move 《後》
とさり。
そんな音がしても、何が起こっているかわからなかった。理解できなかった。
師匠が、倒れた。胸には先程師匠に弾かれた自分の砕器が突き刺さっている。
自分で取り上げた相手の武器にかかって倒れる──そんな初歩的なミスを犯すような師匠じゃないのは、わかりきっている。
そこから導き出される答えは一つ。けれど、到底考えられない。いや──認めたくない。
「師匠」
ゆっくり、師匠の傍らに膝をつき、声をかけた。それに反応して師匠の瞼が震え、うっすらと目を開ける。
「なんだ、弟子よ」
口元にはいつも通りの余裕の笑み。
「わざと、ですね?」
もう、断定していいとわかった。
「わざと、タイミングを図って、この短刀を受けた。そうですよね?」
「さすがだな。そのとおりだ」
肯定の意。
やるせない。何故、
「何故、自殺紛いのことを!?」
激情を隠すこともできず言うと、師匠は苦笑いした。
「自殺者のお前が言うか」
「そんなのはどうでもいいんです。今ある記憶の中の師匠からは、自殺するなんて絶対にあり得ないとしか思えなかった。だからです」
弟子であった自分や親友に"生きるための術"を教えてくれた師匠。そんな師匠が死のうとするなんて、その理由が想像もつかない。
「理由が知りたいのか?」
「はい」
「怒るなよ?」
「はい?」
首を傾げる。こちらが怒りを覚えるような理由なのか?
「昔、教えただろう? 全力で挑んでくる相手に手加減することなかれ、と」
「したら切腹でしたよね。よく覚えています」
「だからだよ」
「へ?」
師匠は自嘲気味に笑って、あっさり言った。
「お前に情が湧いてな、手を下せなかった。師は弟子の模範であるべきだろう? だからせめて、その誓いくらいは守ろうと思ったのだ」
「師匠?」
そう呼ぶことくらいしかできない。頭の中が混乱している。とりあえず、師匠が言っているのは
ずっと、手加減をしていた? ということ……?
「──しませんよ」
「ん?」
「許しませんよ、そんなこと!」
「だろうな。手加減されていたなど屈辱でしか──」
「違います」
きっぱりと放たれた否定に師匠がきょとんとする。そんな師匠の表情はかなりレアだったが、今はそれよりも沸々と沸き上がる怒りが勝った。
「ここで死んだら、勝ち逃げじゃないですか! そんなこと、絶対に許しません!!」
そうだ。
結局本気でもない師匠に一回も勝てないまま死なれるとか、手加減以上に屈辱的だ。せめて一回勝ちたい。
そんな思いを込め、師匠を睨み付ける。
「はは、ははははは!」
すると、師匠が噴き出した。つられてか、レイも笑っている。
何かおかしなことを言っただろうか?
「君ってやっぱり、ずれてる」
「全くだ。そこで怒るのか」
む……またずれていると言われた。
なんだか、怒りが削がれた気がする。
「とにもかくにも」
切り替えて倒れた師匠を起こす。
「師匠がこのまま死ぬなんて、許しませんから」
「そうは言うがな」
師匠は胸元に突き刺さる砕器を示す。
「これは致命傷だろう? もう助からんよ」
「それは」
反論の言葉を失う。──そう、死後の世界であるここでも"死"の仕組みは同じ。致命傷を負えば死ぬ。砂のようにばらばらと崩れて消える。
だめです。そんなこと、許しません。──いくらそんなことを言おうと、覆りようのない現実に、無力さを噛みしめるしかできない。
そのとき、
「それはさせません」
ふわりと隣にレイが舞い降りた。
そっと師匠に刺さった砕器と傷口にそれぞれ手を当てる。
傷口に当てた手が仄かに光り出し、砕器を引き抜くとあるはずの傷口はなく、血が溢れることはなかった。服に染みた紅色はさすがに残っていたが、刺した跡は何事もなかったかのように消えている。
「お前、傍観しているんじゃなかったのか?」
師匠が訝しげにレイを伺う。レイの表情からはいつもの無邪気さは消え、真剣さのみが漂っていた。
「貴女に今死なれては困ります」
「……ふふ」
「何かおかしいですか?」
「いいや」
師匠は支える手を振り払い、立ち上がる。
「わかったよ。生きてやろう。それが私の望みでもあるしな」
顔を上げると、優しげな師匠の眼差しと出会う。
「師匠の、望み?」
「ああ──」
師匠の言の葉が、落ちた。
「私はお前たちと出会って、情を移した。移してしまった」
いけない、と思ったのにな、と師匠は呟く。
「人はいつか死ぬものだから、いちいち情なんて移していたら疲れるだけだ。そう、養父に教わった。殺し屋になるときに。養父は殺し屋としても一流だったから、その言葉はしっかりと胸に刻んでいた。忘れないように、忘れないように」
師匠はじっとこちらを見つめる。
「それが、お前に移ったんだろうな。お前は無情な"天使"となった」
つきん、と言葉が刺さる。"天使"──その渾名に痛みを覚える。
師匠は続ける。
「もう一人の弟子の渾名は覚えているか?」
「いいえ」
まだ親友のことはほとんど思い出せていない。顔も、姿かたちもおぼろげで、残っているのは言葉だけ。
「なら、言わないで置こう。
お前たち、私のたった二人の弟子は、私の分身のように育った。お前は、私のある種、養父への誓いのような"他人に情を持ってはいけない"という部分を、もう一人は私が初めて手を染めたあの日に失ったものを、持っていた」
だから、情を──守りたいという思いを、抱いてしまった、と。
師匠の黒髪がさらりと肩から落ちる。
「初めて、わかったよ。私を育てていた、養父の気持ちが。私の知るありとあらゆることを教えていくうちに、お前たちは私に似てきて、成長しているな、と嬉しい反面、怖かった。
こちら側に、来てほしくない──そう思った」
「どうか、お前は来ないでくれ、この道に……」
「言われたときには届かなかった言葉が、今になって、酷く響く。皮肉なものだな」
自嘲めいた笑みを溢し、師匠は言葉を紡ぐ。
「そう気づいたときにはもう手遅れだった。私がお前たちに教えたことのほとんどはこちら側──殺し屋として生きていくための知識だった。お前たちの存在は消えることのない私の罪で、業だ。だからせめて、それをお前たちには悟られないように生きた。
そうしたら、どうだろう。二人の弟子はどんどんこちら側の、深く深く、更なる深みへ、引き摺り込まれるように入っていく。もう止めようにも、どうしようもないところまでお前たちは歪んで、私はそれを眺めることしかできなくて。ならば、せめて、最後まで、見届けなくては、と。残り少ない命数を、お前たちを、お前たちの関係を見守ることに費やそうと決意した」
気づいているか? と師匠が問いかけてきた。
「この世界に招かれるのは、守りたいものを守れなかった阿呆ばかりなんだ」
はっとする。
レイも驚いていた。
規則性なんて、ないと思っていた。神の気まぐれに、法則なんて。
けれど、そのとおりだ。
鎖鎌の少女は弟を守りたいと願いながら、志半ばで殺された。
黒兎は守りたかった弟と離れ、その死に目にも会えず、人狼は兄を守ろうと人を殺したために兄と引き裂かれた。
師匠は──
「私は阿呆だよ。とんでもない阿呆だ。守りたかった二人の弟子を追い込んだのは、私だ。守りたいと気づいたときにはもう、全てが遅かった」
「師匠……」
何を言えばいいのだろう。
何かを守りたい──その思いがわからない自分に、一体どんな言葉が紡げるというのだろう?
名前を呼ぶことくらいしかできない。
「貴女が懺悔する必要はない」
レイが静かに言い放った。
「壊れたのは、貴女に問題があったからじゃありません。二人とも、最初から壊れていた」
「レイ?」
二人──今の流れでそれは自分と親友のことを示すのは間違いない。自分たちのことを知っているような口振りだ。
「だから、貴女が自分を責める必要なんて、ないんです」
「お前、な」
苦々しい表情で師匠は何か言い返そうとしていたが、言葉が出ないのか、開きかけた口を閉ざす。
「私の短刀を、拾ってくれ」
長い沈黙の後、師匠が言った。
「だめです」「いやです」
レイと綺麗にタイミングが合った。そのことにくすりと笑い、師匠が何故だ? と口にする。
「それで自殺されたら僕の努力が無駄になります」
「師匠の死を二度も看取りたくありません」
はは、と師匠が朗らかに笑う。
「私は幸せ者だなぁ」
師匠はそのままころん、と後方に倒れ、灰色の天を仰いで思い切り笑った。
師匠が声を上げて笑うなんて珍しい、と思い、顔を覗いて微笑みかける。
次の瞬間。
もっとあり得ないものを見てしまい、慌てて目を反らす。
師匠の頬を濡らす、二筋の光が、そこにあった。
「あと生き残っているのは、強者ばかりだね。銃士剣士の兄弟のとき、だいぶ減ったからね」
「確かにね」
辺りに、この世界の代名詞と言える殺し合いの地獄絵図はなかった。
白から灰へと変わった世界には血の跡こそ残るものの、人の姿は見られない。少しばかり残っていた人たちも先程切り伏せた。
「もうすぐ長かった殺し合いに決着がつくよ」
「そう」
あまり、感慨はない。
そもそも、自分は輪廻転生なんてしたくはない。ただ、誰もかれもが襲ってくるから、反射で抵抗しただけだ。
あとは──自分のエゴだ。
強い人の思いを断ってあげよう──なんて、傲慢もいいところだ。神にでもなったつもりか? 自分の愚かさに笑えてくる。
それでも、砕器を変え続けた。戦う意味なんて、ちっともわからないのに。
師匠とは何度か手合わせをした。師匠は何も話さなくなった。思いを吐露したからか、すっきりした顔をしている。レイを見るときの切なげな表情は変わらないままだけれど。
レイにあれから変化はない。なんだかんだで灰色に変化した髪について、指摘するタイミングを逸している。他にもレイには聞きたいことが色々あるのだが──聞いていいのだろうか。
自分でもよくわからない危機感のようなものを抱いているせいで、躊躇いが生じる。知ってはいけない気がする。
知ったら、もう──
いや、何を考えているんだ。
知ったらもう戻れない、なんて。
どこに戻りたいっていうんだ……?
わからなくても、世界は進んでいく。