鬼と人 其の二
神無が無月に挑んでから数ヶ月が過ぎた。
この数ヶ月、神無が無月の前に現れることはなかった。しかし、無月は神無が再び挑んでくる事を確信しているようで何処か楽しげにあの時と同じ場所で月を見上げていた。
「おいっ!鬼!」
威勢良く自身を呼ぶ声に無月は口元に牙を覗かせながら笑みを浮かべ振り返る。
「来たか、童」
「童じゃねぇっ!神無だっ!」
「そうだったな、しかし名乗ったのはお前だけじゃないはずだが」
意地の悪い笑顔を浮かべながらそんな事を言う無月に神無はムスっとしながら口を開く。
「約定は覚えてるだろうな、無月」
「酒は持ってきたかよぉ、神無」
そして神無は無月に瓢箪を投げて寄越す。
それを受け取った無月は栓を抜き瓢箪を呷った。
「かはぁーっ、なかなか良いの持ってきたじゃねぇが、……んじゃやるか」
そう言って栓をして瓢箪を岩の上に置くと無月は神無の方へ近づいて行く。
「ちったぁ成長したか?」
「たりめぇだ、今夜は俺が勝つ!」
神無に向かい歩く無月、無月に対し拳を構える神無。
勝負は始まった。
「そうかいっ!ではどの程度のもんか見せてもらおうかっ!」
駆け出す神無に無月は右拳を振り上げる、構わず駆ける神無。唸りを上げ振り下ろされた拳に神無は自らの左拳を合わせる。
互いの拳がぶつかった瞬間、およそ拳を打ち合った音とは思えない轟音が響き衝撃に大気が震えた。
まずは挨拶がわりの一合。神無は己の研鑽を示し、無月はその成長を計る。
「ほうっ!たかだか月が数回満ち欠けを繰り返しただけの時間でこれほど変わるか。やるじゃねぇか」
驚き笑う無月に神無は当然といった顔で応じた。
「テメェが言ったんじゃねぇか。生きる時間が違うんだ、短い生を生きる人は一時たりとも無駄にできねぇんだよ」
「そうだな……だがまだ足りんぞ」
言うと同時に無月は右拳を突き出したまま左腕を後ろへ伸ばすと体を沈め神無の脇腹を狙い掬い上げるように平手を繰り出す、神無は躱し距離を取るため後ろに跳ぶ、しかし無月の左腕から逃れることはできたがそれから生じた風圧に捉えられ体勢を崩した。
その隙を無月が見逃すわけもなく振り上げた左手を握ると、一足飛びに神無との距離を詰めその頭上に戦鎚よろしくその豪腕を振り下ろす。どうにか腕を交差させ受け止めた神無だがその両足は杭のように地面に沈み込んだ。
両腕を無月の左腕に押さえられ、両足は地面に埋まってしまった神無。
「まぁ、受けられただけ上出来だろう」
そう言って無月は薙ぎ払うように右腕を振り、神無のガラ空きの胴へ叩きつけた。
○●○
「よう、生きてるかー」
瓢箪の酒を呷りながらへし折れた巨木の根本へと無月は近づいて行く。
「生きてるらしい、指先すら動かせねぇがな」
「どれ……」
無月は巨木の根元で空を見上げるように寝転んでいる神無を見下ろし目を細めた。
「力の使いすぎだな、搾りカスすら残ってねぇ。まぁ暫くすれば動けるようになるだろうよ」
そう言って無月は神無の横に腰を下ろす。
天を遮っていた巨木が折れたおかげで見上げる空には月が輝いていた。
「お前も可笑しな男よな神無。ただ森に居るだけの鬼にわざわざ挑んでくるのだからなぁ、人に害なす妖しならいくらでもいるだろうに。お前の力ならそいつらを狩ったほうが実入りは良いだろうに」
「夢を追うことが俺にとって生きることだ。それを捨てるなら死んでるのと同じだ」
「頂辺か……」
「力が有り技が有る、ならば留まる理由があるかよ。上を目指すのは当然だろうが」
神無の言葉を聞き無月は月を仰ぎながら両の目を閉じ羨むように語った。
「当然か、……俺みたいに気付いた時にはそういうモノとして世界に在った奴には理解できん事かもしれんな」
そこまで言って息を吐き再び月を見ながら酒を呷り無月は言葉を続ける。
「神も人も妖しも最初は全ての者が突然この世界に生まれた。あれからそれなりの時が経つなぁ。あの頃は喧嘩吹っかけてくる奴が昼も夜も無く居たんだがなぁ……片っ端からのしていったら俺の周りも随分静かになっちまった。命があってもお前のように『次』なんて言ってのける奴はいなかった」
挑み敗れ生きて帰る。それはすなわち弱者の烙印、決して他者に知られてはならなかった文字通りの弱肉強食の時代、弱き者はただ喰われるのみ。
「ケッ、自慢かよ」
神無の反応に無月は苦笑いを浮かべ「そうでもないんだがな」と呟くとそこからは一言も発することなく無言で酒を呷っていた。
そうして神無の横で暫く酒を呑んでいると体が動かせるようになった神無がムクリと起き上がる。
「歩けるか?」
「ったりまえだ」
「そうか」
そう言うと無月は森をスッと指差す、するとボッボッボッと次々と青白い火の玉が浮かび上がり森の中へと続いていく。
「鬼火か……」
それを見た神無はそう呟いた。
「森の外まで続いている、これに沿って歩けば獣も近づいてこないだろう」
「……一応礼は言っておく。だが次は勝つ!」
「あぁ、また来い」
去る神無の背中にそんな言葉を投げ無月は森の中へ消えていく神無を見送ったのだった。
それからも神無は無月に挑んでは敗れを繰り返しながら一年、二年と時が過ぎていった、初めの頃こそ一方的に力の差を見せつけられていた神無だが、いつの頃からか無月と殴り合いができるまでになり、敗れた後は無月と酒を酌み交わすようになっていた。
――ちっ!てめぇをぶっ殺した時にコイツで祝杯あげようと思って用意した酒だったのによ
――はっはっはっ!そいつは残念だったなっ!また俺の勝ちだ
――次こそはぜってぇぶっ殺してやるっ!
――おおさ、その時はまた良い酒を持ってこいよ
そんな事を言い合いながら盃を煽る無月と神無
――おいっ無月!てめぇの首を獲るのは俺だっ!神だの妖しだのに殺やられやがったら許さねぇからなっ忘れんなよ!
――おう、約束だ。俺を負かすのはお前だ。だからとっとと強くなれ
そして15年の時が過ぎた。
○●○
とある集落。
焚かれた篝火が照らす広場に老いた者、若い者問わず数十人の男たちが円を描くように座している。
その円の中央には猛者の風格を纏う男が一人、向けられる男たちの視線に揺らぐことなく正面を見据えただ静かに座っていた。
「神無よ、いつまで鬼に拘ってるつもりじゃ」
無月に挑み敗れ、己を鍛え技を磨き歳を重ねた神無。かつての少年は15年という年月を経て一族の誰もがその力を認める戦人となっていた。
「何度も言ってきたはずだ長老、始まりの大妖、原初の鬼。それを俺は超える」
「莫迦なことを、そんな鬼が居ればその名が広く知れているのが当然であろう。しかしその鬼の名を口にするのはお主しかおらぬ。その鬼が昔語りに出てくる原初の鬼なら、なぜ誰も知らぬ」
――深き森に鬼在り。その鬼、世界とともに生まれ出てた始まりの妖し。
――その強き力、並ぶ者を許さず。力ある者、その悉くを討ち滅ぼす者なり。
人に伝わる昔語り、その一節。
己の力を絶対とする者、他の追随を許さぬ者。
無月に敗れた者は口を閉ざし、畏れた者は近づかず。そうして時が過ぎ、無月の名は忘れられ昔語りのなかだけの存在になってしまっていた。
「大方、どこぞで昔語りを知った鬼が騙っておるのだろう、森から出てこぬのがその証拠であろう。所詮『名乗る名も持たぬ者』よ、捨て置け。我らには成すべき事がある」
神無は目を細め対面に座る老人を見据える。
「国盗りか……つまらん。駒として戦ったところで何になる。使い潰されるだけではないか」
「マシラ様がこの地を統べる神と成られた暁にはその眷属として迎えてくださる」
「信じられるものか。力を示すどころか戦場に姿を見せることも無く、酒を寄越せ女を寄越せと言ってくるような者なぞ」
怒りを隠そうともせず、そう吐き捨てる神無。
それに対し周りの男たちは怒り声を上げた。
「口が過ぎるぞっ神無!」
「その言いようはなんじゃっ!」
「不敬であろうっ」
「我が一族が長き時をお仕えしてきたお方だぞ!」
そう口々に神無を責める男たち。
「やめんか」
その男たちを制し、場を鎮めた老人は神無を見据え口を開く。
「全てを捧げマシラ様にお仕えするは我が一族の掟。背くことは許されぬ、神無よ――」
「もういい」
老人の言葉を遮った神無は静かに立ち上がり背を向けて歩き出す。
「待たぬか!神無!」
呼び止める声に留まる事はなく、神無はその場より去っていった。
「神無の奴め……」
「長老、この儘にしておいてはっ」
「長老っ!」
「わかっておる、わかってはおるがカガチの土地を獲れぬ事にマシラ様は大層苛立っておられる。やはり、あやつの力は惜しい・・・」
○●○
「……っ!」
苛立ちを呑み込むかのように一息に盃を呷る神無。
「どうした、随分荒れてるじゃねぇか。動きも雑だったぞ、どこに心を置いてきた」
空いた神無の盃に酒を注ぎながら無月は神無に声をかける。
「そんなことはっ……いや、そうだな。どいつもこいつも莫迦ばっかりだと思ってな」
「おうおう、お前が言うならそいつらは相当な莫迦だ」
「どういう事だ……」
無月を睨みつけながら神無は低い声で問うた。そんな神無に無月はくつくつと笑いながら酒を呷る
「やられっぱなしでも懲りずに俺の所に来るような莫迦が言うんだから相当なもんだろうって話だ」
自分の盃に酒を注ぎながら無月はそう答える。
それに対し神無は「うるせぇ」とそっぽを向き盃を口に運んだ。
そこからしばらく互いに無言で酒を呑んでいるとフッと笑った神無が呟いた。
「ここは静かだな……」
「お前が来るようになって騒がしくなったがな」
神無の呟きにそう返す無月はからかうような、どこか楽しげな、そんな声音であった。
「ああ、そうかよっ。だがな、外はもっと騒がしいぞ」
「そうなのか?」
「神も妖しも人も、殺して殺されて、……あっちもこっちも戦ばかりだ」
「昔とさして変わらぬなぁ」
なんの感慨も無くそう漏らす無月の言葉を首を振りながら神無がそれを否定した。「お前の言う昔とは在りようが違う」と、しかし「そうか」とやはり興味無さそうに返す無月を見て神無は老人の言葉を思い出した。
「無月、お前はなぜ森から出んのだ。ここに留まる理由でもあるのか?」
「いや、無いが・・・出る理由も無い」
「何かを望むものはないのか?」
「さぁてなぁ……望む、か……無いな。昔は酒を取りに出ることもあったが、いつの頃からかそれもしなくなったしなぁ」
そんな事を言う無月は見ながら神無は、まるで無月に表情を見せぬように酒を呷り天を仰ぐ。
(先にお前に出会えていたら、我が一族も今とは違う道を歩めただろうかな、なぁ無月)
それを言葉にすることはなく神無は月を見上げていた。
○●○
光が届くことない洞窟、その奥からはカツン、ゴリッ、ぞぶり、と音が響いていた。
その洞窟の入口で老人は頭を地に着けて自らが仕える者の名を呼ぶ。
「マシラ様」
「おお、朗太か。どうじゃ、カガチは討てたか?」
金切り声とまではいかないが、頭の奥にキンキンと不快に響く声、その声に問われた老人は頭を地に着けたままじっとりと汗を滲ませる。
「申し訳ございませんっ、マシラ様。今しばらくお待ち頂きたくっ・・・必ず、必ずやっカガチの地をマシラ様に献上いたします故。どうか、今しばらく――」
「その台詞は聞き飽きたわっ!役立たずがっ!!!」
罵声と共に投げられたモノが月明かりに照らされる、転がった女の裸体。しかし、胸から上は無く腹に残った臓物が血と共に飛び出し老人の前へと転がる。
「どうかっ、どうかぁっ!」
「ちっ!……あまり待たせるなっ」
「ははぁっ!」
とりあえずの許しを得た老人はホッと息を吐くが次いで洞窟から響いて来た言葉に焦らずにはいれなかった。
「ところで朗太よ、随分と生意気な奴がおるようだが。何故、生かしておる?」
「マシラ様っ!あの者はカガチの地を獲るに必要な力っ。あの者についてはどうかっ我らにお任せいただ――」
バッと顔を上げた老人は必死に言い繕おうとするが、それは許されなかった。
「黙れっ。己らの全てを捧げること、それに背く者はその首を差し出す。それが古き時代に交わされた約定っ、それを違えるかっ!!」
怒鳴りつけ、老人を黙らせた声、しかし一転して穏やかな声音でもって老人へと言葉を告げた、しかしその声は今までのどれよりも不快な声であった。
「まぁ良いわ、己らがやらぬと言うなら儂が直々に手を下してやろう・・・」
その言葉に老人は頭を垂れるしかなかった。




