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不等号に刺されて

作者: 馬郡 一

<一>


 痛みすら覚えるほどに強すぎる日差しも少しは落ち着き、日陰に入れば多少の涼しさを感じる頃になった。それでも毎日汗まみれ泥まみれで動き回っている土木作業員たるおれの作業服は、毎日洗っているのにも関わらず、終業近くになれば人様には嗅がせられないようなそれはそれは芳醇な香りを放つ。作業員仲間は、結局のところ皆似たり寄ったりなのでわざわざ人を指して臭いとは言わないが、それでもおれは人一倍汗かきな体質も手伝ってその中でも際立って臭い。そこには多少自信がある。ペットボトルに残った温い麦茶を現場の休憩所で乱暴に飲み干して、今日の作業も無事に終わりを告げた。

 夕方近くともなれば周囲はまったく秋の様相を呈し、けたたましいまでのアブラゼミの声は止み、現場の片隅に目をやればススキが揺れている。頬を撫でる風は僅かに冷たく、誰もいなくなった土曜日の工事現場を静寂が包み込む。

 現場の片付けを終えて、疲れきった身体を引きずり車に放り込む。工事現場で一番よく見る車と言っても過言ではないハイエース。人も荷物もたくさん積めるので現場仕事では大変に重宝する。ウチのやつは年式は随分古いが頑丈だけが取り柄の頑固オヤジといったところである。


 現場から事務所へ帰る車中は誰も口を開かない。暑い最中働いた後で、こんな車内でぺちゃくちゃおしゃべりできるほどもう皆若くはない。この中では若手と呼ばれるおれでさえ、今年でもう34になる。疲れきった肉体にはエンジンの音と振動が心地よく、疲労は不定期な振動で尻を引っぱたいてくる硬いシートの上でも束の間の眠りをもたらしてくれた。

 現場を出て30分ほど走れば事務所に着く。一瞬意識がストンと落ちたら着いているぐらいの距離感。事務所は1階部分が駐車場になっている2階建てのプレハブで、その横に、もはや何がどこにあるのか誰もわからない倉庫が設えてある。

「大平くん、着いたで。みんな先行きよったわ」

 運転手の黒川さんに肩を揺すられ、おれは目が覚めた。

「ああ、すいません。今降ります」

「大平くん、今イビキかいとったで。ちゃんと夜寝てるか?」

 人懐っこいしわくちゃの笑顔でおれの顔を覗き込んでくる。顔が近い。

「寝てますけど、この車の中メッチャ眠なるんですわ」

「ああ、そらわかるわ。ワシも運転しながら寝そうになるからな」

「頼むから寝ないでくださいよ。僕らは寝ますけど」

「殺生やなあ~」

 荷物を肩に担いで、黒川さんと二人でケタケタと笑った。日はすっかり傾いていて、濃い青紫から群青へ、そして夕焼けへと繋がるグラデーションが妙に綺麗だった。


 自家用車やバイクで通勤している連中はそのまま事務所に寄らずに帰って行くのだが、この事務所は比較的駅に近く、おれも3駅先の駅前にある安アパートに住んでいるので電車で通勤している。そんなわけで、さすがにこの殺人的な臭いを放つ作業着で電車に乗るわけにはいかない。だから電車組はいつも着替えるために事務所へ向かうのだが、くったくたに疲れていると2階に上がるのがまた辛い。階段がえらく急なのだ。

 そして事務所に入ると今度は寒い。シャツが絞れるほど汗だくになった身体に冷房は正直応える。働かないくせに暑がりの社長のせいでキンッキンに冷えた事務所はすこぶる居心地が悪く、さっさと外に出ようとそそくさと着替えを始める。剥ぎ取るように脱ぎ捨てた臭い作業服をカバンに詰め込み、そこそこ名のあるブランドのジーンズとポロシャツを着て、香水を少し手首につけ、両手首をこすりつけてから首筋にも香りを移した。今日はこの後野暮用があるので、見てくれの悪いなりにマシな格好をしたかったのだ。

「おう今日はええカッコしてるやん、大平くんにしては珍しいな、さては女か?」

「違いますよ、昔からのツレと久々に飲むんですわ」

「またまたー!隅に置けんのう」

 そうやってからかってくるのは大体決まって噂話好きの田代さんだ。出っ歯のすきっ歯というインパクト抜群の顔に愛嬌を備えた、一目見ただけで忘れられない顔をしている。

 田代さんはおれにはすぐに飽きてしまったのか、もう次のターゲットを物色していた。

 他の現場から帰ってきた同僚たちは、もう着替え終わってタバコを吸っていたり、一緒に帰る作業員の着替えを待っていたりしている。おれ達の現場が一番最後だったらしい。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様でしたー」

 最近新しく入った若い奴らが連れ立って帰っていく。おれが入りたての頃は、誰に言われるでもなく若い奴は先輩が皆帰ってから事務所を出たものだが、古臭い体育会系の不文律は廃れていく運命なのだろう。俺もそのほうがいいと思う。会社というものは感情論でなく、もっとシステマチックに動くべきだというのがおれの持論だ。たとえそれが吹けば飛ぶような土木屋でもだ。

「おう、お疲れー!」

 と返すヒゲ面のベテランおやじ。おれが若い頃、待ってなくていいから早く帰れと言ってくれた人だ。おれはこの人のことが結構好きである。もちろん変な意味でなく。

 

 着替えが済んだおれはトイレに行き、真っ黄色に濃縮された小便をして手を洗い、ヘアワックスで軽く髪型を整えてから休憩所に戻った。汗臭いおっさんの臭いは制汗スプレーやらコロンやらで中和されていたものの、今度はそれらの匂いに咽そうになる。物事には限度がある。芳香も度を過ぎれば刺激臭となる。かくいう俺も香水を付けているのだが。うっかり鼻から息を思いっきり吸ってしまったので、少し咳き込んだ。


「お疲れでした」

 おれも帰ろうと事務所に声を掛け、一通り事務所を見渡してから引き戸に手をやった。

 事務員の女性方は夏なのにカーデガンを羽織り、毛糸のひざ掛けを使っている。小さな事務所なので社長も事務員も同じ部屋にいるのだが、社長はというとこれだけガンガン冷房をかけた上、扇子で顔をあおいでいる。一体どういう温度の感じ方をしているのだろうか。帰ろうとする俺に気付くと、携帯で電話しながらこちらを向いて、手で「ごくろうさん」をした。

 おれは社長に向かって会釈を返した。

 作業員の休憩所に目をやれば、土曜日ということもあってこれから夜の街に繰り出す相談をしている者もそこそこいるが、おれは滅多に外では飲まない。人と飲みたくないというのが正解かもしれない。他人と飲むと酒を殺して飲んでしまう。元々家系的にアルコールに強いというのもあるのだろうが、あるいは無意識に気を張ってしまうのか、外で飲むとどんなに強い酒を飲んでもアルコールを感じられない。他人の前で泥酔して醜態を晒せないというのもあるにはあるが、ドカタのおっさんの前でおれ如き若造が醜態を晒したところで、酒に関して聞くに堪えないほど酷いエピソードを山ほど持っている人達の前では肴にもならない話だろう。しかしやはり人と酒を飲むといくら飲んでも酔えないのだ。酔えない酒を飲んで、ベロベロに酔っ払った同僚を介抱するなどとんでもない話で、何よりヨッパライの話をシラフで聞くのはとても苦痛なのである。壊れたラジカセで同じ曲の同じ部分を延々繰り返し繰り返し聴かされ続ける苦痛と言えば少しは伝わるだろうか。

 そういうわけでなるべく飲みの誘いは断るという努力の甲斐もあり、入社した頃はよく誘われたものだが最近はすっかり誘われなくなった。『仕事はできるが付き合いの悪い奴』がおれの今の評価だ。イヤミでもなんでもなく、この評価はとてもありがたい。今となっては他人と飲みに行くのは大きな現場の打ち上げや忘年会ぐらいのものである。


 しかし何事にも例外というものはある。

 おれが今日こうやってそそくさと帰るのには理由がある。久々に会う親友と酒を飲むからだ。長い出張から帰ってきたらしく、昨日の夕方ごろに突然連絡があった。


 階段を降り、事務所を後にする。グラデーションも落ち着き、群青一色に染まりゆく空にカラスが鳴いている。無駄に重いゲートの隙間に身体を捩じ込み外に出る。錆びきったトタンの看板、木が腐りかけて今にも崩れそうな空き家、おばあちゃんがやっている駄菓子屋もあれば、修繕に次ぐ修繕で未だに入居者が居る長屋、そして番台なんてものがある銭湯。昭和の匂いが強烈に残る路地をぐねぐねと曲がり、仕事の後の空腹に強烈に訴えかけてくるホルモン焼きの匂いを横目に真っ直ぐいくと駅に続く通りに出る。ブロック塀の隙間に夜顔の花が見えた。金木犀の匂い漂う時期も近いだろう。

 通りとの交差点にあるコンビニに立ち寄る。手持ちの現金が足り苦しいので下ろさなければいけない。ATMにカードを入れて、とりあえず3万円下ろし、続いて表示された預金残高に絶望しながら何も買わずにコンビニを出た。

 駅の方を見れば、煌びやかなネオンやLEDの装飾が夜に映えていた。気付けばすっかり日が落ちている。

 通りを5分ほど歩き、駅に着いた。駅前広場は待ち合わせや呼び込みや、これから夜の街に繰り出すたくさんの人たちで溢れかえっている。

 駅前は混み合うので、彼と待ち合わせするときは少し離れたところにある公園と決まっている。少し早歩きで、そこへと向かった。


<二>


 無地の白いTシャツにベージュで無地のリネンシャツを羽織り、何の変哲もないブルーのジーンズを穿き、何の変哲もない白いスニーカー。普通すぎるほど普通のファッションが、逆に目を引く。こいつは昔から衣服に無頓着だった。背丈は180センチをゆうに超える割におれより体重が軽い、いわゆるモヤシ体型だ。遠くからでも目に付くのは長年の付き合い故か、それとも背丈の割に普通すぎるファッション故か。

 背が高い上に顔もいい、鼻は筋が通っていて高く、目は二重で瞳は鳶色、純粋な日本人のはずだが全体的に色素が薄い。一目見れば誰もが認める所謂イケメンで、まるで白人とのハーフのような出で立ちである。それだけになおのことファッションに無頓着なのが非常に惜しまれる。真夏の日差しでこんがりいい色になっている俺と比べるとなおのこと白い。

「こまっちゃん、相変わらずやなあ。一発でわかったわ。元気してた?」

「ああ、ちょっと長期出張やったからお疲れ気味やけど」

 小松篤史、おれは親しみを込めて『こまっちゃん』と呼んでいる。近所に住んでいたよしみで小学校からの付き合いである。

 おれには友達と呼べる人間は元来少なく、こと親友と呼べるのはこまっちゃんぐらいである。別に人付き合いが苦手ということはないが、自分のことを話すのは苦手なので無意識に壁を作ってしまう癖がある。ここから先には触れてくれるなというオーラのようなものが全身から滲み出ているらしく、高校の頃には男女どちらからも話しかけづらいとの評価を頂戴した。本人には全くそんな気はないのだが、苦手なものは苦手なのだ。こまっちゃんはこまっちゃんで、他人が踏み込まれたくない領域に土足で無思慮かつ無遠慮に踏み込んでしまう悪癖があったりして、人付き合いでやらかすことが多かった。どういうキッカケだったかは今となっては定かではないが、中学の終わりごろ、おれが触れてくれるなというところに土足で踏みこんで来るこまっちゃんをおれはいかにうまくやり過ごし、おれが自分をさらけ出せるギリギリのラインをこまっちゃんがいかにうまく超えてくるかという、矛盾の故事のようなやり取りの中でおれ達は打ち解けあい、最終的に何でも話せる親友と呼べる間柄になった。それもこれも、お互いにある程度変わり者だったということだろう。

 こまっちゃんと飲むときはおれもリラックスできるのか、酔うことができる。

「ほな、まあ飲み屋街まで歩こか」

「ぺーやんお前、また太ったんちゃう?」

 こまっちゃんはおれのことをぺーやんと呼ぶ。大平の平をぺいと読ませたニックネームで、お互いに昔から変わらない呼び方だ。

「失敬な、3キロしか増えてへんで」

「太ってるやんけ!」

 こまっちゃんが挨拶代わりに悪態をつくのはいつものことだが、おれは今こまっちゃんに嘘をついた。本当は前に会ったときから5キロ増えている。相変わらず細長いこまっちゃんと並ぶと、おれはさぞかし太く見えていることだろう。


「最初は『とり(しち)』でええかな?」

 こまっちゃんから提案してくるのは珍しい。大抵おれが店を決めておくのが常だが、今日は急な呼び出しだったので特に何も決めていなかった。

「こまっちゃんがええならええよ、久しぶりにあそこのドテ焼き食べたいし」

 ドテ焼きというのは牛スジ肉をこんにゃくなんかと一緒に味噌とみりんで柔らかく煮たもので、味が濃く歯ごたえがあるという点で酒の肴としてはかなりの優等生だ。

「焼鳥屋やのにドテ焼きかい。ああでも、思い出したら食いたなってきたわ」

「そうやろそうやろ、あそこのドテ焼きは味付けが最高や」

「おれはドテ焼きよりハラミのタレをイメージしてんけどな」

「あぁ、それもええなあ」

「鶏のハラミってよそにあんまりないよな、おれあそこの店以外で見たことってほとんどないわ。ぺーやん見たことある?」

「あるとこにはあるで。ハラミなあ。ええな、コリっとしててな、そこそこ脂もあって。ところでハラミってどこの肉?モモとかムネとかはわかるけど、鶏の腹って肉あんまなさそうやん?」

「ぺーやんは何も知らんねんなあ…、鶏のハラミは腹膜、牛とかのハラミは横隔膜や。内臓やねんで」

「腹膜て何?」

「あのなあ……」

 

 そんな会話で空腹を育てながら、特に何を喋るでもなく大通りの歩道を並んで歩く。無言が続いても無理に話さなくてもいい関係というのは実に居心地がいい。無言に耐えかねて無理に話題を振ると、舌が回らなかったり話が続かなかったりして余計に気まずくなる。込み入ったことをいきなり聞くのも、後の酒の席での話題を無駄遣いしてしまうようで気が引ける。おれにとって気を遣う相手といるときの無言の状態というのは針の筵に座っているに等しい。

 こまっちゃんといると無言であっても、どちらかが一方的に喋っても、それを許容する空気がお互いにある。ただ、こまっちゃんの横にいることで胴長短足の典型的日本人体型であり、顔はどう贔屓目に見積もっても中の中、しかも最近ややメタボ気味なおれの外見は、こまっちゃんのいい引き立て役になっているだろう。こまっちゃんと違い、おれは髪型や衣服に気を使っているだけに余計に、である。そこだけは声を大にして不満を述べたい。


「相変わらず信号長いなあ」

 大きな交差点で信号に捕まり、こまっちゃんが溜め息混じりに呟く。

「いつものことや」

 国道の横断歩道の信号は、青の時間がビックリするほど短いのに赤の時間もビックリするほど長い。交通量を考えれば妥当なのだが、信号待ちの人混みにうんざりするので行政には是非地下道の整備を急いでもらいたい。

 横断歩道を渡ってすぐ横の路地に入れば、目指す『とり七』はすぐ近くにある。

 前に来たときと変わらず看板が出ている脇の階段を上り、2階へと向かう。事務所の階段よりは緩やかなのでしんどさはない。見慣れた引き戸を開け、見慣れた暖簾を潜ると、見慣れたカウンターに見慣れた大将が難しい顔をして串に刺さった鶏肉を焼いていた。

「あ、いらっしゃい!」

 引き戸を開ける音に顔を上げた大将がおれたち二人をカウンターの席へと促す。

「久しぶりやね」

 こまっちゃんが大将に声を掛ける。

「おう、こまっちゃんとぺーやんやんか。半年ぶりぐらいか?」

 客商売の気質というか、客の顔を実によく覚えている大将である。一見さん以外は顔を見れば誰々とすっと出てくるのは素直に尊敬の念を抱く。こまっちゃんとぺーやんという呼称は二人の会話から盗み取ったらしく、3度目か4度目に店に来た時から自然とそう呼ばれるようになっていた。

 気難しい顔をしているがそれは元々そういう顔なだけで、とても温厚な人柄が立ち居振る舞いから滲み出ている。

「そうやね、こまっちゃんずっと出張行ってたんやって」

「出張言うてもそんな大したことしてないけどね」

「まあ元気そうで何よりや。二人ともとりあえず生でええか?」

 小さな店に大将と奥さん、それとアルバイトの女の子が1人いる。大将自ら注文を取ることも少なくない。

「うん、生で」

「おれも生でええよ」

 取り急ぎ生ビールを頼むと、おれとこまっちゃんはそれぞれメニューを眺め始めた。

 アルバイトの女の子がおしぼりを持ってきてくれた。こまっちゃんにおしぼりを渡したあと、3秒ほどこまっちゃんをじっと見て、それからおれにおしぼりを渡した。わかってはいたが…おれにおしぼりを渡した後はさっさと別の客に焼きあがった焼鳥を運んでいた。こまっちゃんと街を歩くとこういうことはよくあるので慣れているとはいえ、外見の格差というものは努力だけではどうにもならない。

 外見に数値があるとすれば、間違いなく不等号は閉じた先をおれに向けているだろう。


 食べ物の注文をする前に生ビールが手元にきた。

「んじゃとりあえず乾杯しますか」

 今日はこまっちゃんが主導権を握っている。

「あいよ、カンパイ」

 差し出したジョッキから泡が少し零れ落ちた。

「カンパイ」

 こまっちゃんとジョッキの縁を軽く合わせ、ビールに口をつけた。

 渇ききった口内にビールが染みこむ。疲れ切った身体で飲むビールはあまり苦く感じない、むしろ甘い。一気にジョッキの半分ほどを流し込み、喉を鳴らす。

 自然とプハァと息を吐く。たまらない。みぞおちにほんのりと温もりを覚え、余韻に浸る。一杯目のビールというのはなぜこうも旨いのだろう。正直なところビール自体はそんなに旨いものではないと思う。今だから告白するが、小さい頃父親があまりに旨そうにビールを飲むので、目を盗んで一口頂戴したときは世の中にこんなに不味い飲み物があるのかと思ったものだ。なんで父ちゃんはこんな苦い飲み物を旨そうに飲むのかと思ったが、今はそれがよくわかる。

 アルバイトの子がお通しのほうれん草の胡麻和えを持ってきた。一口つまむ。絶妙な塩味の後に胡麻の風味が口の中いっぱいに広がり、それをビールで流し込む。うむ、旨い。

「モモのタレと、皮のタレ。あとハラミのタレ」

 こまっちゃんがアルバイトの子に注文をした。ならば俺もと、

「おれもモモ。タレで。あとねぎまの塩とドテ焼き!」

 アルバイトの子は伝票に慣れた手つきで書きこみ、大将に注文を告げた。

「あいよっ!ぺーやんはほんまにうちのドテ焼き好きやなぁ」

 と大将が満面の笑みを浮かべる。ドテ焼きには結構自信があるのだろう。


「こまっちゃん、出張ってどこ行ってたん?」

 そろそろいいだろうと、温めておいた話題を振る。

「色々行ってたよ、北海道とか、東北とか」

「今の時期やと涼しそうでええなあ」

「3月から行ってたから、行きしなの頃はメッチャ寒かったけどな。あと今は夏になるとそんなに涼しいことないで、温暖化とかフェーン現象とかあるし」

「そうなんや、まあこっちよりは涼しいやろけど」

「まあそりゃあな、ぺーやんはどうなん?仕事」

 おれにとってはあまり答えたくない質問を振ってくる、予想はしていたのだけれど。

「んー…、あんまり変わらんよ。日々泥まみれ汗まみれ。最近1級土木施工管理技士の資格取ろうと思って勉強してるけど、サッパリや」

「難しそうやなあ。1級って付くとなんでも難しそうやな。大きい現場はどっかやった?」

「そうやなあ…最近やと県立病院の建て替えが一番大きかったかな。頭はスーパーゼネコンやったし」

「へえ、あそこか。昔盲腸やったとき入院したな」

「あったなあ。おれ見舞い行ったん覚えてるわ。中学のときやったな」


 こまっちゃんは大手の商社に勤めている。小学校、中学校、高校と同じだったのに、おれは大学受験に失敗して、浪人せずに近所でアルバイトを転々として最終的に今の会社に落ち着いた。方やこまっちゃんは聞けば誰もが知っている有名大学に現役合格を果たし、今の会社に入社した。確かに勉強はおれよりこまっちゃんのほうが昔から成績が良かったが、それにしてもどこでこんなに差がついたのか。

 それでもこまっちゃんが変わらずにおれと親友として付き合ってくれていることには感謝している。おれがこまっちゃんに勝っていることといえば体力と筋力ぐらいなものだが、こまっちゃんは嫌味もなく、昔からちっとも変わらない。確かにこれだけ立場の差があれば多少おれのほうが卑屈にはなるが、それはいわば常識の範囲内の嫉妬と羨望によるもので、関係を拗らせるほどのものではない。


「串ものお待たせしました」

 アルバイトの子が注文した品をそれぞれの前に置いてくれた。

「ドテ焼きはもうちょっと待ってな!今火入れてるから!」

「ええよ、いつまででも待ってるで」

「ほな明日でええかな」

「そら敵わんなあ」

 とコントのようなやりとりを大将としていると、こまっちゃんはもうハラミを平らげていた。

「こまっちゃん食べんの早いなあ」

「ええやん、旨いし、また頼むし」

 こまっちゃんがグイっとビールを飲み干したので、おれも同じように飲み干して次のビールを頼んだ。


<三>


 2杯目のドテ焼きを平らげたあたりで二人とも焼酎のロックを頼むようになり、いい感じに出来上がってきた。大将は満面の笑みを浮かべながら

「二人とも明日は日曜日やからなんぼ飲んでも平気やろ。タップリ売り上げ貢献してや!」

「「勘弁してや~」」

 勘弁してやの完璧なハーモニーをおれとこまっちゃんで奏でた結果、店が笑いで包まれた。

 大将が、奥さんが、アルバイトの子が、そしておれとこまっちゃん。奥のほうで飲んでいる別のお客さんも、声を殺して笑っていた。その時だった。

 こまっちゃんが急におれの肩に手を置いて、トントン、と叩き、

「ぺーやん、今日はありがとうな」

 と言った。

 きっとおれ以外の誰にも聞こえていないような、そんな声で。一瞬ドキッとするような、色っぽささえある儚げな横顔は、男が見てもうっかり見蕩れてしまうような、そんなある種の妖しさがこまっちゃんにはあった。

 おれはこまっちゃんもそこそこに酔っていると思ったので、冗談めかして

「こまっちゃんかて、こんな底辺職のおれと仲良う付き合ってくれて感謝してるで!」

 と返した。その次の瞬間である。

「お前なあ!!」

 こまっちゃんが立ち上がり、おれの胸倉を掴んで椅子から引き上げた。おれは驚きより何より先に、こまっちゃんにこんな腕力があったのか、と思った。その直後におれはこまっちゃんの右ストレートを鼻っ柱にまともに食らって、とり七の床に尻餅をついていた。なにが起きたのか、見当もつかなかった。

 怒りもなく、ただただ驚きだけで呆然としているおれと、怒りか何かで肩を震わせているこまっちゃんの間に、カウンターから大将が飛び出してきて割り込んだ。

「おいおい、ケンカは表でやってくれよ。ぺーやん、大丈夫か?鼻血、でとるぞ。おいティッシュ持ってきてくれ!」

 奥さんがすぐにティッシュを持ってきてくれた。鼻をかむと、あっという間にティッシュが真っ赤に染まった。半分ぐらいティッシュをちぎって左の鼻の穴に詰め込んだ。

「どないしたんや、こまっちゃんも。今までこんなことなかったやんか」

 困惑した様子で大将もこまっちゃんを見やる。おれはというと、情けないことにまだ事態を飲みこめず、ただ様子を窺うことしかできなかった。こまっちゃんはぜいぜいと大きく肩で息をしている。

「ごめん、ぺーやん。ごめんな」

 こまっちゃんの右手が伸びてきた。おれも右手でそれを掴むと、ぐいっと引き上げられた…かのように思ったら、二人してまた床にこけてしまった。こまっちゃんがおれの上に乗っかっている

「腕力ないんやから、無理すんなよ…」

 おれがこまっちゃんを抱き締めるような格好になった、傍から見ればもうそっちの人に見えそうな、けれども何故かおれはこまっちゃんをそのまましばらく抱き締めていた。いや、おれがこまっちゃんに抱き締められていたのか。

 大将の手を借りて、二人ともようやく起き上がった。

 それから、なんでおれがという気は一切なく、こまっちゃんと二人で大将に平謝りして、会計を済ませて店を出た。幸い財布の中身はそれほど減らずに済んだ。大将が随分まけてくれたらしかった。


「ラーメンでも食う?」

 階段を降りながらおれが言う。

「そやなあ。締めは大事やな」

 こまっちゃんが言う。


 歩いて2分ほどのところの、何の変哲もないラーメン屋で、何の変哲もないしょうゆラーメンを二人で食べた。ラーメンを注文してから食べきるまで、結局お互い何も言わなかった。

 そのままラーメン屋を出て、おれとこまっちゃんは、何も言葉を交わさないまま、同じ方向へと歩いていた。

 空はすっかり暗くなっていて、薄曇りの空に星は見えなかった。街灯が過ぎるごとに、二人の影が後ろから前へ縮み伸びしているのを眺めながら歩いていた。きっと、おれもこまっちゃんも歩く先に何があるのかはわかっていた。30分ほど無言のまま、駅と反対方向にずうっと、二人で並んで歩いていた。青白い街灯に照らされるこまっちゃんの横顔は、どこか悲しげにも見えた。歩く先には、滑り台とブランコと、それとベンチだけがある小さな公園がある。

 おれとこまっちゃんは、何か人生の分岐点に立つような相談があるときは、いつだって無言のままここに歩いてきた。おれが大学受験を諦めたとき、こまっちゃんの就職のとき、おれが当時付き合っていた彼女に振られたとき、こまっちゃんが仕事でミスをして、本気で辞めようかと思っていたのをおれが留まらせたとき。枚挙に暇がないが、おれとこまっちゃんは歩いていた。いい加減な傾斜の上り坂と下り坂が続く道を無言で、それでいて優しく踏みしめながら。

 

 おれはベンチに座り、こまっちゃんはブランコに腰かけた。こまっちゃんが少し動くたびに、ギィギィと音が鳴った。

「こまっちゃん、なんかあったんか」

「いや、そんなんちゃうねん」

「ほんなら、なんやねん。おれのこと殴るなんか初めてやろ。おれもなんで殴られたんか、わかってないんや。申し訳ないけど」

「ちゃうねん。うん、そういうんじゃないねん」

「ちゃうも何も、おれとり七で鼻血ブーこいてもうたがな」

「いや、うん。ごめんな」

「ごめんも何も、殴られたことも別にええねんけど。こまっちゃんやったら。せやけどちゃんと言うてくれな、おれアホやからわからへん」


 おそらく数分、たったの数分、静寂が訪れた。二人の吐息以外、まったく何の音もしなかった。吹き抜ける風は、きっともう肌寒さを纏っていた。けれども酔って体温の上がったおれには心地よかった。

 

 こまっちゃんがようやく口を開いた。

「おれらが高校のとき、カラオケでようミスチル歌ってたやん」

「歌ってたな。こまっちゃん、ミスチルの桜井に声似てるからな」

「おれが一番好きな曲何か知ってる?」

「何やったかな、歌詞は出てくる。『今僕のいる場所が~』ってやつやろ」

「ぺーやん、記憶力はええな」

「自慢ちゃうけどな、それに、こまっちゃんのことやし」


 こまっちゃんは儚げな顔で笑った。それから、アカペラで、Mr.Childrenの『Any』を唄いはじめた。


"今僕のいる場所が 探してたのと違っても

間違いじゃない きっと答えは一つじゃない

何度も手を加えた 汚れた自画像にほら

また12色の心で 好きな背景を書き足してく"

「こんな感じかな」

 こまっちゃんは、今日一番の顔で笑った。おれもたぶん、笑っていた。


 数秒の沈黙の後、こまっちゃんが言った。

「ボチボチ帰ろか、おれちょっとやることあるし」

「そうなん?こんな時間から?」

 時間は22時を回っていた。

「うん。ちょっとな」

「仕事?」

「まあ、仕事……かな」

「うへえ、大変やなあ。せやけど、けっこう酔ってるけど大丈夫か」

「酔ってたほうが都合ええこともあるんや」

「そんなもんなんか」

「そんなもんなんよ」

 こまっちゃんが笑った。

 おれもつられて笑った。

 こまっちゃんが腰を上げた。

 おれもつられて立ち上がる。


 おれとこまっちゃんは元来た道を戻っていた。

 結局のところ、おれが殴られた理由も、こまっちゃんが怒った理由も、ばかな俺には何もわからなかった。道中でタクシーを拾って、こまっちゃんは帰って行った。

 おれはとり七の奥さんに貰ったティッシュを鼻に詰め直して、駅へと向かう道を一人歩いた。こまっちゃんに殴られた鼻は、今になって痛くなってきた。労働者の底辺でもがくおれのことを本気で怒ってくれるこまっちゃんは、きっといい奴なんだと思う。けれど、おれは鼻をさすりながら、こまっちゃんに殴られた理由をずっと探していた。


 駅について、改札を通る。終電まで時間はあるが、この時間の電車はけっこう人が乗っていた。どうせ3駅だからとおれは吊り革に掴まって立っていた。うつらうつらとする意識をなんとか保ちながら、降りるべき駅で降りることができた。


 駅に併設してあるコンビニで缶チューハイを何本か買って、家に帰った。


<四>


 さほど飲んだつもりはなかったが、朝起きるのは辛かった。半分寝ているような状態で布団の中でもぞもぞしていると、スマホの通知ランプが光っていることに気が付いた。おれは寝ぼけ眼でスマホを手に取り、通知を見ると、同じ番号から20回も着信があったことに驚いた。電話帳には登録されていない番号だった。

 こまっちゃんと飲んだのはそんなに多くなかったと思う。家に帰ってから飲んだほうがむしろ多いぐらいで、けれどなんとなく緩い二日酔いのような、今まさに飲んだ後のような、脳ミソがふわふわとしているような感覚で、おれはまだ起ききれていなかった。

 スマホのロックを解除して着信履歴を見ていると、最後の1件に留守録が入っていた。知らない番号からの着信は取らない主義だが、留守録が入っているとなるとさすがに別だ。おれは留守録の再生ボタンを押した。そこそこ歳のいった女性の、震えた声がした。


「大平さんの番号で合っていますでしょうか。小松です。突然で驚かれるでしょうが、篤史が亡くなりました。渡したいものがあるので、後で連絡をください。お待ちしています」


 次の瞬間には、完全に目が覚め、おれは原付の鍵を取り、着の身着のままで家を飛び出していた。亡くなった?そんなバカな話があるか。昨日一緒に飲んでいたのに。何かの間違いだ。そうに違いない。

 制限速度は確実にオーバーしていた。信号無視もした。運よく警察には捕まらなかった。とにかく最速、最短でこまっちゃんの実家へと走った。

 そんなに地元から離れていなかったのも幸いして、1時間もしないうちに目的地に着いた。こまっちゃんの家の前に原付を止めて何秒もしないうちに、おれは警察に囲まれていた。

「いや、飲んだのは昨日なので、もうアルコールは抜けているはずで…」

「それは今は問いません、昨日の出来事を教えてもらえますか?小松篤史さんと昨日夕食を共にされていらっしゃいますね」

 ワイシャツ越しに筋骨隆々のシルエットが浮かび上がる、昔ながらの刑事ドラマの刑事のような、そんな男性に声を掛けられた。

 別にやましいこともなかったので、とり七で飲んだこと、殴られたこと、公園に行ったこと、こまっちゃんが帰るまでに起きたすべてのことを話した。

 男は細かくメモを取っていた。それが警察手帳だと理解するのに、それほど時間はかからなかった。男の傍らには、憔悴しきった顔の女性―こまっちゃんのお母さんがいた。

「お母さん、やはり警察としては自殺と判断する以外ありません。お子さんの遺体はこれから司法解剖に回しますが、おそらく睡眠薬による自殺で間違いないと思います。遺書もあることですし」

「遺書?自殺?って、なんなんですか?こまっちゃんは?こまっちゃんどこにおるんですか!」

 おれはすっかり取り乱して男に食ってかかっていた、酒臭い息を咎められなかったのは、この刑事の人柄に助けられたのだと思う。

「落ち着いてください。小松篤史さんは今朝亡くなられました。お母さんから通報があったのは6時半ごろです。死亡推定時刻は3時ごろ、だな?」

「はい」

 神経質そうな男が横から答えた。

「お気持ちはお察しします。これから司法解剖が行われますので…」

 おれは昨日こまっちゃんがそうしたように、刑事の胸倉をいつの間にか掴んでいた。はっとそれに気づいたおれは手を放し、すみません、と一言力なく伝え、しばらく頭が真っ白のまま突っ立っていた。

 刑事がおれの肩をトントンと叩いてくれた。それも昨日、こまっちゃんがそうしてくれたように。


 何人かの警官を残して、警察の車は帰っていった。おそらくそのうちの一台に、袋に詰めたこまっちゃんを乗せて。

「大平くん、久しぶりやね、とりあえず、中入って」

 おれはこまっちゃんのお母さんに導かれるまま、家の中に入った。昔テレビゲームをしに来たときと同じ、懐かしい匂いがした。決して広いとは言えないリビングで、こまっちゃんのお母さんはおれに言った。

「これね、篤史の部屋にあったの」

『遺書』と書かれた封筒と、『ぺーやんへ』と書かれた封筒を、お母さんが差し出した。

「大平くんに宛てたほうは、私も読んでないから」

 その通り、おれに宛てた封筒にはまだテープで封がしてあった。剥がした形跡もない。

「遺書にはなんて書いてあったんですか?」

「仕事に疲れたとか、人間は汚いとか、そんなことが書いてあったよ。けど篤史から大平くんには絶対黙っててくれって言われてたことがあって」

 そう言って、お母さんは涙を流した。顔はなお気丈なままで。

「篤史ね、お父さんと同じ肺がんやったの。健康診断でね、見つかったときにはもう余命1年もないって。タバコも吸わんのにね、あの子ね」

 こまっちゃんのおやじさんは、こまっちゃんがまだ小さいときに肺がんで亡くなったと聞いていた。奇しくもこまっちゃんは、おやじさんと同じ病を患っていたのだ。

「え、じゃあ出張って」

「うん、篤史なりの嘘やと思う。健康診断から休職して、しばらく入院しとったんよ。せやけど大平くんには絶対言うなって。で、一昨日退院したの、ある程度容体も安定したし、本人の希望もあって。それから遺書の最後にね、『本音はこうです。自分は自分のままで死にたい。』って書いてあったの。お父さん、死ぬとき、モルヒネで意識もはっきりしてなくて、篤史、それが嫌やったんやろなって」

「そう…ですか…まあ、あいつ元々細かったし、白かったですからね…気付けなくて…」

「昨日一緒に飲みに行ったの、多分、最期は大平くんに会いたかったんやろなって」

 おれはどう気持ちの整理をつけたものか、逡巡していた。そもそもこまっちゃんがいなくなってしまったという事実自体、現実味を帯びていなかった。

「ごめんね、篤史のことで、急に呼び出して」

「いえ……僕もなんて言ったらいいのかようわからんくて…すいません」

「なんで大平くんが謝るのよ」

 そう言ってお母さんは泣きながら笑った。


「朝いつも起きる時間に起きてこなくてね、朝ご飯作るから篤史呼びにいったの。そしたら篤史まだ寝ててね」

「…」

「起きなさいよって言っても、起きてくれんかったのよ。どんだけ揺すっても、揺すっても、最後はなんか私も腹立ってね、怒鳴ったのに、起きてくれんかった」


 こまっちゃんのお母さんの震える肩を抱いてなお、おれはまだ現実感を得ることができなかった。何しろ、昨日おれは胸倉を持ち上げられたのだ。こまっちゃんがおれの体重を腕で支えられるわけがない、けどこまっちゃんはそうした。不健康であるわけがない。おれは自分に言い聞かせるようにそう考えていた。


「すいません、トイレ借りますね」

 

 そう言っておれはこまっちゃんの家を隅々まで探った。お母さんもきっと気付いていただろうが、咎めることはしなかった。こまっちゃんの部屋の全部の引き出しを開け、押入れを開け、どこかにこまっちゃんが隠れていることを願った。

 しかし世界は残酷だった。


 『ぺーやんへ』と書いた封筒を半分に折ってポケットに入れ、おれは一旦家に帰った。途中、スピード違反でキップを切られてしまった。


<五>


 こまっちゃんの葬式から、もう3年経った。

 夏も終わりに近づき、天高く気持ちの良い快晴のある日、おれは会社を辞めることにした。3年間うだうだと迷っていたけれど、なんとなく大学に行きたいと思ったからだ。意を決して社長に言うと、顔を扇ぎながら、気持ちよく退職を認めてくれた。それも会社都合で。

 つまりおれは失業保険を受け取れる身分になる。とは言え何ヶ月もずっと受け取れるわけではないし、自分のわがままで両親に迷惑もかけられないから、アルバイトをしなければならないだろう。

 けれども、おれは少しだけ、あの時こまっちゃんに殴られた理由がわかった気がしていた。


 こまっちゃんと同じ大学は、どうやったって無理だ。あんな有名私大なんて、今からおれが本気で勉強したって歯牙にもかからないと思う。だから、地元ではそこそこ名前のある大学の赤本を取り寄せて、独学で勉強している。 

 もう秋も近い、英語の文法がまだ苦手だけれど、否応なしに時間は過ぎる。年を越えれば、おれにとっては二度目の受験だ。40歳近いおっさんが新入生とは滑稽ではあるけども、こまっちゃんが生きていれば笑ってくれるだろう。


 こまっちゃん、何も自分から死ぬことはなかっただろう、と今は思う。おれは大きな病気になったことがないから、こまっちゃんの気持ちはわからないけども、おれはまだあいつの『生』というものを諦めきれていない。肺がんで、余命まで宣告されていたのだから、遅かれ早かれこまっちゃんとの別れは訪れていたのだろう。けれど、余命1年なら1年、精一杯生きて、生きた証を額縁に飾るのも悪くなかったんじゃないかとおれは思う。

 もしかしたらその1年のうちに、それこそ天国に昇るような、素晴らしい1日があったかもしれない。残念ながらおれはあれから3年、一度もそんな経験はないが、これから生きていく中できっと、そんな1日があるのだろうと思って生きている。だからとりあえず、今日はメシを食って、おれなりに勉強をして、明日を迎える。


"今僕のいる場所が 探してたのと違っても

間違いじゃない きっと答えは一つじゃない

何度も手を加えた 汚れた自画像にほら

また12色の心で 好きな背景を書き足してく"


 スーパーで酒を買って、あの日のような綺麗なグラデーションの空の下を、こまっちゃんが好きだった歌を口ずさみながら歩く。

 明日はこまっちゃんの命日だ。

『ぺーやんへ』と書いた手紙は、まだ封を開けていない。

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