一
その時、ごん、と何かが当たった。
思わず、痛っ、と声が出る。
手で触れると、額がぴりっと痛んだ。たんこぶができているかもしれない。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
二年生――私よりも実力が上――は申し訳無さそうな表情を引っ付けて心配そうな声音で聞く。
「だいじょぶだよー」
私はへら、と薄ら笑いを浮かべた。本当はまだひりひり痛むけど、部活が出来ないほどではない。
ほんと、アホらしい。バドミントンの部活中に後輩のスマッシュを顔面で受けて蹲るなんて。
「ほんと、大丈夫? 穂波、大会終わって気ぃ抜けてんじゃないの?」
「そーかも」
素直に頷きながら、見上げると、悠子は気の強そうな顔でこちらを見下ろしていた。眉は上品に吊り上がり、大きい瞳は真っ黒で刺すような鋭さを持って、口はへの字に曲がっている。私はマゾではないから、こんな風に見下ろされても、何らいい気持ちはしない。こんな、絶対気の合いそうもない女の子が、私の親友なのだから、不思議なものだ。
六月の大会が終わって一週間。大会で負けた悔しさも綺麗さっぱりなくなってしまった。大会が終わった後、今度は勝とうって必死になって、ジョギングしたり、腕立てしたり、V字バランスしたり、風呂上りにストレッチしたり。見事に全て三日坊主で終わってしまった。風呂上りのストレッチぐらいはしとこうかな、って思うけど、いっつも忘れる。
「次の大会は私等、最後の大会なんだから、真剣にやろーよ。ね」
悠子は今度の大会でも優勝確実だから、そんなこと言えるんだよ。曖昧に頷きながらも、そんなことを考えてしまう私が居る。どーせ私は一回も勝てずに、応援係だもん。
悠子は、私の友達兼バドミントン部の部長だ。背は私よりも小さいのに、スマッシュを決めるときは、私よりもずっと背が高くなる。私が何処に打っても、ぜーんぶ取られちゃう。入部した時から、悠子に勝ったことは一度も無い。まぁ、私が下手すぎるのもあるんだけど。
「今日、やっぱ、一年来ないのかな」
私が体育館のドアに目を向けるけど、そのドアは完全に閉められていて、開けられる気配が全く感じられない。
「来ないんじゃない? 鈴ちゃんにあんなこと言われちゃーね」
悠子は小さく溜め息を吐いて、肩をすくめた。
*
事の発端は、一年生が鈴ちゃんの目の前で、悠子に対しての不満を言ったことから始まる。
「今日はグラウンドのランニング五周ね。皆、大会で良い結果残せなかったんだし、今日から気を引き締めて練習しようね」
悠子はどこか余裕をひけらかすような笑顔で言う。
――皆、大会で良い結果残せなかったんだし
この言葉に皆がむっとしたのは、空気で分かった。
悠子は他人に対してストレートに本心を言ってしまう。それは悠子の美点でもあるのだけれど、他人が気にしていることまでハッキリ言ってしまうものだから、時々ムカッとしてしまうことがある。それでいて、本人は全く自覚がない。
悠子、それ自慢? 悠子は良いよね、いつも大会で優勝できて、鈴ちゃんにも気に入られていて、後輩にも憧れの存在で。
醜い嫉妬心が疼き、それを、喉寸前のところで飲みこんで、笑顔を浮かべる。
悠子は私よりもずっと上手いし、練習だって私よりもずっとしてる。悠子の両親はインターハイ出身だし、中途半端な気持ちでやってる私とは、訳が違うのだ。
「ん、頑張る」
私は上手く笑顔をつくれているだろうか。自分でも口元がひきつるのを感じる。
「じゃー、さっさと靴履き替えてー」
私の心配は無用だったようで、悠子は全く気づかない様子で、靴を履き替える。
私も足を通した靴のつま先をとんとん、と床につけて履き慣らし、体育館シューズを下駄箱にしまう。
グランドまで歩いている途中、職員室の前を通っていたとき、後ろから一年生の会話が聞こえてきた。今まで全然耳を傾けていなかったのに、一つの台詞がす、と耳に入り込んできた。
「悠子先輩、すごい偉そうだよね」
「そうそう。ランニングとか、マジめんどい」
仮にも悠子は先輩だ。先輩の悪口を言うなんて、今年の一年は度胸がある。私が一年の頃は口が裂けても言えなかったのに。悠子に対する悪口の怒りよりも、変な感心を覚えてしまったのは、やっぱり、私も悠子に対して不満を抱いていたからだろう。
あーあ。五年も付き合っている友達に対して、自分はなんて薄情なんだろう。
私は悪口には乗らず、でも直接止めるでもなく、耳を傾ける。
「ムカつく」
ふっくらとした厚い唇から発せられる言葉は、どうしようもなく下品だ。他の一年生も、ねー、と顔を見合わせる。女子のねちっこさを垣間見た気がして、小さな不快感を覚えた。
一人じゃ、何にも出来ないくせに。
「おい」
後ろから聞こえたその低い声にびくっと反応してしまったのは、きっと一年生も一緒だろう。
振り返ると、その声の主、鈴ちゃんこと、鈴村先生が居たのだ。日に焼けた大きい体、常に眉間に皺を寄せた状態の顔。たまたま職員室から出るときに一年の会話が聞こえたのだろう。不機嫌そうなのはいつもだが、普段は感じない強い威圧感のようなものを感じる。
「ニ・三年はそのまま練習を続けて。一年、職員室に来なさい」
鈴ちゃんは静かな口調でそう告げると、踵を返し職員室へ戻っていった。
あーあ。タイミングが悪かったね、一年生。
そう考えている頭の隅っこで、ざまーみろ、と思っている自分が居る。さっきまで、口に出していないとはいえ、一年に同調していたのに、自分の頭は自分の都合の良いように出来ているらしい。
*
それから、約一時間後、一年生は泣きながら帰ってきた。謝りに行けとでも言われたのだろう。こういう、先生に言われてからバカ正直にその通りにするあたりは小学生っぽいところが抜けてない。
一年生でバド部に入部して、鈴ちゃんが顧問だと聞いたとき、本当にやめたいと思ったのを、覚えている。でも、鈴ちゃんは何だかんだ言って優しいから、怒られるのに慣れれば、どうってことない。……って言おうとおもったけれど、まだ怒られるのに慣れていない一年生に言っても、何の慰めにもならないだろうから黙っていた。
「悠子先輩、ごめんなさい」
目を伏せ苦しげに眉を寄せて言葉を紡ぐ姿は、ぱっと見健気だが、心の中は鈴ちゃんに対しての不満でいっぱいなのだということが容易に想像できた。
「いいよ、別に。それより、練習再開しよ?」
悠子の声には棘がなく、純粋にそうしたいのが感じ取れた。
悠子には簡単に私が説明した。「一年が部活めんどくさいとか言ってたから、鈴ちゃんが怒ったの」っていう、比較的、悠子にあまりダメージがないような言い方で。悠子は私の言葉を信じたのか、今年の一年はなってないね、なんて笑いながら言っていた。
でも、一年生は涙を拭いながら、固い決意をしたような目をして強い口調で言った。
「あたし、部活やめたい」
「あたしも」
悠子はその言葉を聞いて、突然、す、と温度が抜けたような口調で「どうして?」と問う。一年生も、悠子の口調に若干気圧されながらも、おずおずと口を開いた。
「鈴村先生が、やる気ないならやめちまえって」
私は知っている。鈴ちゃんが、やめちまえって言うときは、大体やめて欲しくないときだ。きっと、鈴ちゃんは、一年生に期待しているのだ。「頑張ります。だから、部活を続けさせてください」と、泣きながら許しを請うのを。
「そっか。でも、やめたいなら、やめてもいいよ? ま、二人ぐらいは残ってね」
悠子は明るい声で言っていたが、内容はかなり冷めていた。一年生も拍子抜けしたようにお互いの顔を見回している。
結局、その日は下校時刻が迫っていたから、お流れになった。
「大体、一年生は無理矢理先生が入れたようなもんだからね。やる気がなくてもいいからー、なんて言われて入ったのに、やる気がないならやめちまえ! だもんね。そりゃ、やめたくもなるよ」
私は呆れ口調で言った。
結果として、朝練をやりはじめて十分過ぎたけれど、全く来る気配がない。
「ま、鈴ちゃんなりの愛の表現なんでしょ」
そんなクサイ台詞を吐きながら、悠子は、ばしん、という音を立てて、スマッシュで床にシャトルを叩きつけると、すっきりとした顔つきで、
「よし。んじゃ、今日の朝練はこれで終わり!」
大きく宣言した。




