見上げる先に
その日は視界を遮る程の雪が降っていて、私には雪が積もっていました。
皆が皆凍えて歩くこんな日に、一人私を見上げる人がいます。その人はいつだって私を見上げ、一日を過ごすような人でした。何故私を見上げているのか、それは誰にもわからないと思います。きっと彼は彼なりに、思うことがあるのでしょう。彼は厚手のコートを羽織り、安そうなビニール傘をさして、道路の向こう側から、私を見上げています。
人々は彼を不審な目で見て、通り過ぎて行きます。そんな彼は、どのような思いであの場所に立ち続けているのでしょうか。何を考えて、私なんかを見上げているのでしょうか。私には、思いも付かないような理由があるのか、はたまた、変わっているだけなのか。
でも私は、何か理由があって立っているのだと思いたいのです。意味も無く一日を見上げて過ごす。そんなことを、私を作った人間がするとは思えないのです。しかし、私はしがない飾り物。光ることくらいしか出来ません。そんな私が、彼の意志を知ることなど、出来る筈もありません。
今も私は光っています。光る場所を変えては、人間を誘導していきます。止まる人、動く人。全ては私が光るままに動き、人の波は彼を埋め、そして孤独にします。暑い日も、寒い日も。孤独な彼はいつも、それほど遠くない傍にいてくれて。私はそれとなく、幸せを感じていました。無機質な私に、暖かみのある彼がいつもいてくれる。それは私にだけ許された、プログラミングされた機械にとっては贅沢すぎる幸せが、私の中にはありました。
そんな日が何年も続いた雪の降りしきる日のこと。異変は唐突に起きました。彼が、いつもの場所に来なかったのです。当然、誘い合わせている訳ではないのですから、来ないことがあっても不思議ではありません。ですが、一日すら欠かさず来てくれていたのに、唐突に来なくなるのは不自然です。
私は、彼の身を案じました。病気にでもなったのか、それとも、私に興味が無くなったのか。
そして考えれば考える程、後者であるという気持ちが強くなりました。興味が無くなったとかそんな次元の話ではなく、そもそも私を見ていなかったのではないかという気持ちすら、湧き出てきます。
私の幸せは、幻を見ていただけだった。彼が来ない日が二日、三日と延びるにつれて、その気持ちは強くなります。そもそも機械なんかが幸せを望むなど大それた話だったと、そう理解するのに時間は掛かりませんでした。たかだか私は作られた物。改めてそれを実感させられました。
ただ、彼の安否だけは心配です。私なんて、言ってしまえばどうでも良いのです。私に、幸せという感情を抱かせてくれた彼がどうなったのか。それだけがひたすらに気がかりでした。
彼は、死んでしまったのでしょうか。それとも、飽きてしまったのでしょうか。それを確かめることが出来ないもどかしさは、自らの足で動くことの出来る人間にはわかることのない辛さでしょう。いえ、人間であっても、彼の気持ちはきっとわからないと思います。だからこそ人間は話し、コミュニケーションを取るのですから。
そんなある日、うじうじと悩む私に、一筋の光が差しました。彼が、歩いてくるのです。ずぅっと続くケヤキの並木道を、よろよろとした足取りで、それでも一歩ずつ、段々と、近付いてくるのです。その光景は、私にとって嬉しいようであり、悲しいものでもありました。やっぱり、彼は健康ではなかった。それでも、私に会いに来てくれた。そう考えることは間違っているかもしれませんが、今日だけはそう思うことにします。……そう、きっと私にお別れを言いに来たんだ。そう感じました。
表情がわかるくらい彼は私に近付いて、そしていつもの場所で立ち止まりました。じっと私を見上げる。いつもと変わらない風景が、やっと、帰ってきたのです。
ですが、その風景も長くは続きません。なんと、彼は今までとは違う行動を見せたのです。
……彼がこちらに向かって歩いてくるのです。おぼつかない足取りはそのままに、私が下の光を照らしたと同時に、真っ直ぐと、私に向かって。白線を一つ越え、もう一つ越え、そして光が点滅するくらいには、私の足下へと辿り着きました。
もう、私の視界には彼の姿はありません。足下か後ろ側にはいるのでしょうが、見飽きてしまった風景の、どこにも彼はいないのです。そして、ささやかに聞こえてくる、彼の初めての、声。
「やっと。やっと会えた。今まで君を信じて待ち続けていたけど、待っていて本当に良かった……」
「ありがとう。無実だと信じて待ってくれていた貴方がいると思ったから、今まで希望を捨てないでいられたの」
不意に聞こえた女の人の声は。そして彼の声にしても。とても嬉しそうなものでした。
その時に、彼は私ではなく私の後ろを見ていたことを知りました。私は、私の後ろに何があるかを知りません。ですがきっと、彼は彼女のことを待ち続けて、あの場所に立っていたのでしょう。そして、その夢が今、叶ったのです。
私が再び下の光を灯した時、彼は彼女と共に、横断歩道を渡って行きました。幸せそうに手を繋いで、寄り添いながら。泣くことが出来ない私はただ、光を瞬かせることしか出来ませんでした。それが精一杯の、私に出来ることでした。
そしてそれから今日の日まで、私が彼を見ることはありません。私はただの信号機。今日も変わらず、道を渡る人に赤と青の光を届けています