意思
「ミーアさん……」
ボロボロになった服の残骸を脱がし、身体に付いた血を洗い流して横たえたミーアに羽織りを掛けてやるシア。
その瞳は心配そうにミーアの寝顔を見つめていた。
その時、なんの前触れもなく突然炎が燃え上がり瞬く間に部屋を呑み込んだ。
「え!?何これっ!!」
シアは咄嗟に漆黒の翼を広げて風を起こす。
しかし、炎をなぎ払うために生み出された風が部屋中に吹き荒れても肝心の炎はその風に揺らぎもしない。
――ナンダァ ズイブント メズラシイ ケイロノ テングダナ
「誰だっ!!」
ミーアを庇うようにして周りに気を巡らしながらシアは鋭い声を発した。
――イセイガイイナ ガキ ダガ ソンナ ソヨカゼデハ ドウニモナランゾ
「なんだとっ!!!」
元々整った顔立ちをしていたシアだが、そこにあった少女の可愛らしさは天狗と成った時に艶やかな女のそれへと変わっていた。
美しい女の顔が怒りに歪む様というのなかなかに恐ろしいものである。
ミーアを守ろうとする思いも相まって今のシアは以前では考えられない迫力を放っていた。
――ヘェ カオツキダケハ
「軻遇突智」
――チッ ヘイヘイ サッサト カタヅケマスヨ
部屋に入ってきた無月の鋭い声に姿なき声は空気に溶けるように消え、燃え盛る炎のみが残った。
「ムツキさんっ!これはいっ――!?」
この状況を確認しようと近づいてくる無月に向けて口を開いたシアは思わず言葉を詰まらせた。
見慣れた鬼の姿。
猛禽のように鋭い爪、黒曜石を削り出したような黒い一角、漆黒の髪と瞳。その身に纏うのは見慣れた黒衣。しかし、いつもとは違いその口元は引き結ばれ、眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭い光を宿していた。
何より纏う空気が違う。
つい先程まで見せていた静かで落ち着き払った姿も普段見ている飄々とした姿に比べれば無月には珍しい姿ではあるが、これは全くの別物だった。
静かに自身の横に立ちミーアを見つめるその横顔をシアは呆けた顔で見上げていた。
巨大すぎてその全容が掴めず、何かがあると漠然とした理解しかできず只々見上げることしかできない。
そこに在るのは最古の鬼。
悠久の時を生き、数多の敵をねじ伏せきた絶対強者がそこに居た。
「シア、……シアっ」
「えっ?あ、はいっ」
「どうした?」
「い、いえ。すいません……」
「……ふう、まぁいい」
そう言い無月はミーアに掛けてあった羽織りを取るとシアへ押し付けた。
「あっあの、何を?」
一糸纏わぬ姿で横たわるミーアを見下ろす無月、シアの心配そうにミーアを見つめていた瞳が無月の横顔を見上げるとそこにはゾッとするほど鋭い光を宿し瞳があった。
「今回ばかりは力技ではどうにもならん。だが、指くわえて見てるだけなんてのは性分じゃない」
無月は自身の左手を開き右の人差し指の爪を立てその掌を切り裂いた。
【星無き夜を、月無き夜を歩みて道を失い】
言霊を吐くとともに切り裂いた左手を握る、傷口から溢れた血は無月の手を赤く染める。
【光に焦がれ、闇に惑いて、その歩みが止まれども】
血染めの指を無月はミーアの額へと伸ばす。
【求むる真へ手を伸ばす者のため、我、想う】
無月の指がミーアの褐色の肌の上を滑り、顔に首に胸に肩に腕に腹に足に、自らの血でいくつもの模様を描いていく。
【願わくば、夢と現その狭間、迷う心が求む道、我が灯火が導と成りて】
そっと指を離して無月は言霊を括る。
【其が求む道を照らさん事を】
「ムツキさん、これは?」
無月の発する言葉に並々ならぬ力を感じても、その意味までを理解することがシアには出来なかった。
「ミーアが戻ることを望んだ時にその道を照らす為の灯台みたいなもんだ。こればかりは強引に引き戻すわけにもいかんからな。……だが伸ばせる腕は目一杯伸ばす、ミーアは必ずこの手を掴む」
その言葉にシアはぎゅっと羽織りを握り締めてミーアを見つめた。
「ミーアさん……」
その時、姿無き声が再び部屋に響いた。
――ムツキ オワッタゼ
「そうか」
部屋を呑み込んでいた炎は消えた後には何一つ燃えた痕は残らず、無月の傍らに小さな赤い火の玉が浮かんでいた。
――ジャア オレハ ネルゼ タマニ ウゴイタカラ ツカレチマッタ
「ああ、……軻遇突智」
――ア?
「助かった」
――ン マァ ナンダ オマエハ オフクロニモ アワセテクレタシナ オレニ アヤマル キカイヲクレタ ダカラソノ コレクライノコトナラ カマヤシネェヨ
「ああ、……頼りにしている」
――ッ ジャアナ!
声が消えると共に無月の傍らに浮かんでいた火の玉も消え失せた。
「……始めるか」
無月は右手をミーアの額の置き、深く息を吐いた。
【問う、汝は何処に在りや】
無月の紡ぐ言霊に反応したのかミーアの身体に描かれた模様が淡く、紅く光りだした。
その光景に羽織りを握り締めるシアの手に更に力がこもる。
【問う、汝は何を望む】
また一つ言霊を紡ぐ、それに呼応して光もその強さを増していく。
【問う、汝の道は何れに在りや】
更に光が増す。
その様子をシアは不安げに、無月は真っ直ぐに見つめる。
しかし、増していた光は突然揺らぎを見せたかと思うと明滅しだした。
【問うっ、汝は何処に在りやっ、汝はいずれに至りやっ】
明滅する光は次第に強弱の幅が増していく。そして僅かに、しかし確実に減衰していく。
その様子にシアは思わず無月の横顔を見上げた、その何かに耐えるように歪められ噛み締めた牙がギリっと音を立て口の端から血が溢れていた。
「っ!!」
その横顔にシアはこれ以上ないほどの悲壮な表情を浮かべる。
静かにミーアを見つめ、今にも消えそうなほど光が弱まったとき、無月は目を瞑り、深く、深く息を吐いた。
シアはしばらく前からミーアのこと直視できず羽織りを握り締めた両手で顔を覆っていた。
「……巫山戯るな」
目を瞑り、小さく呟かれたその声には無月の抑えきれない怒気が含まれていた。
そして無月は静かに、しかし何より強い意思を込め言霊を放つ。
【いつまで腑抜けてるつもりだ】
砕月の鬼。
それは伊達や酔狂で手に入れた名では決してない。
亡き友と交わした終わりなき約定、不敗の証明、揺るぎなき強者の証。
その無月が、砕月の鬼が初めて同胞と呼んだのがミーアたちだ。
――強く在れ
目を見開きミーアを見据えて無月は怒鳴りつける。
【お前はっ!】
○●○
暗い暗い、光りも届かない水の底。
手足を投げ出し目を閉じたミーアは水が揺らめくに身を任せてゆらゆらと漂っていた。
今は悲鳴も聞こえず、血の匂いもしない、ただ静かに時間が過ぎてゆく。
ミーアは恐怖した。
身体の芯から溶けてしまいそうな甘い甘い血の香り。
肉を抉る感触、骨を潰す感触は愛しい人に触れているかのように心が高ぶり、命燃え尽きる最後の悲鳴は想い人に愛を囁かれるように心地よく耳に心に響く。
苦痛と恐怖に歪む表情は恋人に微笑みかけられた時のように心を満たした。
そう感じてしまう自分が堪らなく怖かった。
(だから、もういい。委ねてしまおう)
――そうよ、抗う事なんてないの。
(怖いのはいやだ)
――分かるわ。
優しく抱きしめられる感覚、その柔らかな感触にミーアの心は堕ちてゆく。
【問う、汝は何処に在りや】
そこへ優しく厳しい声が、何故か遠く懐かしく感じる声が響く。
(あたしは……)
――いいのよ、貴女はここに居れば良いの。
【問う、汝は何を望む】
(あたしが欲しいもの……)
――怯えなくていいの、全てを委ねて。
【問う、汝の道は何れに在りや】
(道、あたしが望んだ道はっ……)
――貴女は委ねて進めばいいの。貴女の望むまま快楽と愉悦の道を。
【問うっ、汝は何処に在りやっ、汝はいずれに至りやっ】
(あたしは、……あたしはっ)
――貴女はここに居る。貴女は怯えず、怖がらず、安らぎを求めていればいいの。
(違うっ!あたしはっ!あたしはっ!)
――貴女は委ねればいいの、そうすれば何も怖くない。
(それは弱さだ、あたしはっ)
――弱さじゃない、貴女は強さを、力を持っている。
(振り回されているだけだっ!そんなモノは力でも強さでもない!)
――いいえ、これは力。貴女の力、だから振るいなさい酔いしれなさい。
(違う!そんな物を望んだんじゃないっ!あたしが望んだのはっ!!)
――望んだのは敵を滅ぼす力。ほら、違わない。貴女は敵を殺した。
優しいだけの声に僅かにヒヤリとした冷たさが混じる。
(快楽に酔いたいんじゃない、あたしは守る力が欲しかった)
――では、貴女はどうするの?……怯えるばかりの貴方が。
ミーアの心を挫こうと更に冷たさの増した声。
(あたしは……)
――どうする事も出来ない、だから貴女はここに居る。
逃がさないとでも言うようにミーアを抱きしめる腕の力が増した。
(あたしは……)
――貴女は考えなくていいの、ここに居れば良いのよ。
(あた、しは……)
【いつまで腑抜けてるつもりだ】
刃のような鋭さを纏って力強い声がミーアの耳に届く。
(っ!……あたしはっ、あたしは意思をもってアンタを従える!)
――貴女に出来るの?
「やってやる!……あたしはっ!」
ミーアはカッと目を開き腹の底から声を張り上げる。
――貴女は?
【お前はっ!】
「あたしはっ!!!」
【「砕月の鬼が百鬼夜行に名を連ねる者ぞっ!!!」】




