヨリが謝ることでもない。
それでもミヨリは言った。
「会いたかった」
「おれはそうでもないね」
と短く吐き捨てる。
傍から見ればおれはとても冷たい男に映ることだろう。でも人がそんな言葉遣いをするようになるにはそれなりの理由や経緯があるものだ。でも周りに見えるのはおれが女を冷淡にあしらっているさまだけ。
「わるいけどそこどいてくれ。仕事に行かないといけない」
おれはもうミヨリと過ごす冗長不安な日常を繰り返そうとは思えなかった。それにいまは別に意中の女性ができたのだ。
するとあたかもショックを受けたみたいにミヨリは目を丸くした。
「なにそれ?」
「ごめん、でももうやめよう」
「なによそれ……」
ミヨリは実に悔しそうに奥歯を噛みしめた。大きく見開かれた両目から涙の粒が膨らんで落ちていく。
そして震える声で怒気を放った。
「なんでそこまで言えるの!」
おれはうろたえた。罪悪感を感じないよう、目の前の女を迷惑を振りまく女として考えるようにした。
ミヨリは激すると後先考えずに怒りをまき散らす。それだけならまだいい。
だが時間が経って怒りの嵐が収まると、一転、今度は気味がわるいほどいじらしい態度を取り始める。
ギャップの力だ。
するとむくむくと罪の意識が湧いてくるし、機嫌が直ったならこの辺で手打ちにしておこうかなんて甘い考えも浮かぶ。かわいいところもあるかもしれない、とそれまでの経緯を忘れたところでめでたく仲直り。でもすぐにまたなにかで怒るから仲直りにはあまり意味がない。心身と名誉は次第に傷ついていく。いままでどれだけそんなことを繰り返したろうか。
「あのさ、いい加減にしろよ」
おれはドアチェーンを外して、勢いよく外に出る。
ほぼ同時にキィィと蝶番の軋む音色がして、隣の部屋に住む中年女性が大きな袋を二つ抱えて出てくる。あ、今日は木曜日か。そういえば燃えるごみの日だった、と思い出す。
ひっつめ頭の隣人は、ぎょろりとした大きな目をおれからミヨリへと順繰りに向けてなにか言いたげに、しかしなにも言わずに通り過ぎて行った。あの人は近所付き合いをする方でないが、このままだと噂よりもっと直接的な形でアパートの全住人にこのトラブルが知れ渡るだろう。
「いい加減にするのはアンタでしょ!」
声を張り上げるミヨリ。
「大声出すのはやめろ、警察呼ぶぞ」
「呼べばいいでしょ。だれもアンタになんか同情しないから!」
「頼むよ」
「あたしは一日泊めてもらいたいだけなの。迷惑掛ける気なんてない」
「もう十分迷惑だし、ならはじめからそう言え!」
「なにも聞いてくれなかったくせに」
「あんなことがあったんだから当たり前だろ」
「あたしのこと蔑ろにしてたくせに!」
「お前はどうやったって満足――」
「――うるさい!」
頭の芯が震えて痛むほど甲高い叫び。
「静かにしろよ」
「泊めてよ。そうしたらもう大人しくする。疲れてるの」
白熱したせいでドアからずいぶん離れてしまった。
ミヨリはよちよちと、雨だったせいで砂まみれの廊下を歩いて部屋に向かう。やけに歩きにくそうにしているな、と思ったらヒールの紐が片方切れていた。
「お前、もしかして帰るところないのか」
と聞く。ミヨリは間違いなく金を持っていない。ミヨリが金を持っていたためしがないし、よく見れば化粧もしておらず着ている服も少しくたびれていた。荷物だってハンドバッグが一つだけだ。
「ないから頼ってるのよ。同居してた人に追い出されたの」
「自分が困ったときだけ泣きついてくるなよ」
「うるさいな。アンタだってしょっちゅうつまらないことでくよくよ悩んであたしに泣きついてたくせに」
「昔の話だろ」
「ずっとそうだったじゃない。はじめっからずーっと情けない男だった」
人のコンプレックスを攻撃する才能に長けていることだけは認めねばならないだろう。
ミヨリは続ける。
「マザコンだからそんななんだよ」
「そのマザーはお前の知らない内に死んだんだよ」
おれは遅くなった訃報を伝える。
「えっ!」
ミヨリがうろたえる。
「……それは知らなくて」
「いいよ、もう。とにかく入れよ」
マザコン、母の生前おれがもっともきらっていた蔑称だ。
シングルマザー家庭で甘やかされて育った自覚があったのだ。
ミヨリと同居するまでは親元を離れたこともなかった。それから色々なアパートを転々としたけれど、どこも母のアパートへと車で通える範囲内だった。母の影響下を出られていないことへの恥の意識は常に付きまとっていた。
いまはそれもなくなった。
部屋に入るとミヨリはぼそっと呟いた。
「――言い過ぎた。ごめんね」
「いやおれも言い過ぎた」
と言いそうになるのを飲み込む。
半端な同情がお互いをめちゃめちゃにすることは知り抜いていた。にもかかわらずその経験は有効に活かされていない。
おれは座布団を敷いた。ミヨリはそこにへたり込む。一息つくと空腹を示す音が鳴った。
「いつから食ってないんだよ」
「昨日の昼から」
少し恥ずかしそうにミヨリは笑う。
「お前いつか死ぬぞ」
「いいのよ。死にたいんだから」
「……冷蔵庫になんか入ってるから、適当に作って食え」
「御木本さんはどうするの? 食べてなかったら作るよ?」
「いまは時間がない」
と断った。遅刻はもう決まっていた。だからといって慣れ合ってはいけない。
冷蔵庫から卵を取り出しながら、
「帰ったら作ろうね?」
とミヨリが言った。
「あのさ、おれはお前とヨリを戻す気ないし、必要以上に仲よくしないでおこう」
「なんでよ」
「おれたちが一緒にいるとお互いもっとだめになる。何年もいてそれがわかっただろ。
試しては失敗して試しては失敗して、その繰り返しだ。お前が男に寄りかかるようになった責任の一端はおれにもあるから、生活の助けはするけど、本当はもうこんな風には会わない方がいい。
ちゃんと病院にも行けよ。なんならそのときだけは付いて行ってやるから。男を作るにしてもちゃんとした相手を見つけろ」
「御木本さんがわたしを捨てたいだけじゃない」
「そうかもしれない。でもお前だっておれといて幸せなわけじゃないんだろ」
「ときどきは幸せだけど、そうかもね」
「だからもうこれっきりにしよう。もう会わない方がいいんだよ。訪ねてくるのもやめろ。だめならもう引っ越すことにする」
なんで朝からこんな別れ話をしているのだろう。もう別れた女と。
「あたしだってそうしたいよ。でも会いたくて会ってるわけじゃない。そうせずにはいられないだけ。あたしにはだれかが必要で、御木本さんはそのだれかになりやすい人なの」
ミヨリはそう答えた。おれにもその言葉が理解できた。
本当にきらい抜いているなら今回だってはねのけることができたはずだ。けっして部屋には入れなかったろうし警察も呼んだしそもそもドアを開けなかったはず。でもそうはなっていない。ミヨリはいま目の前でベーコンをカリカリに炒めている。
おれは返事をせず、バスルームでひげを剃って歯を磨いて顔を洗った。
ズボンの右ポケットから部屋の鍵を取り出し、一万円札と一緒にミヨリのズボンポケットに押し込んだ。
「なに?」
ゴミ袋の口を結って、ゴミ箱から引き上げる。それを抱えながら玄関床に靴先を叩いて手を使わずに履いた。
「鍵ひとつしかないからお前に貸す。おれが帰ったら開けてくれ。それから鍵はちゃんと閉めて、もし出ていくなら室外機の下の隙間に入れておいて」
ミヨリには、そそっかしいの範疇を超えて注意欠乏なところがあるから、しっかり注意しておかなかればならない。
「わかった」
とベーコンエッグを調理しながら機嫌よさげにミヨリは返事をした。
「最近この辺で空き巣が多いらしいから本当に鍵は閉めろよ」
「わかったって!」
ベーコンの焼ける香りが唾液を分泌させる。おれははぶんぶんと頭を揺すって部屋を出た。いってらっしゃいと聞こえた気がしたが振り返らなかった。
ミヨリが死ぬとは少しも考えなかったから。
2
出会ったころはおれたちはもっと未熟で、多くの新しいカップルがそうであるように、まだ互いに対しての期待があった。自分に欠如しているなにかを相手という未知に見出したのだ。
出会ったきっかけは大学二回生のときに、近くのサポステに通うようになったことだった。
地域サポートステーション、通称サポステとはざっくばらんに言うなら若い無職の自立支援施設で、その性質のため当然ながら生きづらさを覚えている人間が集まる。
当時のおれにとっては、内面的な問題に加えて奨学金や家計のことが悩みの種で、バイトの時間をもっと増やすべき、あるいは大学なんか行かず就職すべきだとも考えてはいたが、そのどちらも選ばずにおれはただ無為な時間を過ごしていた。無論勉学に励んでもいなかった。
教育学部に所属していながらもそういった場所には一定の抵抗を感じていたから親身になってくれた学部の教授の勧めでもなければ足を踏み入れることはなかっただろう。正直サポステなんて落伍者の集いだという偏見さえ抱いていた。
だからはじめて施設を訪ねた際、そこの責任者であるカウンセラーの先生を除いてだれとも馴染めなかった。一部屋の中でトランプを楽しんでいた仲良しグループの輪に入ることができなかったのだ。もちろん大富豪には参加したし、大富豪にもなったが富は孤独を埋め合わせてはくれなかった。それでも、話に参加できなかったから、ジョーカーと革命のことを考える以外に居心地の悪さを忘れる方法はなかった。
帰り際もうここには二度と来ないだろう、と思ったが、
「御木本くん、次の日曜の朝ビュフェ形式の食事会をするからまた来てね」
そうサポステの先生に誘われ、教授にも
「とりあえずもう何度か行ってみなよ」
と言われたから再訪することとなった。そしてその二度目の訪問で、おれはミヨリを見初めた。
屋上の駐車場に買ったときから廃車寸前のマツダを停め、エスカレーターを使って下の階に降りた。食堂の場所がわからずビル内を彷徨ってようやくたどり着くと、場はすでにがやがやとした楽し気な声で満ちていた。
キョロキョロしてどこに陣取るべきか頭をはたらかせていると、隅の席に目が行った。一つは隅っこがすきなのもあったし、もう一つは素敵なシルエットの女の子が座っていたからだ。かわいい子だな、と思わず見惚れた。フルーツをもの憂げにフォークで突き刺しているさまをまじまじと眺めているとふいに目が合っておれはすぐに逸らした。
ひそかにもう一度見た。おれと同じで明らかに場に馴染んでいない。死ぬほど退屈そうで、だれとも目を合わせずだれとも同席せずに一人黙々と食べている。彼女はなにが目的でこの場にいるのだろうか。
一対一なら話しやすいし、絶好の機会だと捉えたおれはトレーにプレーンのパンを一つ掴んで載せて、席を取られないうちに彼女のテーブルへと急いだ。
「おはよう。ここ座っていいですか?」
彼女は一瞬ぎょっとしたが、
「おはようございます。どうぞ」
とぎこちない笑みを返した。
「はじめましてですね。御木本です、よろしく」
「あ、はい。そうですね。あたしは佐々木です……」
会話は終わる。
おれはパンをかじる。せめてジャムかなんか持って来ればよかった。
「何も付けないんですね?」
「え?」
「それ」
彼女はおれが黙々と食べているパンを示す。
「――ああ、実は佐々木さんに話しかけたくて適当に取って来たんですよ」
おれたちのテーブルにだけ場違いな静けさが訪れる。
自分を殴りたかった。話題を振られたことにどぎまぎして、あまりにもあけすけに下心を口走った。駆け引きもなにもない。
「いやっ、ここいますから、なにか取ってきていいですよ」
彼女は明らかに動揺した様子で答えた。以降避けられてもおかしくないようなやり取りだったが、ストレートだったのが功を奏したらしい。すかれたわけではまったくなかったが、幸運にもきらわれることもなかった。
当時は二人とも初だったのだ。当時ミヨリは一六歳。通信制高校に通っている女子高生だった。そのときおれは一九で相手の年齢を気にするほどの経験も分別も持ち合わせていなかった。
おれは彼女のその反応に完全にのぼせた。これは脈があるんじゃなかろうか、と内心小躍りした。
しばらくあまりにも当たり障りないことをポツポツ喋りながら腹は膨れていった。
散会のタイミングで、おれはさらに勇気を振り絞った。
「よかったら、アドレス教えてくれないですか?」
「あ、ごめんなさい……。スマホ持ってなくて」
「そうなんですか」
いまどき珍しい子だな、と思った。しかしそんなところにも惹かれた。
「それじゃあ、その、また会えますか?」
「はい、またここには来ます。それじゃあ」
「ええ、さよなら」
それからだれに勧められずともサポステに通うようになったことは言うまでもない。
教授に、「まだ通ってるの?」と聞かれておれははっきり「はい」と答えた。その回答に、なにか掴んのだと解釈したのだろう。嬉しそうに「よかったね」と言ってくれた。
次に会うときもその次に会うときも彼女はだれとも打ち解けず一人でパソコンをつついたり漫画を読んだりしていた。おれの方はというと回を重ねるにつれだんだんと場に慣れてさいしょ来たときよりかは居心地がよくなってきた。
彼女には話しかけるとそれなりに反応が返ってくるのだが初対面時の対人距離から一向に進歩しないままでいた。それでも辛抱強く話し掛けていたけれど、そのにべもない態度にだんだんと避けられているのではないかと感じはじめた。そのころ大学の試験が重なってサポステからは一ヶ月ほど足が遠のいた。
一か月して一目ぼれのときめきもすっかり鳴りをひそめ、まだ彼女は通っているのだろうか、程度になんとなしに訪れると、相変わらず一人きりでいる彼女をみとめられた。
彼女はおれに気づくと、なんと向こうから声を掛けてきた。そして言った。
「御木本さん、もう来なくなったのかと思いました」
拗ねているような、それでいて関心のないようなどちらとも取れる声音だった。
「大学の試験でね。佐々木さんは元気?」
「そうだったんですね、おつかれさまです。元気ですよ」
「よかった。久々に会ったことだしちょっと外で話しません?」
興味が少し薄れた分大胆になっていた。
「はい」
下の階に喫茶店を見つけていたので、とりあえずそこに彼女を連れて行った。
テーブルを挟んでダイニングチェアに腰掛けて、二人ともコーヒーを注文する。
「あの、御木本さん」
意を決したような調子で彼女が言った。
「どうしましたか」
「御木本さんはどうして、ここに来ているんですか?」
「ここってサポステのこと?」
「はい」
おれはその経緯を語った。ある程度はぼやかしながらも、自らの中にある不安感について話した。
「佐々木さんは?」
「あたしは……」
「おれみたいに、だれかに言われて来てるんですか?」
「そうじゃなくて、家にいたくないんです」
「そうなんです?」
「はい、でも人は苦手で」
彼女の目が泳いでいた。
「やっぱり忘れてください」
「今度遊びに行きませんか」
目が合った。返事はない。
「いや?」
「いえ、そんなことはないです」
「じゃあ今度の日曜日、どこかに行きましょう」
「……いいんですか?」
「もちろん。でもスマホないんですよね。ここで待ち合わせますか?」
「いえ、買いました」
彼女はポケットからスマホを取り出した。買ったばかりにしては細かい傷が多かったけれどもそこには触れなかった。
「美和、……みわちゃん?」
「ミヨリって言うんです。変な名前で恥ずかしいんですけど」
間もなくしておれたちは交際をはじめた。
3
どうせ遅刻するなら。そう居直り、施設長の村上先生に連絡を入れて一時間ほど余分に時間を捻出し近所の喫茶店に入った。部屋から歩いて五分もない行きつけの店だった。
店内は薄暗くレトロな雰囲気とコーヒー豆の香りが漂っている。半端な時間だからかほかの馴染み客もいないようだ。
「よう、どうした。休みか?」
不躾な挨拶だった。
カウンターには店主ではなく、遠藤がいた。店主の姓も遠藤なのだが、要は店主の倅の方の遠藤がいた。
「なんでお前が。おじさんとおばさんは?」
おれは聞く。
遠藤の家とは家族ぐるみの付き合いがあった。
母が夜遅くまで病院で働いていたものだから、母と高校時代同級生だった遠藤のおばさんの好意で、おれは遠藤家の食卓に毎日のように招いてもらっていたのだ。半分転がり込んでいたと言ってもいい。
「北海道に旅行中。今週は代理だ。災難だよ」
「二人とも元気だなあ」
「で、お前はどうしたんだ」
「遅刻だよ。腹減ったから少し余分に遅刻することにした。なんか作ってくれ」
「家になんもないのか?」
と遠藤は商売気のないことを言った。
遠藤の本業はイラストレーターなのだが、家にいると両親からは暇人みたいな扱いを受けるらしく、頻繁に買い出しや代理としてこき使われているらしい。いつもおれに年寄りは理解がないなんて零しているが、これはこいつの性分みたいなものだ。
いまのアパートも、遠藤の紹介で入居したのだ。近いものだからことあるごとにぶらっと寄ってしまっている。子供のころのままだった。面倒があるとすぐに遠藤に相談したものだ。
おれはここぞとばかりに言う。
「ミヨリだよ」
「ああ、そういうこと」
と鼻で笑った。それで通じるくらい過去に泣き言を漏らしていたのである。そしてありとあらゆる忠告を遠藤からもらったが当然すべて無駄にした。
「やっと縁が切れたものと思ってたのに。どういう風の吹き回しで?」
「彼氏に振られたようなことを言ってた。さっき押し負けて部屋に入れちゃってさ」
おれは自嘲気味に鼻で笑った。
「お、馬鹿だ」
「わかってる」
「あの子はどうしたんだよ。ホラ、メロディのミサキちゃん」
メロディとはおれの務めている児童デイの名前で、ミサキちゃんはそこの同僚のことだ。相手は年上なのに勝手にちゃん付けで呼んでいる。といって本人の前では羽村先生、または羽村さんなのだが。おれは陰では大きく出る方だ。
「結構上手くいってる。デートももう何度かしてる」
「よかったな。だけど一応言っておいてやるけどな」
遠藤はコーヒーを丸テーブルに置く。
「絶対にミヨリちゃんのことは喋るなよ。
同情で気持ちが揺らいでるかもしれないが、傍から見ればミヨリちゃんはお前に付け込んでるだけだ。もう耳にタコができたろ?」
「わかってる。そこまで馬鹿じゃない」
その言葉には自分を騙すだけの説得力もなかったが。
「どうだかな。でもこれで家に呼べないな」
「すぐ追い出すよ」
「言うことだけはかっこいいな」
遠藤は下手な口笛を吹く。
「だって、一日だけって約束だからな」
「約束は守られそうか?」
「守らせるよ」
「いつもそう言ってるじゃないか」
「今回は決意が堅い」
肉の焼かれる音と一緒に生姜の香りも漂ってくる。冷めないうちにコーヒーカップを口に運ぶ。
おれは話題を変える。
「お前は?」
「え、おれ? なにが」
「女。前にいい人がいるとか言ってなかったか」
「ああ、結婚しようと思ってる相手がいるよ」
「へえ」
遠藤は背も高く、顔も整っている。おまけに面倒見も頭もよく、学生時代など常に女から言い寄られていた。
そういえば、おれが想いを寄せていた子が遠藤に想いを寄せたこともあった。その際おれはとても複雑な心境に陥り遠藤に対してなにかと難癖を付けるような子どもっぽいまねさえした。三日間に渡る冷戦は、おれが駐輪場の遠藤の自転車を目の前で蹴って倒したことで一気に殴り合いの喧嘩へと発展した。ボコボコにされた。
それから気まずくて悶々とした日々を過ごしていると、ある日遠藤がなにごともなかったかのような気さくさで話しかけてきた。おれもそれに応じた。しかもその後、遠藤がその子の告白を断っていたことを知った。「好みでなかったから」と遠藤は弁明したが、美人相手にまんざらでもなかっただろうに、とおれは思う。
こいつは行動が格好いい。おれはそれにすこし及ばない。
「紹介しろよ」
「ああ、そろそろ紹介しようと思ってたんだ。写真見たい?」
「見たい」
親友が幸せになることを素直に喜ぶだけの心はあるけれど、それでもつまらない嫉妬は付いて回る。でもそれに自己嫌悪する時期は過ぎた。
キラキラと光るディズニーのスマホケースに身を包んだ遠藤のスマホ。なんでこいつディズニー好きなんだろう。おれにはディズニーのよさは全然わからない。それはともかく彼女の写真を見せてもらう。遠藤ではなくミッキーとのツーショットだった。それが様になるほどには美人だ。――おれの好みでは全然ないけれど。
「へー美人だし優しそうな顔してるな。おめでとう」
「ありがとう」
「羨ましいよ」
「隣の芝生は青いってな」
「芝生が生えてるだけマシだろ。こっちは荒れ放題。とくに害獣がひどいんだ」
「そう腐るなよ。おまえは絶対幸せになれるって」
冷めるぞと言いながら遠藤は料理を運んできた。
「まあ、そうだよな。おれもそう思うよ」
軽薄な会話で無理にせき止めていたネガティブな情動がいまごろ頭の中を駆け巡った。ミヨリをどうしよう。だけどそれを態度に出すのはやめておく。考えるのもやめなければ。遠藤が言うようにおれは幸せになれる。
「いただきます」
ともかくいまだって朝食にはありつけている。
4
夜更けに、海沿いに車を停めて、おれたちは車内で抱き合っていた。エアコンが大きな音を立てて冷気を吐き出していたが、それが周囲のもの音を消してくれ却って二人の世界に没入できた。波の音さえ打ち消して、ロケーションの意味はまるでなかったけれど人がいない静かな場所であればどこでもよかったのだ。といって刺激的な交接を求めてのことではない。
当節の若い男女にしては少しだけ珍しく、手を繋いだり抱きしめ合ったりキスをしたりといった軽い接触で留まっていたのだ。おれが清い関係を望んだわけではなく、ミヨリがそれ以上のことは拒んだというのが概ねの理由であった。そんなわけでその頃はいつも生殺しとも呼べる半端な接触に喜びと苦しみがない交ぜになった情感に身を悶えさせていたが、もちろんそれでも幸せだった。
交際はというと、あれからサポステに行く代わりに二人で何度もデートを重ねて、二月も経たないうちに始まった。お互い異性と深い仲になった経験がなかったのも手伝ったかもしれないが、会うごとに胸が躍り、自然な流れでこういった関係に収まった。
そうした過程でミヨリは決して遠慮がちで清楚な女ではない、とわかった。むしろ内側には激しい情動が潜んでいた。単にその激しい情緒はよほど仲良くなった相手にしか向くことがないだけなのである。
一つの季節が通り過ぎようとすることになってミヨリはその面をはっきりと露わにするようになった。
「ここで降ろして!」
と車の中で叫ばれた。
「そんなことできるわけないだろ」
おれは反論した。なにについて揉めているかはまったく理解できていなかった。
しかしながら、こんな釣り人以外見向きもしないような郊外の浜辺に放り出すことはできない。
「御木本さんといたくないの」
「なんでだよ」
ものの数分まで抱き合っていたのに、ちょっとばかり唐突だと感じた。
「だって一緒には暮らしてくれないんでしょ」
合点がいった。なんだそのことか。
「御木本さんは一人暮らししないの?」
さっきそう聞かれたから、
「大学出るまでは一人暮らしできないね」
と何気なく返したのである。そうか、ミヨリはそれほど同棲したかったのか。
「二人で同棲したいってこと?」
「そんなの自分で考えてよ」
「そういうことだよね。おれだってミヨリと暮らしたいよ」
おれは続ける。
「でも経済的に難しいだろ」
「そんなのはわかってるよ。でもあたしは御木本さんが考えてくれていないってことが悲しかったの」
そのとき、ミヨリのスマホが鳴った。
「ああ、まただよ!」
画面を見せてくれる。お母さんと表示されていた。
「出なくていいの?」
「うん。今日は帰らないって言ってあるんだし、お母さんはおかしいから」
たしかに間違いなく彼女の母親はおかしかった。
本人と何度か挨拶もしたし、ミヨリから話を聞いていたからそのことはよくわかっていた。
「御木本さんのお母さんはいいね」
うちに来るたびにそう零していたことを思い出す。
ミヨリの母親は娘がやることなすことすべてに口を出し、無意識的になのだろうが娘の身動きを封じていた。毎日自分の感じている恐怖や不安を注意という形で娘にまで感染させていく、それは典型的な過干渉だった。
うちと同じでミヨリは母親と長年二人暮らしをしていたのだが、そんな生活に耐えられないらしく、しきりに家を出たがっていた。
本人も学業の傍らペットショップでアルバイトを続けているのだが、当然家を出られるほどの収入は確保できていない。あれほどつまらなさそうにしながらサポステに来ていたのは、家にいたくない一心からだったとそのときになってわかった。
おれもどうにかしてやりたいとは思ったが、決心が着かないでいた。就活の年まで来たし、いま大学を辞めて就職するのは得策ではない。短時間ながらバイトははじめていたがこれ以上増やして家を出るのも現実的ではなかった。
うちに来ればいい、と何度か提案してみたがそれには首を振られた。まあ当然だと思う。狭いアパートに彼氏の母親と同じ空間で暮らすのはひどく息が詰まることだろう。
「おれが卒業するまで待ってくれないか。お前が辛い思いしてるのはわかってる。できるだけそうならないで済むようにがんばるから」
「ごめんね、本当はそう言ってほしいだけだった。あたしだって卒業したら働くよ。御木本さんにだけ大変な思いはさせないから」
おれたちは再び抱き合った。さっきそうしていたときよりもずっと幸せで、喧嘩したあとの仲直りは病みつきになりそうなほどの幸せがあると思った。
5
午前一一時前になってようやくメロディへ到着した。
しおらしい顔をして、建物に入ろうとすると庭の掃除をしていた村上先生に見とがめられる。
「御木本先生おはようございます」
おれの村上先生に対する第一印象は陰険なおばさん。そしてそれはいまになっても覆されていない。
「おはようございます。すみません、遅刻しちゃって」
苦笑いしながら頭をかく。
「寝坊ですか」
「はい」
「御木本先生おいくつですか?」
「二四です」
「あのですね、もうよい歳なのですからきちんと自己管理してくださいよ」
「すみません、気を付けます」
「ええ、次からは気を付けてください」
そんな調子で文句を言われる。ミヨリに対する苛立ちが募る。
それから二階の事務室に向かった。
「御木本先生、寝坊でもした?」
事務室で入力作業をしていたミサキちゃんがおれを見て、軽く頬をつり上げて笑った。ささくれ立った心が鎮まっていく。
「そうなんですよ、さっき村上先生に怒られました」
「どうせ午前は暇なのにね。っていうか、わたしもさっき来たところなんだけど」
「羽村先生も? どうしてまた」
「ちょっと母の具合がわるくて病院連れて行ってたんだ」
「お母さん大丈夫なんですか」
「全然大丈夫よ。とにかく村上先生の言うこと気にしちゃだめよ」
おれが塞いでいるように見えたのだろうか。それは村上先生のせいではないのだけれど。
「あはは、ありがとう。さて、早くメロディ便り書かなきゃ」
メロディ便りとは利用者の親御さんに向けて施設の活動を報告する、施設便りのことである。小説を読むのが好きなんですと言ったらいつのまにかおれの仕事になっていた。
おれは自分のデスクに座ってパソコンを起動する。
「ねえ御木本先生」
「はい」
「いつもと違うことない?」
「え」
おれは素っ頓狂な声を上げる。たっぷり数秒硬直してからミサキちゃんが髪を短くしていることに気が付いた。
「あ、髪形。かわいくなりましたね」
「なんなのよ、いまの間は」
完全にミヨリのことだと勘違いした。女の勘を過信していたようだ。
「羽村先生に見惚れていたんですよ」
歯が浮くようなことを言う。
「もう、じっくり見ないでよ。色々見えちゃうから」
ミサキちゃんはまんざらでもなさそうにはにかむ。なぜ女性は二十代の後半に入ると自分をおばさん扱いしようとするのか考える。ミサキちゃんは背が低く童顔で、声も高いからずいぶん若く見える。もっとも化粧を落とした顔はまだ知らないけれど。とにかく話題逸らしには成功した。
「そうだ、ユッカ買ってきましたよ」
「あ、買ったんだ。かわいいでしょ」
「かわいいですか?」
「かわいいよ」
ミサキちゃんの趣味である観葉植物の話だ。ユッカはリュウゼツランの仲間で葉っぱがトゲトゲしている。全然かわいくはない。
「よく見たらそうなのかもしれません。もっといろいろ勉強したいので今度植物園行きましょう」
「うん、いいね!」
「――疲れたわあ」
と大声で部屋に入ってきたのは近くの小学校に出向いていた一之瀬先生。最年長の職員で児童からもおじいちゃんと親しまれている。邪気のない温和な人だ。ときどき空気が読めないのがたまにきずだけれど。
仕方なくパソコンに向かい、しばらくは集中してメロディ便りを完成させた。村上先生に確認してもらった後プリントアウトする。
それから当番なのでキッチンでおやつを作る。今日は杏仁豆腐だ。
「手が空いちゃった」
ミサキちゃんがやって来た。手伝ってもらうこともないのだが、追い返したくないのでフルーツを切ってもらった。
調理しながらよもやま話に花を咲かせる。
床のきしみ近づくのが聞こえたので私語をやめる。音で村上先生だとわかる。児童デイや学童の建物は民家の借り上げが多く、ついついくつろいだ雰囲気になって仕事を忘れてしまう。また、国からの補助金で運営しているから仕事意識が薄いのもあるだろう。施設長の村上先生はどうやらそういうルーズさをきらっているようだった。
「二人ともわるいけどもうお迎え行ってくれる?」
「え、もうですか」
おれは時計を見る。
「そこで事故があったみたいで道が混んでるのよ」
「わかりました」
お迎え用の白のワンボックスに乗り込むとひどく熱気がこもっていた。エンジンをかけてエアコンの風量を最大にする。
「暑いね」
ミサキちゃんは助手席でシートベルトを締める。
「ですね」
「なんで今日村上先生がいらだってるか知ってる?」
「知りません。どうしてですか」
「旦那さんと別れるんだって」
「え、夫婦仲わるかったんですか」
おれはつい身を乗り出す。身近なゴシップほど人を惹きつけるものはない。そういったことがらに超然としていたいのだが、俗物根性はそれを許さない。村上先生は私生活が見えてこないタイプの人だと思っていたが、見えていないだけでちゃんと存在したようだ。
「いつも旦那さんの愚痴言ってたもん。なかなか別れきれなかったみたいだけど」
「きっかけがあったんですかね」
「そこまでは知らないけど、別れられてよかったねきっと」
遠くを眺めるような眼差しでミサキちゃんは言った。長年付き合っていた彼氏と数ヶ月前に別れた。そう日曜に打ち明けてくれたのを思い出した。付き合いの終わりごろには、罵声を浴びたり殴られたりもしていたそうだから、幸せいっぱいとは言えなかったはずだ。境遇を自分と重ねているのかもしれない。
児童デイなどの福祉支援施設には自身の生活にもちょっとした問題を抱えた人間が集まりやすい、というのがおれの見解だ。なんとおれ自身もそうなのである。でもおれは自分の問題を打ち明ける気はない。ミヨリのことなんて打ち明けられない。
「そろそろ行きましょうか」
車は走りだす。男女とはなんでこうも面倒くさいのだろう。
二〇分ほど掛けてお迎え先の小学校へと着いた。おれはこのドライブの時間が一番すきだ。とくにミサキちゃんと一緒にいけるときは。
ちょうどチャイムが鳴った。ぞろぞろと小学生が校舎から出てくる。その中からこちらの方へ一直線に走ってくる二人組がいる。マイとケータだ。二人とも知的障害があるが、普通に話しただけだとそれに気が付かない。優しくて子供らしいというのは第一印象だった。児童デイの職員も学校の勉強をやらせてはじめて障害について実感するケースが多い。
「おつかれさま」
「ねえ、はむらセンセー」
後部座席に乗り込むなり、マイが笑いをこらえながら言った。
「だめ、いうな」
ケータは口を塞いで止めようとする。
「ケータがね、いってた。センセーかわいいって」
「ありがとう、ケータ」
ミサキちゃんがくすくす笑う。
「いってない」
ケータは断固として否定する。
「サキもエミルもかわいいんだって」
サキもエミルも児童デイに通う女の子の名前だ。
「みきもとセンセーもはむらセンセーすきなの?」
マイがおれに話を振った。二人は最近色気づいているのだろうか。
「どうだろうな、マイはだれが好きなの?」
おれははぐらかす。
「そんなのいない」
「またまたー」
助手席のミサキちゃんと目くばせする。はにかみ笑いを交わす。それでミサキちゃんもおれのことを憎からず思っていることを確信したのだった。マイとケータには感謝しなければならない。
「それじゃあメロディ行くよ」
6
大学を卒業して、おれは学部とはまったく関係がない地方に展開するケーブルテレビの会社に就職した。本当は保育士か教師になりたかったけれど保育士は給料が安すぎたし、教育実習を通して教師を上手くやれるだけの自信を失っていた。おれはそもそも人に教えられることなどあるのだろうか、そんな自己懐疑に陥り自分の不安を解消できるまでは社会に揉まれてみようと決意した。
営業の仕事だったから、人見知りするおれにとってはつらいものがあったが、先輩に恵まれたこともありなんとかこなせていた。
問題はやはりミヨリとのことだった。
二人で同棲するようになって、順風満帆と言いたいところだが、実際には諍いが絶えなかった。帰宅するたび、休日のたびというと大げさだが、いつなにでミヨリの怒りを買うかわからなかったから、心は休まらなかった。
最大の不幸は、そうであるにもかかわらずミヨリを好きだったことだ。相手もその点に関しては同じでだからこそどれほどひどい喧嘩があっても別れるところまではいかなかった。どちらともなく別れるを口にしたり家を出ることはしょっちゅうだったがそれは一時的なポーズとして終わっていた。
長続きしないがたしかにある幸せと、慢性的な不幸。共依存の関係にあることは心理学を聞きかじっていたおれにもわかっていたが解決の手段が見えずにいた。
ミヨリの通う通信高校は四年生で、その頃にはまだ在学中だったから別れるにせよ卒業するまでは待とうとそう思っていた。いつ結婚しても別れてもおかしくないような不安定な安定がそこにはあった。
ときおりミヨリを連れて実家――といっても賃貸アパートなのだが――に帰ったが、そういうときにはミヨリはすごぶる感じがよかった。基本的に外面はよくしようと努力するタイプではあるのだ。
その日実家を訪問すると、母は豪勢な料理を作って待っていた。
「こんばんは、ご無沙汰してます」
「ミヨリちゃんよく来てくれたね」
母はニコニコして出迎えた。
「ケンジはひどいことしてない?」
「はい、御木本さん。――じゃなかったケンジさんはいつもやさしいですよ。いつもお世話になるばかりで」
どれほど仲良くなっても御木本さんという呼び名が抜けなかった。別に構わないが結婚したら違和感があるだろうなとよく冗談を言った。
ミヨリの家庭が複雑であることは、詳細をぼかして母に告げてあった。
とにかくあまり個人的な話を振らないでやってくれ、そう打ち合わせしておいた。
そのせいもあって、母を交えての食事はいつも和やかなものだった。
そんな母があるときミヨリにこう尋ねた。
「ところでミヨリちゃんはケンジと一緒になるつもりなの?」
「は、はい。ケンジさんさえよければ」
おれはそのやり取りを横で聞いていて、なにか口を出すタイミングを逃してしまったけれど内心嬉しかった。ミヨリとはよく結婚の話もしていた。喧嘩するたびに本当にこいつでいいのかとためらいが生じるけれど、それでも少しずつ前進していた。
しかしその晩ミヨリが帰ったあとに、母はこう呟いた。
「心配なんだよ。ミヨリちゃんと付き合い出してから無理してるのも、あんたがよく落ち込んでるのが伝わるから。本音を言うと、わたしはあんたにはあの子から離れてほしい」
他人が他人に抱く、表面上の態度とは異なる感情を垣間見ると、なにか裏切られたような気持になってしまう。ことにその二者が自分に近しい存在であれば。
「そんなこと……」
おれは口ごもった。
「それでもおれはミヨリといたいんだよ」
「そうなの」
それきり母はこのことについて触れてこなかった。
その時期に仙台の大学に進学していた遠藤が地元に帰って来ていた。マメな男だから仙台にいる間も頻繁にメールを送ってくれていたが、おれはミヨリとの交際のわるい側面については一切触れてこなかった。久しぶりに飲もう、となって向かい合った際、酒のはずみでそのことが口をついて出た。一度話し始めると堰を切ったように止まらなかった。舌がなめらかに動いて日頃の辛苦を吐き出していく。
さしもの遠藤もこう言った。
「やめとけと言いたいけど、おまえのことだから意見なんて聞かないだろ?」
その通りだった。昔からおれは変わっていない。別れる気などさらさらない。
今度も不幸をあれこれ語るけれども、ただ愚痴を吐き出したかっただけなのだ。言い換えれば愚痴を吐き出さないとやっていけないのに別れる気もなかったのだ。
おれは母の意見も遠藤の意見も、そのほかだれの意見も聞かなかった。
ミヨリが好きだった。だが結局は長い低空飛行のあと墜落した。
7
仕事が終わりアパートの駐車場に着いた。車内時計の青白いデジタル文字は七時半を告げている。
途中デパートに寄って一階の生鮮売り場で食材を、三階の衣料品チェーンで服と下着を一組だけ買ってきた。あの荷物の量じゃ着替えもほとんどないはずだ。それくらい用意してやらないと出て行けもしないだろうから。朝の様子だと服のサイズは変わっていなさそうだ。
そんな事情でずいぶん遅くなってしまった。できることならもっと遅くなりたい。退勤直後など、あまりにも帰りたくなくてどこかホテルで一泊しようかとさえ考えたけれど、それはやめた。問題から逃げていてはなにも解決しない。そもそもあそこはおれの部屋だ。
車から降り、食材の入った袋と衣類の袋を左手でまとめて握って階段を上る。
おそらく今晩ミヨリはしなだれかかってくるはずだ。それは計算ずくではないが愛情からでもない。やつは自分の欲求を満たすためだけにそうするのだ。いや、本人は愛情のつもりなのだろう。その瞬間だけの、インスタントの愛情なのだが、とにかく当人にとってその瞬間だけは真剣なのだ。そこが悪質だった。だが誘惑に負けてはいけない。寝てしまえばすべてが元の木阿弥になる。
自室のドアの前まで来て一度立ち止まる。灯りが点いていないのだ。ノックをする。反応はない。もう帰ったのかな、と思いながらドアノブを捻る。鍵は掛かっているようだ。寝ているのか?
ドンドンとドアをノックする。これじゃあ朝と立場が逆だなと苦笑いする。その笑みすら消え失せる。いつまで経ってももの音一つしない。
まずい。部屋に入れない。熟睡するのは結構なことだがおれはどうなる。車かホテルか遠藤の家か。いやそれはいやだ。大家を呼ぶことにした。
大家は食事中だったらしく不機嫌そうに出てきた。大家は背の高いやせぎすの老婆で、旦那はおれがここに越してきたときから見たことがない。家庭の内情まで知らないが多分いないのだと思う。。
なにかを疑るような目に対して、事情をオブラートに包んで説明すると不承不承という風に付いてきてくれた。
「御木本さん、鍵失くしたんですか」
大家はドアノブをガチャガチャとあらためてから、渋い顔をして鍵を取り出し開けてくれる。
「なくしてませんって。ちょっと待っててくださいね」
おれは部屋に入る。
いつもと違う臭いがした。
「ミヨリ?」
返事はない。手さぐりに室内灯のスイッチを押す。接触のわるい電球が二、三度ためらいがちに明滅する。
「寝てるんだろ?」
もう一度呼びかけるが、その呼びかけは狭い空間で空しく響く。
室内照明は一度に強く光を放つ。同時に頭の中で思い描いていたすべての想定が壊れた。色合いがおかしい。目の前の光景が赤い。
――血まみれなのだ。
部屋の奥で人が仰向けに倒れている。刃物が左胸に根元まで突き刺さり、Tシャツは赤く染まって重たげだ。布の給水能力を超えてフローリングにはその液体が広がっている。目は重く閉じられていて開く気配はない。部屋に充満していた異臭の正体がはっきりとわかった。
着ているTシャツはおれのもので、それを着ているのはミヨリだった。ミヨリに間違いなかった。
袋を床に放り投げてミヨリの元に駆け寄る。
「おい、ミヨリ!」
頬を叩くがなんの反応もない。皮膚にハリはなく指先から冷たさがこちらの背筋まで伝わってきた。
「どうかしたのー?」
外から大家の声が聞こえた。
おれはミヨリの手前に正座する形で座り込んだ。どういうことなんだ。ふざけてる。
たしかに今朝も死にたいというようなことをほのめかしていた。だけど死ぬなんて、あんなの挨拶だろう? いままで何百回も繰り返したやりとり。それが今回に限って違ったということか。そんなことあってたまるか。
救急車を呼ばないと。はたとそう気が付いた。
早く呼ばないと。